Blue jewel

拉致の解決を願って
「蒼き星々」関連テキストなど(ココログにも掲載)現在gooがメイン。
デザイン時々変更。

(1)川添友幸 救う会神奈川会長代行 開会の辞

2005-07-17 | 藤沢市民集会
第11回「拉致被害者と家族の人権を考える市民集会
~拉致を語らずして人権を語るなかれ~」


講 師: 横田拓也さん (横田めぐみさんの弟)
     斉藤文代さん(松木薫さんの姉)
     平野フミ子さ(増元るみ子さんの姉)
     市川龍子さん (市川修一さんの義姉)
     真鍋貞樹さん(特定失踪者問題調査会理事)
     匿 名 (脱北者)

午後1時30分開場・午後2時開演(午後5時30分終了)
場 所: 藤沢産業センター
(JR藤沢駅北口より徒歩5分・藤沢郵便局隣り>
主 催: 拉致被害者と家族の人権を考える湘南の会実行委員会
共 催: 北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会
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川添氏挨拶


今日はですね、皆様ご来場ありがとうございます。
今までうちの会長がご挨拶していたと思うんですが、ちょっと都合でですね。
これから私が会長代行という事になりましたのでご挨拶させていただきます。
今日は暑い中、本当に皆さんありがとうございます。
明日、町田の方でちょっと集会があるので人数心配していたんですが、これだけ来て頂いて嬉しい限りです。

今日これからこちらに講師の方と、今ですね。
ちょっと控え室の方にいるんですが、インターネットでは榊原さんと言うお名前になってたんですが。
ちょっと急遽調子が悪いということで、Yさんと言う方で、ほとんどまだメディアに出たことのない脱北者の方です。
ちょっとですね、顔がですね。
出ると色々あるということで今対応を協議してますんでですね。
我々もまだ慣れていないところがあると思いますがですね、よろしくお願いいたします。

6カ国協議も始まりですね、拉致の問題中々難しい状況が来てるかもしれません。
しかし今回第11回。
あまり回を重ねることは良いこととは私たちは思いませんが、この問題をですね。
続けていき、拉致問題更に特定失踪者問題。
個人的に私よど号をずっと追いかけてますが、よど号拉致事件問題。
更にですね北の人権問題。
強制収容所や脱北者を含めた問題。

なんとかですね、これをしていかなければならないと思っていますので、毎回毎回皆さんの参加だけがこの神奈川の会、頼りとなっております。
ぜひですね、よろしくお願いいたします。
私たちもこれ素人の会ですので、不慣れな点もあるかもしれませんので、アンケートの方がありますんで。
また、それに書いていただければそれを参考にしていきたいと思いますんでですね。
よろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
テキスト化に当たり、脱北者のお名前は証言者の都合により匿名といたします。
悪しからずご了承ください。
 話の花束ぴろんさんのテキストです。
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(2)市川龍子さんのお話

2005-07-17 | 藤沢市民集会


実は私40年前に藤沢の高校を卒業いたしまして、国立横浜病院、原宿にありますね。
戸塚区の。
あそこに勤めていたもんですから、藤沢って聞いたときに嬉しいやら。
この藤沢の駅に立った時には感慨ひとしおでしたけれども。
がらっと変わっておりますので、ほとんど面影はなかったですね。
でも、まぁ藤沢に来れて本当良かったなぁと思ってます。
鹿児島なんですが、母校とかは行く暇無いと思いますけど、今日は皆さんにお会いできて本当に良かったと思っております。

聞いていただきたいと思います。
私はですね。
53年の8月12日。
皆さんご存知だと思うんですが、鹿児島の吹上海岸と言う所があります。
ここは、夕日はとってもきれいに見える海岸なんです。
鹿児島の吹上浜で北朝鮮の工作員に拉致された市川修一の義理の姉に当たります。

その8月12日に、弟が修一が23歳の時でした。
平野さんの妹に当たります増元るみ子ちゃんと二人でですね。
吹上浜海岸の夕日を見に行ってくる。
10時までには必ず帰ってくると双方の家族に約束をしてそれっきり、忽然と姿を消してしまったんです。
将来を約束しあっていたのかどうか?私たちには分かりませんが。

その日修一がですね。
わくわくわくわくしながら、るみ子さんとデートが出来るという嬉しそうな姿をですね。
当時修一の実の姉と同じ敷地内に住んでいましたので、弟の修一の嬉しそうな姿を今でも目に焼きついている。
残念ながら実の姉はちょっと重い病状に伏せっておりますけども、この姉が、私には義妹になるんですけども、修一からは実の姉ですね。
姉の所からいなくなったもんですから、私はその姉と母にですね。
一刻も早く(修一を)抱かせてやりたい、って気持ちであちこち回っております。

修一とるみ子ちゃんはどんなにかね、夢や希望に胸を膨らませていたと思います。
修一は向学心も旺盛で、当時通信教育の大学生としても勉学にも励んでおりました。
通教の学籍番号もきちんと、私が毎月送られてくる冊子で覚えております。
Eの7609279の番号で毎月送られてきておりました。

そして何より親孝行な修一でした。
だからそんな修一がですね。
自分から姿を消すということは無いんです。
当初は家出かな?蒸発かな?駆け落ちかな?というふうに世間からは見られておりましたけども。
あとは誘拐かな?交通事故にあったかな?暴走族にあったのかな?
タコ部屋って、私は知らなかったんですが、そういうタコ部屋に連れて行かれたのかな?
神隠しにあったのかな?
果てはUFOに連れて行かれたんじゃないか?と本当にですね。
まったく雲を掴むような不可解な事件が8月12日に起きたんです。
来月でもう27年になります。

延べその時にですね。
1500名ほどの大掛かりな捜索が始まりました。
ビーチクラフトで、また地元の漁船が網を張って海の底に沈んではいないか?
砂浜に埋められてはいないか?と思って、みんな横一列に5人6人並んで棒を持って砂を突きながら埋められてはいないか?といってですね。
棒を突きながら大捜索を行いました。

