子供の頃に住んでいた家には、裏手に空き地があった。
そこの地主はかなり立派な家で、庭も広かった。
敷地内には工場があり、その地主はその工場の社長さんだったようだった。
工場の裏手にあった空き地には、草がぼうぼうと生え、一定間隔で生えていた木には、夏になると蝉がとまって、あたりに鳴き声を響かせていた。
アブラゼミも多かったが、ミンミンゼミもよく鳴いていた。
そんな環境が家の隣にあったので、友達と遊ぶ予定も時間的余裕もない時(例えば夕方)などに、ふとその空き地に行き一人でウロウロしていた。夕飯までの短い時間に遊ぶには、ちょうどよかった。
虫を探したり捕まえたりするわけでもなく、雑草や木のある環境を歩くのが好きだった、ちょっとした「自然環境」でもあったし、私は子供の頃から自然環境が好きだったのだろう。
で、雑草の中を歩いていると・・・よく足に触れてくる草があった。
それはネコジャラシという草であった。
ネコジャラシ。
正式名は狗尾草(エノコログサ)というらしい。
なんでも、イネ科に属する草で、食用にも使える草らしい。
さすがイネ科(笑)。
で
今ではもう時効だと思うので書いてしまうが、そのネコジャラシの形が好きなので、・・・よく引っこ抜いて持ち歩いて空き地散策していた。
何かに使えないかと思って持ち歩いていたはずだったのだが、特に使い道らしきものはなく、ただただ持ち歩いていただけであった。
時には家にも持ち帰ったりもした。
家で、なんとかこの草を使って遊べないかと思って。
だが、家の中でも、使い道は・・・なかった。
あの草は、文字通り、ネコをじゃらすにももってこいだったらしい。
なので、もしも家でネコを飼っていたら、ネコジャラシでネコをあやして(?)遊んだことだろう。
だが、家ではネコは飼ってなかった。
正直、子供の時からネコは大好きで、子猫をひろってきては、家でネコを飼いたい趣旨のことを親に頼んだことは何度もある。
でも、家で飼うことは許してもらえなかった。
もしもネコジャラシの食用以外の一番いい「使い道」がネコをじゃらすことであるのなら、家に持ち帰ってもネコを飼っていない以上、やはり・・・これという使い道はなかった。
使い道が特にないことが幼心にも分かっていながら、よく引っこ抜いて持ち歩いていたのは、なぜだったのだろう。
ただ・・夕飯までの短い夕焼けの時間帯に、一人で片手にネコジャラシを持って、空き地の雑草の中や木の間を歩く私を、夕焼けが照らしてくれるのが好きだったのかもしれない。
ネコジャラシが食用にも使えることは、このネタを書くにあたって少しネコジャラシのことを検索して初めて知った次第である。
もしも子供時代にネコジャラシが食用に使えることが分かっていたのなら、空き地で引っこ抜いたネコジャラシを母に渡したかもしれない。
火であぶって醤油で味つけしたり、天ぷらにして食べることができるらしい。
醤油で味つけすると、ポップコーンによく似た風味になるらしい。それって・・・けっこうグッドなのでは?
ただ、ウィキペディアによると、これを終戦直後に大量に食べて中毒を起こした学者もいたらしいとか。
まあ、何事も「ほどほどに」なのだろうね。
まあ、食用としての使い道を知らなかった私としては、ネコジャラシのあの感触が好きだった。
それだけは確かだ。
ちなみに、ネコジャラシが生えていた「空き地」は、もう影も形もなく、今では大きなマンションが建っている。
空き地に生えていた雑草や木は・・そして空き地だった場所は、今やすべてマンションに押しつぶされ続けている・・というわけだ。
子供にとっては、よい遊び場だったのに、残念。
今では、少なくても都心では、子供の遊び場にもなり、雑草や木が生えている空き地は・・・・まず見かけない。
名残がかろうじて残っていたりしても、工事中で、柵が立てられて中に入れなくなってたりする。
でも、空き地の雑草や木の中で一人で過ごし、まわりの家家のいくつかはシルエットと化して、自分も含め夕焼けに照らされながら、夕飯が出来るのを待っている時の穏やかな気分を、今の都心の子供は味わえないわけだ。
なんだか人生の幼少期の印象的な瞬間を味わえないのは、もったいない気はしている。
なかなか、いいものだったから。
ネコジャラシの記憶。
それは私にとって、空き地の記憶である。
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