
「詩人」というのは、自らそう名乗るものではなく、第3者から呼ばれるものではないかと私は思っている。
自ら自分のことを「詩人」と言ってしまう人を見たり聞いたりしてると どうもしっくりこない(まあ、全員がそうだとは言わないけれど)。
往々にして・・詩人を気取ると、独りよがりになってしまいやすい。
へたしたら、気取った、はなもちならない奴になってしまいかねないことすらある。
で、それに自分自身そうなってしまっていることに気づいていない・・・そんな感じになってしまうケースもあるのでは。
自らを「詩人」という人は、それは第3者にそう呼んでもらいたいから、「自分は詩人なのだ」「私を詩人と呼んでくれ」とアピールしてるように見えることがある。
「俺は詩人なのだ」「私は詩人よ」というアピールは、私にはパロディに見えてしかたがないのだ(笑)。
だが、パロディとして聞く分には、楽しい。
パロディとしては、むしろ好きだ。
この感覚、なぜなんだろう。
それは
きっと
「詩人」という存在に、私は尊敬の念を持ってるからではないだろうか。
私にとって「詩人」とは尊称なのだ。
だから、真剣な意味では簡単には「私は詩人なのだ」と言って欲しくない。
「詩人」は、安っぽい存在ではないと私は思っている。
エセ詩人になることは簡単なのかもしれない。
でも、本当の「詩人」は、常人がなかなかたどり着けない位置にいるように思う。
こんなことを書いてしまうと、詩人になろうとしてる人や、自分は詩人だと思っている人には反発されてしまうに違いない。
でも・・ここに書いていることが、私の偽らざる気持ちであるのもまた事実。
なぜ、私はそこまで「詩人」というものを高みに位置づけてしまうのだろう。
それはきっと・・・十代の多感な頃に読んだ、何冊かの詩集の衝撃が私の中で大きすぎたからに違いない。
当時・・・通学の行き帰りには必ず何かの本を読んでた私。通学にはけっこう時間がかかったから、その時間を無駄にしたくなかった。
読んでた本は、エッセイの類の柔らかな本もあったけど、相対的には文学が多かった。
で、その文学の中には、古い時代の詩人の詩集もあった。
中原中也、室生犀星、ランボー、ポー、ヴェルレーヌ、ボードレール、などなど・・。
ボブ・ディランに傾倒するからには、世界の詩人の色々な詩を読んでみなければ!という思いもあったように思う。
ディランの歌詞は難しい・・と言われてたが、私は「抽象的」という印象を持っていた。もっとも、言葉の一節一節の選び方や並べ方には、ぞっこんだったけど。
室生犀星に関しては・・面目ない限りなのだが、よく覚えていない。
中原中也には、グッときた。一流の「詩人」でありながら、一流の「作詞家」でもあると思った。
ランボーは、難しかった。特に「酔いどれ船」という詩は、すごいと思ったが、内容は難しかった。彼が詩を書いていた頃と、当時の私の年齢がそれほど開きがない・・というのは衝撃だった。才能の違い・・というものを、ひしひしと感じた。「差」というのは、こういうものかと思った。どう考えても、近づけそうになかった。
ポーは、私は彼の小説が好きで、全集を読破した覚えがある。
なので詩集もよんだのだが、彼の作品はやはり詩よりも小説のほうがグッときた。
ヴェルレーヌは、和訳の仕方もあったのだろうか、気高く感じた。崇高にも思えた。
で、ボードレールは・・その「悪の華」という詩集には・・グッときた。
外国人の詩では、一番グッときた。
私は、ボードレールと中原中也みたいな詩を書いてみたい・・と思った。
いや「歌詞」を書いてみたいと思った。
で、ノートにしこしこと詩を書いていた。
けっこうな量になった。
だが・・・その数年後、私は自作曲は、よりポップスな方向性を目指すようになった。
そうなると、それらの歌詞と、自分の作るメロディが、どうにも合わない。
また、時をおいて、当時書いた歌詞を読むと、どうにも意味不明だったり、支離滅裂だったり、やたら小難しいふりをした内容であったり、理屈っぽかったり。
どうにも、はなもちならない内容。
後で読みかえして、自分が嫌になったりもした(笑)。
小難しいふりをしたり意味不明のように見えても、自分としてはちゃんと意味があるものだったのだが、独りよがり感は否めなかった。
つまり、今書いてるこのブログネタは、かつての自分を批判していることになる(笑)。
実際、その当時に書いた自作曲を集めて録音したカセットテープを、周りの音楽仲間に聴かせたところ・・
「お前、一体どうしちゃったんだ?」 とか・・
「どうも最近のお前の収録曲を聴いてると、お前はやたら気難しく、気取った奴に見えるぜ」 とか・・
「支離滅裂で意味不明。」 とか・・