でも当日はですね。
キャンプ村で浜辺で、コンサートがあったんです。
その日はたくさんの人出であったんですけども、松林を通って浜に行く中継にロータリーがあるんです。
そのロータリーに修一の車が駐車してありました。
その車の1~2メートルのところで2匹の警察犬がもうクンと鼻を上げたんです。
そこでプッツリと匂いが切れてしまったんです。
多分4人の工作員に拉致されて、格闘したかどうか分かりません。
そこに片方の修一のサンダルが縦にひっくり返って落っこってたんです。

消息(を絶って)から10年、1988年・昭和63年です。
国家公安委員長がですね。
梶山静六さんでした。
3組のアベック失踪事件・一件の未遂事件は北朝鮮による拉致による疑いが濃厚であると、はっきりと国会で答弁されたんです。
でも、それっきりなんです。
ずっと闇に葬られたままでした。

でも何の進展も無くてですね。
ただ容赦なく月日が流れていく中で、私たちに一条の光が見えたのが1995年昭和70年です。
韓国に亡命した北朝鮮の元工作員・安明進氏、ご存知だと思います。
安明進氏が修一を目撃していたんです。
数枚の写真を指差しながらですね。
この男性とは何回も会っている。
修一のことです。
金正日政治軍事大学で何度も見ている。
セブンスターをもらった事もある。
会話もした事もある。

そして修一のヘアスタイルですね。
右わけなんです。
左わけじゃなくて右わけです。
その分け方ですとかね。
良く赤いネクタイをしていましたとか。
そういう修一の特徴となることを本当に詳細に語ってくれたんです。
韓国から石高プロデューサーって方から国際電話が入りました。
それまで修一がどこにいるのか?死んでいるのか?本当に分かりませんでした。
その時韓国から国際電話が入ったときに、修一が生きているという知らせを受けた時の母の号泣は、主人は未だかつて見たことが無い、聞いたことが無いというくらい母は大号泣で泣いたそうです。

この後からなんです。
我が家では修一の修の字も話も全部禁句でした。
この後から北朝鮮にいるということを聞かされてから、母は毎年毎年修一の衣装箱を開けて洋服を虫干しするようになったんです。
いつ帰ってきてもすぐ着れるようにでしょうか?
今となっては流行がありますから着れる筈もありませんが、それでも毎年毎年虫干しをするようになりました。

母はもちろんです。
私たちも23歳の修一の顔しか思い浮かびません。
27年も北朝鮮で誕生日を迎えているんです。
今年でもう51歳になるんです。
23歳の時です。

北朝鮮に連れて行かれたのだと分かってから、両親は北朝鮮と韓国の国境の38度線の鉄柵の前であらん限りの声で修一と叫びました。
「修一どこにいるの?顔を見せて!姿を聞かせて!」ってですね。
断髪的に鳴り響くんです、向こうでは。
そんな轟音の中ですから、母の声なんて聞こえるはずもありません。
それでも叫び続けました。
今にも鉄柵を乗り越えて修一を探したい、連れ戻したい。
38度線を振り返り振り返り、空しく鹿児島の方に帰ってきました。

世界のいずこの国であれ、子を思う親の気持ちに変わりは無いと思います。
気が狂ってもおかしくないぐらいの27年をずっと続けております。
横田めぐみちゃんのお母さん、有本恵子ちゃんのお母さん、増元るみ子ちゃんのお母さん、そして松木薫さんのお母さん。
市川修一の母の心情を歌った詩があります。
もう聞かれた方もあるかと思いますが聞いてください。

 どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
 すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
 星も凍てつく雪山に 母は雛鳥捨て置かぬ
 腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
 千里万里は厭わない 可愛い我が子に会えるなら
 親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯痒さよ
 これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
 生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ

拉致被害者家族の母の心情です。
分かってください。
待って待って待って待ち続けて27年です。
北朝鮮の金正日の命令で工作員による残虐非道な拉致によって、一瞬にして若い修一とるみ子ちゃん、めぐみちゃん。
たくさんの拉致被害者の青春が人生そのものが狂わされて、そして私たち家族が辛く長い闘いが続いているんです。
たくさんの事件がある中でよその国の者がこっそり入り込んで人をさらっていく。
誘拐とか人攫いとかと言う言葉は私は知っておりました。
拉致と言う言葉は知ったのはこのときなんです。
皆さんもご存知だと思います。
本当に拉致と言う言葉は知りませんでした。

両親が毎朝発する会話に
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね。
ボケないでいましょうね」
と言って毎朝二人は、老夫婦は会話しています。
無農薬の野菜を自分で作って野菜ジュースですか?
それをジューサに掛けて毎日飲んで、気を使って。
二人で一人前だって言いながら、庇いあって生きています。

そんな両親ももう90歳なんです。
毎朝毎晩仏壇の前に座ります。
母の背もだんだんだんだん小さくなってきました。
この背中から修一の名を呼ぶような母の姿が不憫でたまりません。
同居して31年ですので、手に取るように分かります。

 今日もまた祈る姿が痛ましい いとしい吾子を抱く夢見て

自分ながらに慰めながら短歌を作っています。
辛いのに我が子の帰りを待ち続けています。
皆様ご存知のように2002年9月17日、金正日は拉致を認めて謝罪しました。
5人生存8人死亡と知らされた時、私たち夫婦・長男もおりました。
頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
「人の生死に関わる問題ですので、国に確認作業をした結果です」
とんでもないです。
北朝鮮からの一方的な通知でした。

植竹副大臣に食って掛かりました。
「殺したんでしょう?殺されたんでしょう?どうしてくれるのか?」って。
植竹副外務大臣に言っても仕方ないんですが、それくらい分かりませんでした。
鹿児島の母に何ていえば良いのかなぁ?って。
行方不明だって言おうと言って嘘をつこうと思ってたんですが、全国放映でしたので母はそれをテレビでしっかりと見ていました。

