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善通寺に捕虜収容所 第二次世界大戦中に国内初

2011-09-16 01:58:19 | Kagawa
◇市民団体が17日訪問「手がかり得たい」

第二次世界大戦中、善通寺市に連合軍将兵の捕虜収容所があったことを知る人は、地元でも少ない。

連合軍捕虜の問題を調査研究している市民団体「POW研究会」(共同代表=内海愛子さん、福林徹さん)のメンバーが17日、02年3月の発足以来初めて同市を訪れ、跡地巡りなどをする。

この捕虜収容所は「第二次大戦中に国内で初めて設置された」とされるものの、残る史料が少なく、研究会は実態解明の手がかりを得たいと考えている。【松田学】


研究会によると、大戦中、捕虜になった連合軍将兵は米、英、オランダなどの計約14万人。うち約3万6000人が日本へ連行され、軍需工場や鉱山、造船所などで働いた。生活は貧しく、飢えや病気などで終戦までに亡くなった人も少なくないという。

「善通寺俘虜(ふりょ)収容所」は、旧県立善通寺西高校の校舎が建つ同市文京町にあった。

開設は、太平洋戦争開戦から1カ月後の1942(昭和17)年1月。以後、同様の収容所が全国に約130カ所設けられた。

善通寺市史には、「(収容所の開設は)大阪、東京が昭和17年9月、函館、福岡が翌年12月、名古屋、広島、仙台が昭和20年の3月であった。

いかに善通寺が早い開設だったかがわかる」との記述がある。しかし、収容者は開設時が約400人、終戦時が約110人とされるが、延べ人数などはわからない。

ただ、研究会事務局長の笹本妙子さん(63)=横浜市=によると、「残されている史料などから、将校の比率が高かったことがうかがえる」と話す。

善通寺市史にも、他の収容所は2%台だったのに比べ、善通寺の収容所は開設時、44・5%だったとの記載がある。

なぜ、善通寺で最初に開設されたのか。なぜ、将校が多かったのか。疑問はわくが、終戦時に関係書類が焼却され、国も記録していないため詳しい事情は分からない。

県内唯一の研究会会員の森広幸さん(50)=三豊市三野町=は、関係者から聞き取り調査を行い、当時の写真を集めている。収集した写真には、制服姿で町中の精肉店で買い物をしたり、収容所内で仲間と談笑する姿もあった。

笹本さんは「他の収容所に比べて待遇が良く、捕虜の待遇などを定めたジュネーブ条約を順守していることをアピールするプロパガンダ(宣伝)収容所だった」とみている。

森さんは今月10日、同市の県立高瀬高校の文化祭で集めた写真を展示した。「事情を知る人の大半が亡くなり、史料も少ないが、大戦中、県内に重要な施設があったことを後世に伝える努力は続けたい」と話す。

研究会の同市訪問には、全国から会員11人が参加。跡地を見て回り、収容所で亡くなった捕虜の墓参りなどをするという。【毎日新聞より】





収容所は善通寺西高校と善通寺西中の場所にあったようです。


確かに善通寺には旧軍隊の建物が、当時のまま移築されることなく現在も使用されてます。


しかし捕虜収容所があったことは確かに地元の人もあまり知らないと思う。



善通寺捕虜収容所


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