国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

京都発博多行き。特急列車・・・・覚えていますか?華麗なる列車を

2016-10-01 23:09:49 | 国鉄思いで夜話

今は廃止されてしまいましたが、かっては山陰本線をほぼ全線走破(正確には、京都~福知山間は東海道・福知山ですので、ほぼ全線ということにしておきます)する特急列車が走っていました。
その名は「まつかぜ」
歴史を紐解くと、昭和36年のダイヤ改正で誕生、初日に最後尾車両が車軸焼けで切り離すという離れ業?をやってのけ。

昭和36年10月時刻表(復刻版から)福知山線

昭和36年10月時刻表(復刻版から)山陰本線
事故を起こした車両はそのまま豊岡に回送して応急修理、折り返し列車は、最後尾にキハ58を連結、松江方のキハ82は、方転のうえ京都方〔進行方向)に連結して豊岡まで運転、そこで応急修理したキハ82と置き換えて向日町に帰ったそうですが、今ではちょっと考えられないことですよね。

キハ82と58は制御電圧が異なり、仮にキハ58を先頭に付けても運転できなかった。(キハ80系は直流100Vの制御電源、キハ58等一般気動車は直流24V)

多分今なら、その時点で運休。特急料金は払い戻しで次の列車でという案内になるかでしょうね。

当時は特急と言う列車に威厳があり、本社指定列車でもあったのでよほどのことが無い限り運休は認められなかったわけです。

ただ、特急気動車は電源車を兼ねているため、本来であれば3+4で給電できるのが、6両丸ごと給電しないといけないので、冷房は半減、食堂車も営業休止で大変だったそうです。
その辺は以前書かせていただきましたので、よろしければそちらもご覧ください。

さて、そのまつかぜ号ですが、昭和43年の改正では堂々の12連で京都から福知山線経由で山陰本線を走り抜けるという列車に成長しますで、大阪を出ると次の停車駅が福知山と言うのもプレミア感がありました。
というか、いかにも特別な列車という感じです。

当時の時刻表昭和42年・を紐解いてみますと、大阪から福知山まで約2時間、その後は豊岡・鳥取・上井(現・倉吉)米子・松江・出雲市・石見太田(現・太田市)・浜田・益田・東萩(東浜と誤入力しており、指摘にて修正 2018/12/30)・長門市・下関・小倉・博多の順に停車し
博多には20:55
京都を朝7:30大阪を8:00ですので12時間以上かけて走破するわけで。
特急白鳥といい勝負の列車と言えましょう。
夜間滞泊で、翌朝の8:20には博多を出発するのですから夜間整備は大変だったのではないでしょうか。

昭和42年時刻表から山陰本線1(昭和42年の時刻表では宝塚に停車している)

昭和42年時刻表から山陰本線1
特にキハ80系の場合は先頭車のキハ82以外はすべて2エンジン方式(先頭車も電源エンジンを積んであるのでエンジンの数的にはオール2と考えてよいでしょう。)があり、試運転時にも結構トラブルで動かなくなるエンジンがあったそうです。
特にDMH17の場合シリンダ2個を一つのガスケットで押さえており、ガスケット割れによるオイル漏れなどが多発したようです。

そうした意味では冬季の整備などは大変だったのではないでしょうか。
こうして山陰本線を走った「特急まつかぜ」ですが、昭和60年のダイヤ改正では、系統分割で米子発着に短縮、米子から博多間は「いそかぜ」として分割されるとともに181系化、更に翌年の福知山線の電化に伴い、「特急まつかぜ」自体が廃止になってしまいました。

系統分割されて、米子~博多間は「いそかぜ」に変更 画像wikipedia

福知山線電化で翌年には、「まつかぜ」が廃止、北近畿となる。 blackcat撮影

当時のダイヤを見ると意外と優等列車が多かったことが目につきます。
今のように高速バスなどが普及しておらず、陸上に移動は鉄道利用が当たり前の時代でしたので当然と言えば当然ですが。

現在の惨状を見ると正直なんだかなぁと思ってしまうのは私だけでしょうか。


くにびき→いそかぜ に誤っていたため修正しました。申し訳ありませんでした。
くにびきは、1988年3月13日から米子駅 - 益田駅間を運行する特急でした。

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8 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-10-02 18:44:34
いつも楽しみに読んでます。
本文中、まつかぜの下関口後継列車ですが、くにびきではなく、いそかぜだったかと。
小倉駅で3両編成のガラガラのいそかぜを見た時、衝撃を受けました(^_^;)
返信する
Unknown (Unknown)
2016-10-08 07:06:49
ご指摘ありがとうございました。
私の勘違いでしたので訂正させていただきました。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-11-12 02:29:18
冒頭に「山陰本線を全線走破する特急列車が走っていました。」と書かれていますが、京都~福知山間を大阪経由で走っている時点で、山陰本線内で走らない区間が存在しますよね?
そうなると、「山陰本線を全線走破する」とは呼べないと思いますが…。
「全線走破」というのは、「その路線の全区間を走る(支線部分は除く)」ものという認識だったのですが…。
返信する
懐かしの特急まつかぜ (山道俊夫)
2018-03-21 17:14:28
私が中学生だった昭和54年の夏休みを利用して特急まつかぜに大阪駅から小倉駅まで乗車したことがあります。既に国鉄は斜陽化していましたが、まつかぜは旧きよき時代の国鉄特急の風格が残っていました。中学生の小遣いをはたいて食堂車でトンカツならぬポークカツレツを食べたのが、いい想い出です。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-12-30 12:34:11
「まつかぜ」の停車駅、益田の次は東浜じゃなくて東萩ですね。
ちなみに東浜は鳥取の近くにある小さな駅で、むろん特急も急行も停車しません。
返信する
Unknown (加藤好啓)
2018-12-30 13:19:47
ご指摘ありがとうございます。
投稿者本人、加藤です。
誤入力でしたので修正させていただきました。

返信する
Unknown (清張の隠し子)
2020-11-14 15:00:16
昨日、松本清張の「砂の器」を見ていたら
特急「まつかぜ」大阪>博多行きが駅ホームに
停車していたのを発見しました。

博多駅で小さい頃に停車していた「まつかぜ」を
よく見ていたのでいつか乗りたいとずっと
思い続けていましたが、その願いは叶いません
でした。
車掌の真っ白い制服が印象的でしたね。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-11-14 16:12:16
コメントありがとうございます。
砂の器では、亀嵩も確か重要なキーワードだったかと。

まつかぜは、京都~博多を一気に走り抜ける(ただし、福知山線経由)の列車で、「特急かもめ」共々京都始発の特急であったと記憶しています。

如何にも特急という風格のある列車でした。
私も親が国鉄だったのですが、中々特急には乗せてもらえず、もっぱら急行伯耆や急行だいせんでした。
返信する

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