 待ちわびて届いた知らせに打ち震え 母の姿がまぶたに浮かぶ

短歌がすぐ出来ました。
安明進氏の目撃証言は1991年の7月なんです。
それが拉致した翌年、1979年9月4日に元山海水浴場で溺死って言ったんです。
日本の緯度を辿っていけば岩手県に当たるんです。
9月4日岩手県、海水浴しますか?
冷たいです、水も。
その時は台風も近づいていました。
泳げない修一は水が苦手でした。
ましてそこは遠浅です。
元山海水浴場と言うのは遠浅なんです。
ここでいまだかつて溺れた人はいません、という証言も出ております。

安明進さんが1993年脱北するまでの証言がちゃんとあるんです。
その安さんも命懸けで、私は命が尽きるまでこの拉致問題に一生懸命証言していくって言って、一生懸命私たちと一緒になって頑張ってくださっています。
そして10月15日、5人も被害者が24年ぶりに日本の土を踏みました。
感無量の一日でした。
と同時にあのタラップから降りてくるメンバーの後ろに修一がいたらなぁ・・・って、夫婦二人で手を握り合いました。
もしかしたら安倍さんの後ろからもう一人誰か降りてくるんじゃないか?
修一が降りてくるんじゃないか?と目を凝らしましたけども、誰もおりませんでした。
帰国者の喜びの涙と無念の涙が入り混じった本当に辛い一日でした。

そして5月22日は小泉首相が再訪朝されました。
一刻も早い原状回復と事実関係の解明。
処罰・賠償の手続きとか、また400名以上とも言われる特定失踪者の道筋をつけて来られる物と期待しておりました。
奄美沖での不審船銃撃事件も、なぜか全然追求されませんでした。
麻薬・密輸・旅券偽造等、何にも追及されませんでした。
それどころか反対に平壌宣言を遵守する限りは経済制裁をしない。
人道支援はする、と言われたんです。
いまも躍起になって言ってます。

平壌宣言を遵守していると思いますか?
いろんなことを画策して日本に投げ掛けてきております。
金正日は悪魔なんです。
日本人拉致を指令して、また自国民にも恐怖を与え、食料の配給もせず毎年200万もの餓死者を出しているんです。
極悪の独裁者と言っても良いと思います。
この独裁者に対して5月22日、本当に一言も、拉致のらの字も発せず、一矢も放たずに帰国されました。
私たちはこのときに悪に手を貸す共犯者じゃないか?と思うくらいでした。
その時に例のバッシングが始まったんです。

でもちゃんと見ている人は見てくださっておりました。
あのバッシングも策略に私たちはかかったんです。
拉致を認めた金正日に、被害者の奪還を果たそうと言う責任感の無い首相です。
奪還手いう意味はご存知だと思います。
どうぞこれだけお金を上げるますから、支援しますから返して下さいお願いします、と言うのは奪還じゃないんですよね?
命懸けでも連れ戻すと言うのが奪還なんです。
そういう気概は今の小泉総理には全然見えません。

小泉訪朝から2年10ヶ月です。
8人の未帰還者については今でも死亡説を繰り返し、嘘に嘘を塗り重ねて解決済みとする北朝鮮なんです。
駄々をこねて、貰う物だけは貰って。
今回の6者協議もそうだと思います。
本当、皆さん分かってくださっていると思います。
どうしようもないわが国日本に、年間で200回~3000回と言う不審船が列島に入り込んでいるんです。
そして密輸とか麻薬・スパイ工作を繰り返しているんです。
この日本でどうして可愛い子や孫やひ孫が安全に遊べますか?

青少年がヒロポンやコカインで侵されているんです。
脅かされているんです。
将来を台無しにされているんです。
本当に日本列島汚染されていると言っても過言では無いと思います。
街頭での署名活動の中で小さい子がなけなしのお小遣いをポトンと入れてくれたり、たどたどしい字で署名活動をしてくださいます。
私は感謝しながら断じてこの未来の子供たちが、安全に安心して暮らせる日本にしてやらなければならない。
その為に拉致被害者が犠牲になって今北朝鮮にいるんだ。
そして北朝鮮で拉致被害者が、「日本国よ、日本国民よ、真の国民になってくれ、目を覚ましてくれ」とい言って叫んでいるんじゃないかと思うんです。

 拉致問題世論の後押しもう一歩 国家の誇り取り戻せ今

国民の皆様に呼びかけたいと思います。
いつもわが国に対しては、日本人の心の隙を付いて様々な画策をかけて挑戦して来ております。
憎くて不気味な無法国 テロ国家北朝鮮のならず者無知無能の金正日と私は叫びたいと思います。
悪の枢軸、北朝鮮の危険な男・金正日と、アメリカのブッシュ大統領も公言しています。
ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。

 助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて

悪は悪なんです。
悪を征して初めて正義は証明されると思います。
悪をのさばらせていては次はどのような事がこの日本に降りかかってくるか分かりません。
時間稼ぎをして、核やミサイルをだんだんだんだん作っているんです。
私は金正日だけのことを言ってるんで、北朝鮮一般民衆のことを悪く言ってるんじゃありません。
反対に、同じ星の下に生まれた北朝鮮の民衆です。
悪いのは金正日の独裁政権なんです。
その独裁政権の下から自由な人権重視される北朝鮮に一刻も早くなるようにと、私は願っているんです。
一刻も早く助け出してあげたいんです。
北朝鮮の人たちに自由を味わっていただきたいんです。

2002年10月17日、我が子との再会を果たせずに無念の涙で逝ったるみ子ちゃんのお父さん。
遺影の前で弔辞を読ませていただきました。
「必ず国際世論を高める戦いをして、るみ子ちゃんを羽田のタラップの下に降ろして見せるから安心して逝ってらっしゃい」
と私遺影の前で呼びかけました。
そして私の父ももう歩くことも出来ません。
こんなになった父を車椅子を押してでも。
修一がなけなしのお金で(母に)プレゼントした大島紬があります。
まだ一度も袖を通しておりません。
大島紬を着せて羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたいなと思って、私もただそれだけで一生懸命頑張っております。

