世間を騒がせた、荒舩運輸大臣
昭和41年9月4日付けの新聞で、荒舩清十郎が運輸大臣に就任、選挙区で高崎線の深谷駅に急行列車を停車させたとして、問題になりました。
9月12日の参議院運輸委員会では、急行が上下四本停車することになった点について追求されることとなりました。
そのときのやり取りに関しては、別途blogに、やり取りをアップさせていただきますが、当時の世論は荒舩大臣には否定的であり、就任後三ヶ月弱で辞任に追い込まれています。
深谷駅は、当時急行列車は停車して居らず、運輸大臣の職権で停車させたと言うことで世間から非難を浴びたとされています。
当時の時刻表を確認しますと、確かに10月の改正で深谷駅に停車するようになっています。
上が、昭和41年1月号、下段は昭和41年10月の時刻表です。
上が、昭和41年1月時刻表/下が、昭和41年10月時刻表
この話で、石田禮介総裁が、武士の情けじゃと言ったことで、新聞にも大きく話題となったわけですが、その概要を簡単に記してみたいと思います。
荒舩清十郎運輸大臣が選挙区に帰った際、
「みなさまにお土産を持って帰りました」
と報告したことから、大臣の職権を利用した政治駅であるとして騒がれることとなったわけですが、当時の議事録から少し抜粋して見たいと思います。
以下は議事録からの抜粋になります。
○国務大臣(荒舩清十郎君) この問題は、もちろん国鉄自身がきめる問題でございます。・・・・中略・・・・、それが昭和三十六年の二月ごろから、これが出なくなりました。ストップしなくなり、あるいは出なくなりました。私も埼玉県でございますから、しばしば、国鉄に何回も陳情をして、ぜひ、隣の本庄市は相当多数の急行がとまる、上りも下りもとまると、しかも本庄市は、四万六、七千の人口であり、深谷は五万七、八千でございまして、なお首都圏整備法による工場団地が設定されておる現状から見まして、ぜひ何本か、ひとつ急行もとめてもらうし、始発電軍も出してもらいたいということで、数回にわたりまして実は国鉄に陳情に代議士当時参りました。・・・・中略・・・・、、たまたま、六月の下旬か七月初旬かと思いますが、もちろん運輸大臣になるとも私は存じてない、想像もしておりませんでした。陳情に参りましたところが、まあそれは昭和三十一年ごろからそういう陳情もあるので、今度はダイヤ改正のときにはまあ前向きで何本か相談いたしますよ、前向きで考えますよと、そのことばははっきりいたしませんが、そういう返事でございました。したがって、これはもちろん運輸大臣がどうするというわけではございませんし、また代議士である荒舩がどうするという問題でもございません。したがって、私は六月の下旬か七月には、これはもう何本かとまるものだろうという想像はしておりました。
新聞等によりますと、何か一つくらいおれの言うことを聞いてもいいじゃないかと言ったように新聞には出ておりますが、全くそういうことではございません。・・・・・中略・・・・、たまたま私が運輸大臣になったからということでありまして、決して強圧をしたとか私がきめたとかという考えはございません。ことばのニュアンスにはいろいろ違いもございますし、私が運輸大臣になって埼玉県に帰ったときの発言したことに誤解があったようでございますが、いま考えても、深谷駅に急行が何本かとまるというようなことは国鉄自身がおきめになったことであって、私の代議士中に陳情したことがあるいはは功を奏したかしないかそれはわかりませんが、そういうことであって、誤解を生じたという点については私は遺憾千万だと考えております。
以上私の考えを申し上げて答弁といたします。
と有るように、本人は最終的に国鉄が決めたことであり、決して運輸大臣になって圧力を掛けたわけではないと発言しているのですが、これに対して、石田総裁は以下のように発言しています。
○説明員(石田禮助君) 深谷の駅に急行列車をとめることにつきましては、これは運輸大臣からもただいま御説明がありましたが、要するにこれは運輸大臣から私に向かっての指示でもなければ命令でもない。国鉄総裁といたしましては、その希望に従って私の責任において決定したのであります。
深谷というものは、これはただいま運輸大臣からも御説明ありましたが、人口においても相当のものであるし、その将来性から考えても相当のものだということは、国鉄としても承知しておったのであります。ただ問題は、これまでとめた駅と深谷との間の距離があまり短過ぎるというその他の点から考えまして、実はダイヤを編成するときに左すべきか右すべきかちゅうちょしておった。
