【般若心経その12】
=== 別の本の意味と解説その3 ===
*****(5)
① 無無明 むむみょう
② 亦無無明尽 やくむむみょうじん
③ 乃至無老死 ないしむろうし
④ 亦無老死尽 やくむろうしじん
⑤ 無苦集滅道 むくしゅうめつどう
⑥ 無智亦無得 むちゃくむとく
【意味】
① 無明なく
② 無明の滅もない
② 老死(までの苦が生じる過程)はなく
③ 老死の滅もない
④ 苦・集・滅・道もない
⑤ 知るということもなく、得るということもない
【解説】
・人はなぜ苦しむのか。釈迦はその原因を追究し、
苦が生まれる因果関係をつきとめた。
それを、十二縁起(十二支縁起、十二因縁)と言う。
・十二縁起とは、
① 無明(むみょう):無知
⇒ ② 行(ぎょう):自己形成
⇒ ③ 識(しき):認識作用
⇒ ④ 各色(みょうしき):自我の諸要素
⇒ ⑤ 六処(ろくしょ):6つの感覚
⇒ ⑥ 蝕(そく):対象との接触
⇒ ⑦ 受(じゅ):感情
⇒ ⑧ 愛(あい):欲望
⇒ ⑨ 取(しゅ):執着
⇒ ⑩ 有(う):生存
⇒ ⑪ 生(しょう):生活
⇒ ⑫ 老死(ろうし):老いと死
・十二縁起を「①が②を生み、②が③を生み・・・」と
「原因⇒結果」として観察することを「順観」という。
これに対して「①がなくなれば(滅尽すれば)②が
なくなり(滅尽し)・・・」と「原因の滅尽⇒結果の
滅尽」として観察することを「逆観」という
・本文①~④は、4階「五蘊(自己)は空であるとする
観自在菩薩のフロア」から眺めると、十二縁起は
(順観と逆観のいずれにおいても)すべて無いと
いう意味である。
・本文⑤は「四諦」は無いと言っている。
「諦」は「明らかにする」と意味である。
・本文⑥の「智」は、釈迦が四諦八正道によって
得た「智」のことである。
・「自己を突き詰めると、諸法という要素に解体され、
固定した自我は存在しない」が仏教の基本的な考え方である。
・なぜ自己があるように見えるのか、研究者たちは、「どこかに
諸法を結合させたり分離させたりする働きがあるため、
個性が生じて自己が存在しているように見える」と考えた。
・この諸法を結合させる働きを「得」、分離させる働きを「非得」と
言う。
・本文⑥は、上記の「智」も「得」もないと言っている。なお、
大本では「得もなく」の後に「得もなく非得もない」と続く。
すなわち、般若心経(小本)では「非得もない」が省略されている。
*****(6)
① 以無所得故 菩提薩埵 いむしょとくこ ぼだいさった
③ 依般若波羅蜜多故 心無罜礙 えはんにゃはらみったこ しんむけいげ
③ 無罜礙故 無有恐怖 むけいげこ むうくふ
④ 遠離一切顛倒夢想 おんりいっさいでんどうむそう
⑤ 究竟涅槃 くぎょうねはん
【意味】
① (この故に)ここにはいかなるものもないから、菩薩は
② 般若波羅蜜多(智慧の完成)を拠り所として、心の妨げなく安住している
③ 心の妨げがないので恐れがなく
④ ないものをあると考えるような見方を超越していて
⑤ まったく開放された境地にいる
【解説】
・大本に書かれている舎利子のふたつ目の質問
「そのビジョンを得る手段は何か?」の答えが
この箇所から始まっている。
・菩提は「悟り」、薩埵は「一人」という意味の音写語で、
菩提薩埵は「修行者」のことである。
・菩薩たちは、般若波羅蜜多をスローガンとして祈り、
瞑想し、この言葉に込められた意味を追求したのである。
・そのことを、菩提の代表として、観自在菩薩が語っている。
・本文②は、「般若波羅蜜多(という真言)によらずして、
このような成果は得られないのだ」と強調している。
・「罜礙」の「罜」は「ひっかけるもの」、「礙」は「妨げるもの」を
意味する。原語の「アーヴァナラ」(妨げるもの、閉ざされたもの、
覆うもの)を漢訳するために作られた学術用語。
・本文②の「妨げ」は「諸法の実在観」のことである。
・恐怖の原因は「閉ざされている」という感覚である。
例えば、死の恐怖は「死から逃れられない」と思うから
生じる。「逃れられない」は「閉ざされている」と同じ
意味である。
・本文③は、妨げるものがないので、心が開放され、
恐れがなくなるという意味になる。
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(その13に続く)
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