すみません。
高齢の両親を抱えた私たち家族のほか、横田代表ご夫妻、被害者家族には本当に時間が無いんです。
助けていただきたいんです。
国民の皆様にお願いするしかないんです。
世論をもう一度高めてください。
そして経済制裁の即発動を首相に糾弾していただきたいんです。
金正日が困る人や物・金をストップさせる経済制裁です。
共に戦っていただきたい。
お願いいたします。
もう待てないんです。
限界なんです。

今日はですね、他にいろんなことをぜひ藤沢の皆様にも知っていただきたいと思ったんですが、主人からそれは言うなって止められたので言えません。(会場笑い声)
過去30年近くです。
外務省や大物政治家、じゃなくて政治屋です。
一流新聞、左よりの人物から受けた様々な迫害が私たちにはあります。
なぜこんなにも拉致問題が放置されなければいけなかったのか?
原因、また北朝鮮に訪問した200人以上にも上る日本の国会議員が、必ずお土産に渡されたビデオテープがあります。
このビデオーテープの件、知っている限りは本当に時間があったら教えてあげたいですけど。

ベンジャミンって方が書いた「泥棒国家の完成」と言う本があります。
読んでいただくと本当に北朝鮮の悪(わる)が分かります。
ぜひ、買って読んでいただきたいと思います。(笑い声)
最後に私はさっき言いましたように短歌が大好きなので、短歌を作ることで自分を励ましたり家族を慰めたりしています。
短歌を作っていますので聞いてください。
極寒の地で24年目の冬を迎えました冬に作った短歌です。

 巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け 春を信じて
 北の果て君を偲びて幾年(いくとせ)か 老いたる母の皺(しわ)の重さよ
 故郷(ふるさと)に思いを馳せる弟よ 救いの手立てに苛立ち募る
 遅々として進まぬ二国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
 彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
 老いていく我が身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱(いだ)く夢見て
 またしてもあの手この手の北の国 負けるものかと奮い立つあれ
 彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
 暖かな支援の声に涙する 千人力の思いを抱きて
 弟よ君の姿を追い求め 声を枯らして叫ぶ日々かな
 またしても騙され続ける日本国 国家の威信断固示せよ
 風に舞う花の吹雪に君思う 我が家の桜も待ちに待ちたり

いつもこんな短歌を作って慰めています。
本当にですね。
もう一度皆さんにお願いしたいんです。
自分の国の国民を絶対に救うぞと。
一度も腹のそこから発してくださいません。
誰ですか?(会場内、小さな笑い声)
たまりません、もう。(小さな笑い声)

拉致被害者を無条件で直ちに帰せと、正当な要求を一度も突きつけたことのない人です。
北朝鮮に対して生存しているはずの人々に指一本触れたら承知しないぞと。
自国民の命を護るための言葉を一言たりとも発した事のない人です。
官僚のせいさい(?)丸投げで、政治のトップとして北朝鮮の嘘をひっくり返す意欲と迫力を、一度だって見せたことの無い人です。
なぜ?経済制裁を発動すると言ってくださらないんでしょうか?
さっき言いいましたように、北朝鮮の一般民衆が困るんじゃなくて、北朝鮮の金正日が困る制裁を発動せよと言ってるんです。
その経済制裁の発動が中々GOサインが出ません。
腹立たしくて地団太を踏んでおります。
本当にですね、私たちはこの一言でいいんです。
一言で向こうはどういうボールを投げ返してくるのか分からないんです。

だからいつも、一昨日14日ですか?
町村外務大臣に会いました。
小泉首相に
「小泉首相はいったい拉致被害者を救いたいのか?救いたくないのか?を聞いてください」
と、私は言ったんです。
それが全然見えないもんですから、問うてください。
小泉首相に問うてくださいといました。
それと
「町村外務大臣、あなたは日本の国がこんなにもコケにされて馬鹿にされているのに、腹が立たないんですか?」
と聞いたら、「コケにされておりません」と。
町村さんはそう仰いました。
だからもう町村外務大臣も期待していいのか?わかりません。(笑い声)

もう皆様に頼るしかないんです。
本当にどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。(拍手)

 話の花束ぴろんさんのテキストです。
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(3)斉藤文代さんのお話

2005-07-17 | 藤沢市民集会

神奈川の皆様、こんにちは。
暑い中こんなにたくさん私の話を聞いていただけると本当に私も今日は胸がいっぱいで。
今日藤沢に来て良かったなぁと思っております。
聞こえますでしょうか?
だいたい私地声で声が大きいんですけど。
ちょっとの間、よろしくお願いします。

私の弟・松木薫は1980年にですね。
スペインのマドリッドから北朝鮮の方に拉致されました。
拉致した犯人は森順子さん若林さんと言う、二人で拉致したんじゃないか?というようなことで警察の方から私はお話を伺っております。

私の弟は、父には「スペインに行くときは1年で帰ってきますので、ぜひ行かせて下さい」ということで。
父はその当は、時絶対駄目だということで反対しましたけれど。
私たち家族、母・私「これから先は何でも勉強することは大事だから、お父さん最後の願いだと言ってるから、行かせてやってください」と願いしたのが今でもちょっと後悔しております。
あの時父が反対したように皆で反対しておれば、こういう事もなかったんじゃないかな?と時々布団の中で考えて眠れない時もあるんですよね。

父も折れまして、じゃあ1年だけということで許してくれて、弟は最後のバイトの、富士山でバイトをしてまして。
その費用と父から貰った費用でスペインの方に渡って語学の勉強をしてたんですけれども。
まさかこの26年間帰って来れなくなると、思うことは一回も無かったわけです。
私も本当に可哀想な子だなと、思っております。
80年に拉致されてから全然帰ってこないので父はもう慌てふためいて、スペイン大使館だの外務省だのとずい分駆けずり回って探してくださいということでいろいろお願いして回ったんですけども。
その当時は門前払いで、外務省の方も「まぁそのうち気が向いたら帰って来られるんじゃないんですか?」と言う簡単な気持ちだったので、父も本当にずい分いろんな所へお願いして回って助けてやることも出来なくって、亡くなりましたけども。
本当に父も無念だったと思います。
本当に可哀想な父だなぁと思っております。

