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第四章 JR体制への移行と国労の闘い
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第一節 国鉄分割・民営化関連法の成立と新会社への移行準備
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├○ 一 日本のバブル経済と東欧諸国の動揺 │
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「バブル経済」下の日本
1980年代後半の日本経済は、膨大な貿易黒字の蓄積と急激な円高進行によって世界の「経済大国」へのし上がる過程であった。
プラザ合意後の日本の「円高不況」は86年11月に底をつくが、政府は公定歩合の史上最低( 87年2月、2. 5%) への引き下げとともに、新年度予算執行にあたって公共事業の追加、減税などによる内需拡大、輸入増加を目的とした10億ドル政府調達など、総額6兆円強の緊急経済対策を決め、景気浮揚のテコ入れを行った。87年7月には経済企画庁の?景気回復宣言?も出されたが、やがて〃バブル景気〃と呼ばれる空前の好況期になった。永久に「右肩上がり」の成長がつづくと声高に語られ、88年から89年にかけて、日本の土地・株・高級絵画などの資産価格が文字どおり連日上昇した。
このころ、日本は「経済大国」といわれるようになった。1987年、日本人一人あたりの国民総生産(GNP) は、アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリスなどを上回り、80年に9000ドルであったものが85年に1万1000ドルヘ、そして88年に2万3000ドルヘと3年間で倍増した。また、日本企業の海外進出も急速にすすみ、この間の海外直接投資の残高はアメリカ、イギリスについで世界第3位に浮上し( 90年末) 、年間の海外直接投資額だけをとると世界第一位となった。日本の銀行の対外貸付額も急膨張し、国際資産残高も90年末で1=兆1000億ドル、日本一国で資本主義国における銀行の国際資産総額の37・4% を占めた( ちなみにアメリカは12・6% 、ドイツは10・6%) 。
1980年代の後半をへて90年代に入る頃の日本は、こうした数字をみればまぎれもなく「経済大国」であった。しかし、まさにそのさなかに、日本の「豊かさ」を問う本が相次いで出版された。それらはいずれも、「経済大国」となった日本はほんとうに「費かな国」「費かな社会」なのかと問い、「豊かさ」を実感できない生活の中身を爼上にあげた。そして、狭い住宅と地価・住宅費の高騰、長距離通勤と長時間労働、過労死を牛な労働環境、家庭生活を無視した単身赴任、ゆとりのない子供の学校教育、社会保障・社会福祉の貧しさと老後の不安、自然環境の悪化、等々、さまざまな局面でのその「貧しさにが指摘された。
一方、この時期、わが国の労働組合組織率は減少しつづけており、83( 昭和58) 年に30% を割った後、総評や同盟が解散して連合( 日本労働組合総連合金) が結成された89年には25・2%になった。80年代後半は、バブル経済下とはいえ消費者物価は比較的安定しており、〃スト無し春闘〃と評されたように争議行為参加人員は70年代後半に激減した後はほとんど増加せず、毎年取り組まれる春闘では〃再構築〃?活性化〃が強調された。また、「経済大国」日本で働こうという外国人労働者が急速に増えはじめたのもこの時期であった。
続く
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