【般若心経その9】
=== 因果と業について ===
この世の法則性を、仏教では「因果」と呼ぶ。
因果とは、ものごとの原因と結果の法則のことである。
「業」とは、私たちがなんらかの意思を持って
ものごとを行おうとする際に発生するパワーで、
悪いことをすれば「悪業」のパワーが生まれ、
善いことをすれば「善業」のパワーが生まれる。
これらの「悪業」や「善業」が私たちを将来、
楽なところや嫌なところへ引っ張っていくが、
そこに関係するのが「輪廻」である。
輪廻とは「この宇宙には複数の違った生まれがあり、
生き物はそのいずれかの生まれを永遠に転生しつづけると
いう考え方」である。
輪廻には、五道輪廻と六道輪廻があり、六道
輪廻に含まれる6つの生まれは以下である。
① 天(てん):神々
② 人(じん):人間
③ 阿修羅(あしゅら):悪しき神々
④ 畜生(ちくしょう):牛馬などの動物
⑤ 餓鬼(がき):飢餓などで苦しみ続ける生き物
⑥ 地獄(じごく):ひたすら苦しむ恐ろしい状態
③を覗いたものが、五道輪廻である。
端的に言えば、
・善い行いをすれば善業エネルギーに導かれて、
「天」に生まれ変わる
・悪い行いをすれば悪業エネルギーに導かれて、
餓鬼道や地獄に落ちる。
注:
「天」に生まれたとしても、天にも寿命があり、身心の
衰えはあり、死の恐怖があるので、業が生じ、輪廻が続く。
【業の法則1】
・いったん発生してしまった業は自然消滅することはない。
・必ず報いとしてなにがしかの結果をもたらす。
(結果が、いつ現れるかはわからない。百回生まれ変わった
後かも知れない)
【業の法則2】
業と、その結果との関係は一回限りである。
(結果が原因となって、その次に別の結果が現れると
いうことはない)
=== 釈迦の仏教(小乗仏教) ===
善業にせよ悪業にせよ業がある限り輪廻が続く。
よって、輪廻そのものが究極の苦である。
しかし、この世界の因果則は厳然たるもので
変えることができない。
そこで、(業の原因となる)煩悩を消すことによって
業のパワーを消して、輪廻を止めることで涅槃を目指す
(つまり、特別な努力をして自分の心のあり方を
変える、ということである)
注:涅槃とは、「完全に輪廻を滅した安らぎの境地のこと」である。
これが、釈迦が考えた仏教の目的である。
なお、輪廻を止めることができるのは「業の法則2」を
前提としている。
さらに、この目的を果たすために、釈迦が考えた方法は、
「この世の在り方を正しく理解し、その知識を土台にして
煩悩(苦しみ)を消すために個人的な修行を行うこと」である。
正しく理解することに関係するのが、「五蘊」、「十二処」、「十八界」で、
修行に関係するのが「四諦」、「八正道」である。
=== 大乗仏教 ===
これに対して、「自分を変えるのではなく、逆に世界の
因果律の方を変えられるようにした」のが大乗仏教である。
そのポイントとなるのが、「利他」と「廻向」(えこう)である。
釈迦の仏教の場合は、まず自己救済の「自利」があり、
それが回り回って結果的に他者の救済、つまり「利他」に
転ずるという「自利⇒利他」の流れである。
これに対して、大乗仏教では、最初から「他利」に目を
向けている。
すなわち、最初から人のために身を捧げることを奨励している。
そうした「善行」を日常の中で積んでいけば、出家して仏道修行を
行わなくても悟りに近づけるという考え方である。
よって、他者を救った結果として最終的に自分が救われるので、
大乗仏教は「利他⇒自利」の流れとなり、「釈迦の仏教」とは
流れが反対となる。
この流れを実現するために、この世で自分がなした善行の
エネルギーは、そのまま輪廻の中で使ってしまうのではなく、
ぐっとため込んでおいて別のほうへ振り向けることが可能だと
考えた。
別のほう:
悟りをひらき、ブッダとなって、二度と生まれ変わることのない
涅槃にはいること。
このように、本来ならば絶対に転換不可能な原因と結果の
関係にひねりを入れて、望む方向に結果を転向させることを
「廻向」と言う。
このような廻向ができるのは、「空」という概念によって、
それまでの世界のあり方の決まりごとをまぼろしに
してしまったからである。
なお、「般若経」では、善行エネルギーを溜めるために、
「般若経を唱えることが最も効果的である」としている。
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(その10に続く)
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