その後に私の母が、その後活動を続けなければいけないんですけども、母はうちにおるおとなしい母でありまして。
父の言われるがまま、父の指導のままで付いて回るようなおとなしい母なものですから。
本当にショックが大きかったと思います。
本当に今思えばですね。
88年に平壌で石岡さん・有本さん・弟が暮らしていると、いうことが分かりましたけれども。
父はそういうことも出来ないままにあと亡くなりました。
そして母の方に手を差し伸べて亡くなってたんですね、床でね。
それを考えると何と北朝鮮は憎いところなんだろうと、いつもいつも思います。

未だかつて北朝鮮から帰って来れないということが本当に私の母は悔しいんだと思います。
今病院の方に入院しておりますけども、あんまり病状は良くないんですね。
でもあの、何としてでも薫に会うまではという気持ちが強いんですよね。
だからもう吐血も何回もしてるんですけども、その度ごとに私も一生懸命「頑張って頑張って」と言って励ましているんですけども。
母も「頑張ります」と言ってくれますので。
辛い気持ちで冷たい言葉を浴びせるときもあるんです。
「あんたがいないと(薫が)帰って来たって、母ちゃんがいないと泣くよ」って。
「薫が泣くよ」って言ってですね、
「頑張りなさい」って耳元で大きな声で怒鳴る時があるんです。
でもやっぱりそうやって母を元気付けさせないと、帰って来るんだと思って母は待ってるんですから、絶対に会わせるまでは私も頑張らなければいけないなぁと思いまして。
皆さんとこうやって活動させていただいております。

本当にもうよど号の妻たちは平気で日本に帰ってきて、のほほんと暮らしておりますけども。
なぜこんなに日本の政府が長年助け出してくれないのか?と思うと、毎日辛い思いでですね。
本当に毎日毎日、主人に分からないように布団の中で私涙流して、寝る時あるんですよ。
何も自分が出来ない。
なんでこんなに自分で一生懸命やってるつもりでも政府は動いてくれないんだ、やっぱり駄目なんだなと思いつつも、やっぱり母が待ってるし。
私たちが頑張らなければ、母に対しても申し訳ないし。
母も私がいつもベッドでですね。
「母ちゃん」って、「薫が帰って来たら何ていうの?」って。
「お帰りなさいって、私玄関の前で車椅子に乗って迎えに出るんだ」といって。
歯も無いもんですから大きい声で練習してるそうなんです。
それを見たら、聞いたらですね。
絶対会わせるまでは何が何でも私が倒れるまではやらなければいけないと思いつつ、一生懸命皆さんに活動させてもらってこうやって回らせてもらってますけども。

本当にうちの家族の場合には骨も2階もあずけられたんですよ?
死んでると言ってですね。
でも私は最初から信じておりません。
骨は2回目は動物の骨まで混じってるわけですから、他人様の骨そんな骨を、私は橋本先生に鑑定していただいて本当に良かったと思っております。
あの時に受け取って父のお墓の中に入れていたら父も泣いて。
あぁ、私はひとつだけは良い事をしたんだなと思って。
絶対に受け取らないといって跳ね除けましたので、そこだけは父に対して良い事をしたと今でも思っております。
父の墓に入れていたら、父も本当に私の所に毎日毎日出てくるんじゃないか?と思うくらいに、思うとぞっとしますんで。

この間の第3回実務者協議のときもやはり松木薫さんの骨ですと、いって持って帰ってきたときもなんだと思って、何で持ってきたんですか!って政府の方に言いました。
前の時も偽物だったじゃないですか!って、今回もまた偽物だったらどうするんですか!って。
どう責任取るんですか?って、私は言ったんですけども。
出された物は全部持って帰ってくることにしてましたんで持って帰ってきましたと。
このような答えしかないわけですよね。
本当にめぐみちゃんの骨も偽物なんですよね。
なんてひどいことをする国なんですか?
本当に許せないですよ。
めぐみちゃんは13歳ですよ?

そんな子供を連れて行っておいてね。
本当に骨ですとかね。
弟の2度も骨ですとか渡すということは私は北朝鮮は許せない国だと、自分でも優しい心はあるんですけども。
5人が帰って来たときは、今度はうちの番だと、今度はうちが帰って来るんだと。
言い聞かせながら、そんなに人を恨んだらいけないいけないと思っておりましたけれども。
もう我慢が限界に来ているわけですども。
母もいつそういう状態ですので、薫に会えないかも知れない。

そういうことを考えたら、絶対にこれから時間もないし。
皆様にお忙しい中時間を作ってきて頂いて、お願いするのも申し訳ないんですけども。
やはり世論の力、皆さんの力を借りて私たちが頑張るしかないと、早期解決が出来るように何としてでも知恵がありましたら私にもお聞かせください。
私も出来る限りのことはしておるんですけれども、何としてでも日本政府が動いてくれなければ、北から家族皆を助け出すことは出来ませんので、どうか皆様力をこれからも貸して下さい。
今日は皆さんとこうしてお話させていただきまして、良かったと思っております。
これからも頑張りますのでどうぞよろしくお願いいたします。(拍手)

※斉藤文代さんのお話は終始涙ぐまれてのお話でした。

話の花束、ぴろんさんのテキストです。
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(4)平野フミ子さんのお話

2005-07-17 | 藤沢市民集会


こんにちは。
今日は本当にありがとうございます。
やっぽり暑いですね。
熊本も35度くらいあるんですけども、こちらも負けずに暑いなぁと思って。
ここにお集まりの皆さん、拉致被害者を助けたいっていうその思いと、こんなに日本が駄目になったどうしたら日本を立て直すことが出来るんだろうか?
ちゃんとしたまともな国にする事が出来るんだろうか?とそういう思いの、日本が大好きな人たちが集まってくださっていると思います。
本当に感謝いたします。
ありがとうございます。

私の妹、さっき龍子さんが仰いましたけども。
修一さんと一緒に吹上浜に行って、その時に車の中にカメラがあったんですね。
その時にお互いに撮った写真です。(ホワイトボードに掲げられたるみ子さんと修一さんの写真を指差す)
ですから拉致される数時間前に撮った写真を現像しましたら、このように暑い8月の12日ですから、盆の前の日ですから。
サングラス掛けて、帽子かぶってますけども。