「なにインテリぶってるんだ」 とか・・
「ついに頭がおかしくなったか」とか・・
その他、いやはや散々な感想を頂戴したものだった(笑)。
困るのは、そういう感想を聞いて、多少傷つきはしたものの、むしろ「わが意を得たり」みたいな感覚も持ち、どこかニヤリとしてたりもしたので、始末が悪かった。
まさに自己満足もいいところだった。
いやはや、お恥ずかしい・・。
その後、色んなロック音楽の訳詩を読んでもみたが、総じて海外のロックの歌詞は、抽象的な内容が多いように思えた。
それは、かっこいいとも思ったが、一方で、私の過ごしてきた環境に対する私の感じ方とは、、距離を感じた。
それは一連の海外詩人の詩集に感じたのと似ていた。育ってきた環境や、感じ方の違いからくる距離間は、どうしようもなかった。
だが、古い時代の一流詩人たちの詩集に詰まっていた言葉の持つ凄みや使い方、選び方、感じ方、表現の仕方、・・その他、色々な要素は、非常に大きなインパクトがあった。
自分とはほど遠い存在や内容だったので、なおさら。
自分の書いてきた「歌詞」が、恥ずかしくなった。
世の中から「詩人」として認められてきた人たちの詩は、そんじょそこらの詩とはまったく次元が違うように思えた。
新鮮であり、衝撃だった。
なまじ感受性の強い十代の頃に、そういう詩集に出会った・・ということも大きかったのだろう。
それ以来・・・詩人というものは、そういう人たちのようなグレードの詩を書く人たちのことだと、刷り込まれてしまったのだった。
おかげで、「俺は詩人なのだ」「私は詩人よ」みたいなスタンスの人たちを見ると、どうにもしっくりこなくなってしまったのだった・・。
自己申告ではなく、尊称として第3者から「詩人」と呼んでもらえる人こそ、詩人たるにふさわしい・・・と思うようになった。
でも、詩には色んなタイプがある。
詩人の作風はそれぞれ。
読んだ人が、その詩の作者を「詩人」と思えれば、その詩の作者は十分「詩人」なのだと思う。
ただ単にその詩の作者自身が「私は詩人なのだ」と言ってしまうのに、どうもしっくりこないものがあるだけで。
こんな感覚、私だけであろうか・・。
自分では案外、簡単な理屈だとは思っているんだけど(笑)。
・・色々書いてきたが、こんなことを書いてしまうのは、やはり、私が「詩人」という存在に憧れもし、リスペクトしているからだろうなあ、きっと。
自ら自分のことを「詩人」と言ってしまう人を見たり聞いたりしてると どうもしっくりこない(まあ、全員がそうだとは言わないけれど)。
往々にして・・詩人を気取ると、独りよがりになってしまいやすい。
へたしたら、気取った、はなもちならない奴になってしまいかねないことすらある。
で、それに自分自身そうなってしまっていることに気づいていない・・・そんな感じになってしまうケースもあるのでは。
自らを「詩人」という人は、それは第3者にそう呼んでもらいたいから、「自分は詩人なのだ」「私を詩人と呼んでくれ」とアピールしてるように見えることがある。
「俺は詩人なのだ」「私は詩人よ」というアピールは、私にはパロディに見えてしかたがないのだ(笑)。
だが、パロディとして聞く分には、楽しい。
パロディとしては、むしろ好きだ。
この感覚、なぜなんだろう。
それは
きっと
「詩人」という存在に、私は尊敬の念を持ってるからではないだろうか。
私にとって「詩人」とは尊称なのだ。
だから、真剣な意味では簡単には「私は詩人なのだ」と言って欲しくない。
「詩人」は、安っぽい存在ではないと私は思っている。
エセ詩人になることは簡単なのかもしれない。
でも、本当の「詩人」は、常人がなかなかたどり着けない位置にいるように思う。
こんなことを書いてしまうと、詩人になろうとしてる人や、自分は詩人だと思っている人には反発されてしまうに違いない。
でも・・ここに書いていることが、私の偽らざる気持ちであるのもまた事実。
なぜ、私はそこまで「詩人」というものを高みに位置づけてしまうのだろう。
それはきっと・・・十代の多感な頃に読んだ、何冊かの詩集の衝撃が私の中で大きすぎたからに違いない。
当時・・・通学の行き帰りには必ず何かの本を読んでた私。通学にはけっこう時間がかかったから、その時間を無駄にしたくなかった。
読んでた本は、エッセイの類の柔らかな本もあったけど、相対的には文学が多かった。
で、その文学の中には、古い時代の詩人の詩集もあった。
中原中也、室生犀星、ランボー、ポー、ヴェルレーヌ、ボードレール、などなど・・。
ボブ・ディランに傾倒するからには、世界の詩人の色々な詩を読んでみなければ!という思いもあったように思う。
