珍しい2・3等寝台合造車
本日も国鉄線から見かけた記事からアップさせていただきます。
昭和33年に中央線向けにナロハネ10と呼ばれる新型客車が誕生したと言う記事について書かせていただきます。
現在は、寝台列車と呼べるものは、サンライズ出雲・瀬戸に使われている。
285系電車だけですが、新幹線等が無かった国鉄時代は数多くの寝台列車が運転されていました、特に高速道路もない時代、長距離の移動は鉄道の独占であり、また物流も充実しておらず、荷・貨物輸送も国鉄の大事な業務であったこともあり本線では、夜行列車が多数運転されていました。
準急穂高に連結された寝台車
当時の時刻表と思ったのですが、昭和33年の時刻表がない(昭和32年から昭和35年12月まで全くないので・・・(^^♪)のでその前後と言うことで、昭和31年12月号と昭和36年3月号を参照させていただきました。
これによりますと、昭和31年12月号では「アルプス」を名乗っている409列車 新宿22:40発長野行き(7:58着)が3等寝台(B寝台)を連結していました。
この列車にどうやら、上記の寝台列車を連結したようです。
と言いますのは、昭和36年3月の時刻表では、列車番号は同じで、穂高3号という愛称を持っており、アルプスが統合されて穂高になったことが伺えます。
この列車は、新宿22:45発、長野行き(7:58着)で3等寝台(B寝台)+2等C寝台を連結という時刻表の表記になっています。
何故このような寝台車が作られたのか?
当時は、先ほども書きましたが高速道路なども開通しておらず、長距離の移動は鉄道に頼らざるを得ず、これは富裕層も庶民も一緒でした。
その為、かなりのローカル線区であっても、2等車(後のグリーン車)の需要は欠かせず、半室2等車の需要も多かったのです、この穂高も同じ理由で2等車の利用者から要望があったものと思われます。
ただ、絶対的な需要者が少ないであろうと思われたのでしょう。
上記の写真を見ていただければわかりますが、中心部にドアがある構造で2等寝台(現在のA寝台)と
3等寝台(B寝台)に別れています。
一番乗り心地の良いところにドアがあるのは構造上あまり褒められるものではないのですがやむを得ない措置だったのでしょう。
3等級制の当時2等寝台車はA・B・C
当時寝台車には1等寝台はなく、2等・3等寝台のみでした。
何故、1等寝台がなかったのかというと、従来の1等寝台を2等寝台に格下げしたからでした。
格下げした理由を書き始めるとそれだけで一つの記事がかけるのですが、簡単に言えば飛行機が台頭してきて、飛行機の運賃と1等寝台を利用した鉄道の料金が逆転したことが大きかったのです。
飛行機でいって、ホテルに泊まるほうが楽ですから。
そんなわけで、1等寝台車は連日ガラガラ、2等寝台は満員だったため、1等寝台車を廃止して、2等寝台に格下げ(実質的な運賃値下げ)したというわけで、元1等寝台は昭和30年頃には既に冷房装置が設置されていたため旧1等寝台個室をA室、開放寝台をB室、従来の2等寝台(冷房無し)をC室と区分したのでした。
この車両も半室の2等寝台に冷房装置を設けるのは無理があると判断したのでしょうね。
ベッドごとに冷風を送るファンを設けて冷房装置は見送りとなったため、オロネ10(こちらは冷房付き)より後で製作されたにも関わらず、C寝台としてデビューすることになった次第。
なお、昭和40年代に入ると国民生活の所得向上もあって2等寝台(旧3等寝台)も冷房化することとなり、ナロハネ10も2等寝台ともに冷房化されることとなりました。
Wikipaediaのオロハネ10は冷房改造された姿なので、A寝台部分が固定窓に改造されていますが、デビュー当時は1段上昇式の窓だったそうです。
画像 Wikipedia
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昭和33年に中央線向けにナロハネ10と呼ばれる新型客車が誕生したと言う記事について書かせていただきます。
現在は、寝台列車と呼べるものは、サンライズ出雲・瀬戸に使われている。
285系電車だけですが、新幹線等が無かった国鉄時代は数多くの寝台列車が運転されていました、特に高速道路もない時代、長距離の移動は鉄道の独占であり、また物流も充実しておらず、荷・貨物輸送も国鉄の大事な業務であったこともあり本線では、夜行列車が多数運転されていました。
準急穂高に連結された寝台車
当時の時刻表と思ったのですが、昭和33年の時刻表がない(昭和32年から昭和35年12月まで全くないので・・・(^^♪)のでその前後と言うことで、昭和31年12月号と昭和36年3月号を参照させていただきました。
これによりますと、昭和31年12月号では「アルプス」を名乗っている409列車 新宿22:40発長野行き(7:58着)が3等寝台(B寝台)を連結していました。
この列車にどうやら、上記の寝台列車を連結したようです。
と言いますのは、昭和36年3月の時刻表では、列車番号は同じで、穂高3号という愛称を持っており、アルプスが統合されて穂高になったことが伺えます。
この列車は、新宿22:45発、長野行き(7:58着)で3等寝台(B寝台)+2等C寝台を連結という時刻表の表記になっています。
何故このような寝台車が作られたのか?
当時は、先ほども書きましたが高速道路なども開通しておらず、長距離の移動は鉄道に頼らざるを得ず、これは富裕層も庶民も一緒でした。
その為、かなりのローカル線区であっても、2等車(後のグリーン車)の需要は欠かせず、半室2等車の需要も多かったのです、この穂高も同じ理由で2等車の利用者から要望があったものと思われます。
ただ、絶対的な需要者が少ないであろうと思われたのでしょう。
上記の写真を見ていただければわかりますが、中心部にドアがある構造で2等寝台(現在のA寝台)と
3等寝台(B寝台)に別れています。
一番乗り心地の良いところにドアがあるのは構造上あまり褒められるものではないのですがやむを得ない措置だったのでしょう。
3等級制の当時2等寝台車はA・B・C
当時寝台車には1等寝台はなく、2等・3等寝台のみでした。
何故、1等寝台がなかったのかというと、従来の1等寝台を2等寝台に格下げしたからでした。
格下げした理由を書き始めるとそれだけで一つの記事がかけるのですが、簡単に言えば飛行機が台頭してきて、飛行機の運賃と1等寝台を利用した鉄道の料金が逆転したことが大きかったのです。
飛行機でいって、ホテルに泊まるほうが楽ですから。
そんなわけで、1等寝台車は連日ガラガラ、2等寝台は満員だったため、1等寝台車を廃止して、2等寝台に格下げ(実質的な運賃値下げ)したというわけで、元1等寝台は昭和30年頃には既に冷房装置が設置されていたため旧1等寝台個室をA室、開放寝台をB室、従来の2等寝台(冷房無し)をC室と区分したのでした。
この車両も半室の2等寝台に冷房装置を設けるのは無理があると判断したのでしょうね。
ベッドごとに冷風を送るファンを設けて冷房装置は見送りとなったため、オロネ10(こちらは冷房付き)より後で製作されたにも関わらず、C寝台としてデビューすることになった次第。
なお、昭和40年代に入ると国民生活の所得向上もあって2等寝台(旧3等寝台)も冷房化することとなり、ナロハネ10も2等寝台ともに冷房化されることとなりました。
Wikipaediaのオロハネ10は冷房改造された姿なので、A寝台部分が固定窓に改造されていますが、デビュー当時は1段上昇式の窓だったそうです。
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