それを蓮池祐木子さんにですね。
帰国した翌年ですね。
「この写真はふけてるね」って仰いました。
私たちもそう思います。
これが拉致される2ヶ月前にいとこの結婚式に父と二人で出たときのスナップ写真ですね。(るみ子さんの写真を掲げる)
あの本当にふたり、これは一人で写ってますけど。
本当に父は妹を可愛がっていましたので、恥ずかしそうな顔で父と妹が一緒に写っている写真もあります。
それが1枚でしょうね。
父とるみ子が一緒に写ってる写真と言うのはですね。

本当に妹は良い子でした。
身内ですから、あの第3者として見ても親思いの良い子でした。
私が代わりに行けたら良いのになぁ、と思うくらい親孝行の子でした。(少し涙ぐみながら)
その日は私と妹は同じ鹿児島市内の会社に勤めておりましたので、(車で)私を降ろしてから妹は会社に行ってるんですね。
8月の12日、ちょうど土曜日でした。
半ドンでしたので、今日は修一君と一緒に吹上浜に夕日を見に行くんだっていうふうに、2~3日前から言ってたもんですから。

私もまだ修一君の顔は一回かニ回見たくらいででですね。
直接お話したことは無いです。
でも実直そうな感じの方でですね。
妹も今の24歳と違って昔の24歳と言うのは本当に真面目って言うか、子供ですね。
妹は暗い所が嫌いだから、ちょっとこう男性を、修一君も男性ですから、暗い所でちょっと手を握ろうとしますよね?普通ね。
嫌ってして、こんなふうにしてするんだよって。(体をよけるしぐさをしてみせる)
妹が私にこんなふうに嬉しそうに、恥ずかしそうに話をしてくれたのを思い出すんですけども。

そんな真面目な子がですね。
10時になっても電話くれない。
12時、1時、本当にその夜はまんじりともせずに夜を明かしました。
本当に私たち母と、父はちょっと船に乗ってましたので、分かりませんでしたけれども。
なんでこんなに遅いのか?
今までこんなこと無い。
携帯電話も無い時ですからね、連絡もつかないですよ。
何でるみ子こんな事、今まで一度も無いことだよね?って、事件にでも巻き込まれたんだろうかね?って言って警察に届けても警察は取り合ってくれません。
アベックで出てますから。

駆け落ちじゃないか?とか、ラブホテルにいるんじゃないか?
そんなことをする子じゃないんです!って言っても何も事件が表に出てこないもんですから、警察は取り合ってくれません。
市川さんの家族と一緒に、翌々日にですね。
吹上浜に行ったらそのような車と、スリッパと置いてあった様な状況でした。
本当に私たちは、本当に自分たちが被害者の家族になるなんて思いませんでした。
突然来るんです。
ある日突然、本当に、狙われたようにして、本当に不思議。
なんで私たちが新聞沙汰になるんだろうか?って、何でるみ子がこんな事になるんだろうかって言う、そういう思いです。

特定失踪者の方たちも私たちと同じだと思います。
私たちも本当に苦しんできました。
でも何も分からないというのが、一番の苦しみですよね。
父も妹のことを思いながら、あの世に逝きました。
本当に、どんなにか、可愛がっていた娘ですから。
一番、4人の中で一番可愛がっていた娘ですから。

私たちは父が怖くてですね。
大正生まれの頑固親父でしたから、父が怖くてあまり父と遊んだという記憶が無いんですけども。
るみ子は本当に父を慕ってですね。
もう、父ちゃんって言ってて、一番それが頑固親父にしてみれば、こんなに頑固なのに自分を慕ってくれている。
それが可愛いんでしょう。
可愛かったんでしょう。
今思えば、私も親になって初めて分かるんですけども、でもその時は子供ですから、私も。
怖い親父の所には寄り付きもしませんでしたけども。

その父がですね。
癌に倒れて、小泉さんが訪朝する。
本当に今まで1978年8月の12日拉致されてから、ず~っと、私たちは北朝鮮しかない。
産経新聞さんの方で拉致を取り上げていただいてアベックは北朝鮮に連れ去られた可能性が高い。
北朝鮮とは言ってなかった、私は第3国とちょっと覚えてるんですけども。
あ、それしかないと思ったんですね。
国交がある所じゃないですしね。
私たち個人レベルではどうすることも出来ない。

日本国政府が何かしてくれるだろう、救い出してくれるだろう。
私たちにしてみれば、放ってた状態、でした。
ですから私は妹の為に何もして上げられなかったという、すごい後悔の念がありましてですね。
こんなふうにして皆さんに訴えているんです。
後でしまった、るみ子の為に何もしてやれなかったをいうふうにですね。
顔向け、目を向けられないということが無いようにですね。
絶対にるみ子を救い出してやるっていう、あんな良い子をなんで?っていう思いがあるものですから。
皆さんにこうして訴えさせていただいております。

9月の17日に・・・あの衝撃な・・・私たちにとっては、死亡とされました。
父はもうですね。
今まで何もしなかったのに、急に小泉さんが行かれました。
その時は肺がんっていう末期っていう診断を下されていましたので、それで父はすごい期待してるわけですね。
期待すれば今度は心臓の方に負担が行くんでしょうね?
心臓も云々と言うことは何も無かったんですけども、心筋梗塞を起こしまして、絶対安静と言う状態になりまして。
そして10月になってその死亡というのを聞いたときにでも
「絶対に信じちゃおらん、北朝鮮は嘘ばっかりじゃ!」
って前から言っておりましたので。
何度も何度も北朝鮮には騙されておりましたので。
父も本当に、それは本当に断末魔の叫びでしてね。
「おれは信じちゃおらん!」
って言うことを母に9月17日にもそれは言っておりました。