ディランの歌詞は難しい・・と言われてたが、私は「抽象的」という印象を持っていた。もっとも、言葉の一節一節の選び方や並べ方には、ぞっこんだったけど。
室生犀星に関しては・・面目ない限りなのだが、よく覚えていない。
中原中也には、グッときた。一流の「詩人」でありながら、一流の「作詞家」でもあると思った。
ランボーは、難しかった。特に「酔いどれ船」という詩は、すごいと思ったが、内容は難しかった。彼が詩を書いていた頃と、当時の私の年齢がそれほど開きがない・・というのは衝撃だった。才能の違い・・というものを、ひしひしと感じた。「差」というのは、こういうものかと思った。どう考えても、近づけそうになかった。
ポーは、私は彼の小説が好きで、全集を読破した覚えがある。
なので詩集もよんだのだが、彼の作品はやはり詩よりも小説のほうがグッときた。
ヴェルレーヌは、和訳の仕方もあったのだろうか、気高く感じた。崇高にも思えた。
で、ボードレールは・・その「悪の華」という詩集には・・グッときた。
外国人の詩では、一番グッときた。
私は、ボードレールと中原中也みたいな詩を書いてみたい・・と思った。
いや「歌詞」を書いてみたいと思った。
で、ノートにしこしこと詩を書いていた。
けっこうな量になった。
だが・・・その数年後、私は自作曲は、よりポップスな方向性を目指すようになった。
そうなると、それらの歌詞と、自分の作るメロディが、どうにも合わない。
また、時をおいて、当時書いた歌詞を読むと、どうにも意味不明だったり、支離滅裂だったり、やたら小難しいふりをした内容であったり、理屈っぽかったり。
どうにも、はなもちならない内容。
後で読みかえして、自分が嫌になったりもした(笑)。
小難しいふりをしたり意味不明のように見えても、自分としてはちゃんと意味があるものだったのだが、独りよがり感は否めなかった。
つまり、今書いてるこのブログネタは、かつての自分を批判していることになる(笑)。
実際、その当時に書いた自作曲を集めて録音したカセットテープを、周りの音楽仲間に聴かせたところ・・
「お前、一体どうしちゃったんだ?」 とか・・
「どうも最近のお前の収録曲を聴いてると、お前はやたら気難しく、気取った奴に見えるぜ」 とか・・
「支離滅裂で意味不明。」 とか・・
「なにインテリぶってるんだ」 とか・・
「ついに頭がおかしくなったか」とか・・
その他、いやはや散々な感想を頂戴したものだった(笑)。
困るのは、そういう感想を聞いて、多少傷つきはしたものの、むしろ「わが意を得たり」みたいな感覚も持ち、どこかニヤリとしてたりもしたので、始末が悪かった。
まさに自己満足もいいところだった。
いやはや、お恥ずかしい・・。
その後、色んなロック音楽の訳詩を読んでもみたが、総じて海外のロックの歌詞は、抽象的な内容が多いように思えた。
それは、かっこいいとも思ったが、一方で、私の過ごしてきた環境に対する私の感じ方とは、、距離を感じた。
それは一連の海外詩人の詩集に感じたのと似ていた。育ってきた環境や、感じ方の違いからくる距離間は、どうしようもなかった。
だが、古い時代の一流詩人たちの詩集に詰まっていた言葉の持つ凄みや使い方、選び方、感じ方、表現の仕方、・・その他、色々な要素は、非常に大きなインパクトがあった。
自分とはほど遠い存在や内容だったので、なおさら。
自分の書いてきた「歌詞」が、恥ずかしくなった。
世の中から「詩人」として認められてきた人たちの詩は、そんじょそこらの詩とはまったく次元が違うように思えた。
新鮮であり、衝撃だった。
なまじ感受性の強い十代の頃に、そういう詩集に出会った・・ということも大きかったのだろう。
それ以来・・・詩人というものは、そういう人たちのようなグレードの詩を書く人たちのことだと、刷り込まれてしまったのだった。
おかげで、「俺は詩人なのだ」「私は詩人よ」みたいなスタンスの人たちを見ると、どうにもしっくりこなくなってしまったのだった・・。
自己申告ではなく、尊称として第3者から「詩人」と呼んでもらえる人こそ、詩人たるにふさわしい・・・と思うようになった。
でも、詩には色んなタイプがある。
詩人の作風はそれぞれ。
読んだ人が、その詩の作者を「詩人」と思えれば、その詩の作者は十分「詩人」なのだと思う。
ただ単にその詩の作者自身が「私は詩人なのだ」と言ってしまうのに、どうもしっくりこないものがあるだけで。
こんな感覚、私だけであろうか・・。
自分では案外、簡単な理屈だとは思っているんだけど(笑)。
・・色々書いてきたが、こんなことを書いてしまうのは、やはり、私が「詩人」という存在に憧れもし、リスペクトしているからだろうなあ、きっと。