そこへ運輸大臣からの御希望があったのであります。実はこれまでに、これは新聞に出ておることでありまするが、もうすでに私のほうの今村常務が新聞に説明しておるのでありまするが、それまでに運輸大臣から四つか五つのいろいろ御希望があった。でもこれは国鉄としてははなはだ困ろということで実はお断わりした。そこでそのあとに深谷の問題が出てきた次第。これは理屈詰めにいけば断わるのがしかるべきだと思うのでありまするが、実はこれは情に流れて、私の責任においてこれを決定した、こういうことでありまして、もしも責任を問われるならば国鉄総裁であって運輸大臣ではないということを私はこの際はっきり申し上げる。ということは、これは新聞にありまするように、運輸大臣の命令であるとかあるいは指示だとかいうようなことは絶対ないのでありまして、その点は私はこの際はっきり申し上げておきたいと存じます。
ここで、石田総裁らしいと言えるのは、最終的な判断は石田総裁自身がその責任において決めたと明言しているところでしょうか。
特に、
「運輸大臣から四つか五つのいろいろ御希望があった。でもこれは国鉄としてははなはだ困ろということで実はお断わりした。そこでそのあとに深谷の問題が出てきた次第。これは理屈詰めにいけば断わるのがしかるべきだと思うのでありまするが、実はこれは情に流れて、私の責任においてこれを決定した、こういうことでありまして、もしも責任を問われるならば国鉄総裁であって運輸大臣ではないということを私はこの際はっきり申し上げる。」
このような発言は中々出来ない人が多いのではないでしょうか。
これが後に、有名になる「武士の情け発言」と言えそうです。
粗にして野だが卑ではないからこの時の事情が詳しく書かれていますので少し引用してみたいと思います。
この委員会でのやろとりを「サンデー毎日」【昭和41年10月2日号】が克明に記録しているが、それによると石田白地ぶるをぐっと噛みしめるようにして言い、その石田の発言に対して野党席からは「正直だ」「正直すぎるぞ」の声が出た、という。
と書かれています。
その後も少し続くのですが、石田総裁にしてみれば、荒舩運輸大臣からの要望は以下の内容であったそうで、その中で一番問題が少ないのが、急行列車の一部を停車させることだろうと意言うことで、決定したとされています。
その条件とは、急行列車の停車以外にも以下のようなものがあったと書かれています。
- 深谷駅からの始発列車を設けること
- 深谷駅に裏口を設けること
- 八高線の輸送力を増強すること
- 新駅を作ること
等であり、予算等がが伴わず最も実現可能と思われたのは、急行列車の一部停車であるから、それを総裁の権限で認めたというものでした。
議事録全体は、別途下記のblogに掲載しておきますので、併せて当時のやり取りをご覧いただければ幸いです。
第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号 昭和41年9月12日
石田総裁にしてみれば、大変心苦しかったであろうことはよくわかる内容であります。
更にこの辺の事情について、国鉄部内紙「国鉄線 1966年11月号」では以下のような記述を認めることが出来ます。
九月三日から四国、山陰方面出張中の総裁も、行く先々で記者団からこの問題を尋ねられ、「一般的に は国民に対して申し訳ない気持だが、民主主義社会では多少のポリティックス」が介入するのはやむを得ない。
彼も政治家だし、私も最近ぐっとものわかりがよくなってきたし、いわば武士の情けといったところだ」という趣旨の発言をした。この総裁談話も投書をはじめとし、問題を践す事となったが、つくづくマスコミのこわさを実感すると同時に、現職大臣にかくもはなばなしい論陣をはった言論界の勇気をたたえたい。
1966年11月 国鉄線
結果的にマスコミが、忖度せずに政治家に対して厳しく迫った結果、辞任に追い込まれることになるわけですが、この時の「武士の情け」発言は、一部国民からは石田総裁に失望したという投書もあったそうですが、ここまで世論が沸騰した背景には、この問題が発覚する前の8月5日に、自民党政界を揺るがした田中事件で国民の怒りが高まっていたこともその背景にありました。
代議士の田中彰治衆議院議員による詐欺や恐喝を行ったといわれるもので、これ以外にも公私混同と言われるような事例が、この深谷駅急行停車以外にも事件とした有ったわけで、こうした連続して起こった不祥事を指して、政界の「黒い霧事件」と言われたそうです。
そうした中での急行停車に関する事件だったわけですが、荒舩大臣が自身の弁明に終始しているのに対して、堂々としている石田総裁の態度は尊敬に値するものが有ると言えます。
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国鉄があった時代 JNR-era
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