10月になってから心筋梗塞もずいぶん酷くなりまして、10月15日に生存者の5人の被害者の方が帰られた翌々日にですね。
弟・増元照明にですね。
「日本を信じろ、俺は信じる」
と言うことを遺言を残しておりまして。
私はその場にいなかったんですけども、そのような事を言って旅立ちました。
私はその事を聞いて「え~?嘘だろう?」って思いました。
これほど日本の政府にですね。
拉致問題、それまで疑惑と言う形でしたので、ここまで無視され続けてきたのに。
父は本当に日本が好きだったんだな、と言う思いを新たにしたんですけども。

本当にどんなにか、妹・るみ子に会いたかったか?
常々集会って言うか、鹿児島の方でですね。
署名運動させてもらってるときに天文館、鹿児島の繁華街なんですけども、
「自分が死んで帰って来ても何もならんのだ」と。
「生きているうちに帰ってきて欲しい」っていつでも言ってました。
それはそうですよね。
死んでから会えるわけ無いんですから。
でも75、体に鞭打ちながらですね。
署名しておりましたけども。
それも叶わぬ、とうとうあの世に逝ってしまいましたけど。
あの10月の15日、生存者が帰ってきて、10月の17日にですね。
「るみ子たちのことを忘れないでくれ!」って言う。
そこまで、ギリギリまで、危篤、10月に入ってから何度ももういつ死んでもおかしくないってお医者様に言われてたんですね。
血圧はどんどん下がっていくし、それでも10月の17日、生存者が帰ってきた翌々日まで持ってくれました。

ですから皆さんに、あの、歓迎ムードの中、もちろん私たちも嬉しいです。
5人が帰ってきたことに対しては。
成果があったんだと、一人でも帰ってくればと、私たちは本当に皆で喜びましたので。
その影にはこんなして、24年間、政府は何も動いてくれなかった。
私たちはその犠牲者です。
国と国とのトラブルに私たち家族は巻き込まれているわけですね。
それをどうして国は何もしてくれなかったのか?

そっちの方の怒りもあるんですけど、とりあえずそれは置いておいて。
やっぱり私たちは家族なんだと思いました。
あと一人残された母にだけはですね。
妹を会わせてやりたい。
その思いで、るみ子を母に会わせて、とにかく体力的にも精神的にも今落ち込んでおります。
でも会えるんだと言う希望を持って生活しておりますけども。
るみ子にだけ一目会わせて、父の元にいつかは逝きますよね?
あの世に逝きます
その時の冥土の土産に私は持たせたいんです。
るみ子に会いたいよって・・・元気出して・・・あまりにも・・・可哀想ですよね。(涙で声にならず)

私も娘が一人おります。
17になります。
私もいろんなことがあって、妹がそういう状態でいなくなったもんですから、親を残していけないという思いもあったもんですから。
縁が無かったのもあるんですけども、37で結婚して38で子供産みましたので、今17歳です。
その子が13歳のときにですね。
横田めぐみちゃんはこんなときにいなくなったんだと思うとですね。
今でも私の娘はお母さん、お母さんと甘えてきます。
その事を考えるとどんなにめぐみちゃん、早紀江さん滋さんに会いたかったんだろうかと思うと、本当にいたたまれません。(このあたりまで、時折涙で声を詰まらせながらのお話)

どこまで、いつまで、被害者家族がこんなして老体に鞭打って東奔西走、日本各地。
本当に国会議員よりも忙しい生活をしてらっしゃいます。
早紀江さんは皇后陛下と同じく、頚椎ヘルニアなんです。
で、本当はこうして首を、なんて言うんですかね?
しなければいけないのに、皆さんの前では外してらっしゃるそうです。
そうしてまで皆さんの前で一生懸命訴えていただいてます。
家族の声を皆さんに聞いていただくのが一番の訴えになると、私たち時間のある限りこうして皆さんに訴えています。
でも数に限りがあります。

先日も某テレビ見てましたら、キャスターの人がですね。
「これは私の意見ですけども、経済制裁するよりも対話ですよね?」って言ったんです。
それを聞いてですね。
コメンテーターの人も「そうですよね」って仰ってたんです。
その人たちの個人的意見だといっても全国放送ですからね。
私たちがこうして皆さんと対話しているのが水の泡になっていくのが、本当に哀しくてですね。

有本恵子さんのお父さんの明弘さんも仰ってました。
月に2回講演があるけれど、だいたい500人くらいですって。
だから月1000人ですね。
年間12000人、ですね。
5年したら、5万人しか訴えられないって。
俺はもう5年しか生きられんって、ご自分で仰ってるんですけども。
5万人しか訴えられんって。
ああいう放送のキャスターの人に申し上げたいんです。
個人的意見でも私たちのこういう生の声を聞いて欲しいんです。
それでああいう発言をしていただきたいんです。

私たちの事を聞きに来てくださったのは、日テレの有田さんですね。
この間の座り込みにも3日間来て頂きました。
私たちの生の声を聞いていただきました。
そこまでしてしていただきたいんです。
ただ上っ面をですね、見ないで欲しいんです。
私たちの5月22日のバッシングも、家族だからあそこまで怒るんです。
小泉さんもあのように私たちと同じくですね、孝太郎さんが拉致されたら誘拐されたら、あのような態度を取れるんでしょうか?
私たちと同じような叫びになると思います。

そういうことにもっとですね。
日本の国家の長としてですね。
もっと国民の命を大事にしていただきたいんです。
拉致問題は小泉さんの中には無いに等しいですね。
私の感じるところでは、もう家族には3度会ったから、だからもう会う必要は無いと仰ってるそうで。
それでも私たちはそういう冷たい人だけれども、政府に訴えていくしかない。
小泉さんに頼るしかないんです。
その為には皆さんの、この怒りをですね。
小泉さんにぶつけて頂きたいんです。
小泉さんがもう一回、ちゃんとまともな気持ちにならなきゃいけないんだという、そういう気持ちにですね。
ちょっとでもなって頂けないと、そのまま北の地に。

絶対生きてるんです。
めぐみちゃんも生きてるし、修一君も生きてるし、薫さんも生きてるんです。
恵子さんも生きてます。
私のるみ子も頑張っていると思います。
絶対にあちらで頑張っている人を見捨てないで下さい。
そして特定失踪者の方々も名前すら分かってない人たちもたくさんいるはずです。
どうぞその人たちの為にもう一回、あの9月17日の怒りを私たちに貸して下さい。
本当に私たちに残された時間は無いんです。
父みたいに第二第三の犠牲者が出る前にですね。
父のような哀しい叫びは聞きたくありません。
お願いします。

私たちと同じく気持ちを同じにして、この経済制裁。
まず万景峰号を止めることなんです。
悪の温床です。
日本に覚せい剤が入って来たり、密輸をしたりですね。
偽札を多分あの船で持って来て、過去にはあったかも知れません。
無いかもしれませんけど、でもまた日本がね。
黙ってしまえば、いつ悪いことをしようと虎視眈々と構えていますので、どうぞ皆さん。
経済制裁しろという、声を発して欲しいんです。
声を発しないでは、北の思う壺です。

どうぞ怒りを、皆さんの怒りをですね。
政府に訴えてください。
私たちは皆さんに頼るしか、なす術が無い状態です。
政府の人たちにいくら訴えても暖簾に腕押し、豆腐に釘って言うんですかね。
パフォーマンス好きな小泉さんと同じく、皆さんもパフォーマンス大好きで。
二枚舌、三枚舌を使うように、私たちには感じられます。
それが哀しいかな、現実なんです。
どうぞ皆さん、もっと威厳のある、尊厳のある、プライドのある日本にして欲しい。
この拉致問題はそれを投げ掛けていると思います。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)
本当に見苦しくて、ありがとうございます。(拍手)
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(5)真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事のお話 その1

2005-07-17 | 藤沢市民集会


どうも皆さんこんにちは。
ただ今ご紹介いただきました、特定失踪者問題調査会専務理事の真鍋でございます。
小泉さんに倣って、クールビズで来ております。
どうも失礼いたします。(笑い声)
一番イヤな人の格好真似るのも(笑)、どうかと思いますけれども・・・

私の方から、特定失踪者問題調査会の調査の現状、それから神奈川県の現状。
そしてそれに付随する、拉致問題全体を解決するのに何が必要かというようなお話をさせていただきたいと思います。
時間がだいぶ余っているようですので、ちょっと少しお時間をいただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

最初に私ども特定失踪者問題調査会がですね、現在440名のご家族からご相談をいただいております。
私どもに届けられなくても、私たちに状況をご相談されるご家族が他にもたくさんいらっしゃいます。
本当に私ども、スタートして2年半になるんですけれども、実際これほど多くのですね。
失踪された方がいらっしゃる。
それで苦しんでいらっしゃるご家族がですね。
こんなにたくさんこの日本の、自由で、平和な、豊かな国にですね。
あるということにほんとに驚いております。

具体的な数を申しますと、日本で年間10万件失踪があるそうです。
これは警察に届けられた数ですから、警察に届けられないご家族もいらっしゃると思います。
年間10万件の失踪の内、99%くらいは5年間の内に何らかの結論が出るそうです。
拉致被害者の方もそうですし、特定失踪者のご家族がそうなんですが。
10年、20年、長い場合には40年、50年何の結論も出ないままにずっと時が流れていくご家族が年間に1000件、ということになります。

そうすると、拉致問題がいつから始まったのかというのは、まだはっきりとしていないんですけれども、仮に30年と致しましょう。
そうすると30掛ける1000ですから、3万人の失踪された方の内に北朝鮮による拉致被害者がいる事は間違いないと、思っております。

ですので、我々の所に届けられてるのは、その3万件の内の2%にも満たないくらいのご家族から、しか、実は届けられていないということですから。
我々でこうした後ろにもポスターがありますけれども。
公開された方々が220人くらいなんですけれども、我々の知らない所にですね。
必ず拉致被害者の方がいるだろうと思っております。

その証明として幾つか例をお話したいんですけども。
ちょっとホワイトボード(以下、白板と略す)をお借りしますけれども、440人の内にですね。
もう既にご存じだと思いますけれども。(白板に向かった時、マイクがハウリングを起こす)
あぁ、ごめんなさい。
デカイ声で言いますね。(マイクを外して地声で話す)
藤田進さんの写真が出てきましたね、川口にお住まいになってた方ですね。(藤田進さんの名前を板書)
それから加瀬テル子さん、千葉県の海上町(うなかみちょう、05年7月1日より隣の旭市に合併)という所ですね、銚子の近くですけれども。(加瀬テル子さんの名前を板書)
このお二人は写真が出てきたので、皆さんもよくご存知だと思います。

もう一方、先日発表しましたけれども国井えり子さん。(国井えり子さんの名前を板書)
この国井えり子さんは網走から失踪(1968年)です。
藤田進さんは当時19歳、加瀬テル子さんが17歳、国井えり子さんは16歳です。(年齢を板書。会場より「え~」と言う声)
まあめぐみちゃんが13歳ですね。
この3人につきましては、ちょっと事情があって国井えり子さんはややセーブした言い方をしておりますけれども。
私どもとしては、拉致はもう間違いないと思っているんですけれども。
写真が出てきた事情がありまして、はっきりした言明は避けておりますけれども。
はっきりいって北朝鮮から写真が出てきた方は、はっきりと判っているのは今3人です。

それでですね。
藤田進さんは、実は安明進氏の証言がありまして、市川修一さんと同じ場所にいたということです。
市川修一さんの隣にいた男性で、とても親切な男性がいたのを記憶している、と。
それで藤田進さんの写真を見た安明進氏は、この親切な若い男性は、藤田進さんに間違いないと言っていました。

それから問題は、加瀬テル子さんと国井えり子さんなんですけれども、加瀬テル子さんの夫と言われている男性、覚えていらっしゃいますか?
日本人(拉致被害者)の管理課長をしていた人物と、いうふうに言われています。
この男性が実は誰であるか?
これを私たち最重点課題といいますか、調査事項として進めているんですが。
現在のところ残念ながら判明しておりません。

問題は、国井えり子さんなんですけれども、その国井えり子さんの写真、今日お持ちしなかったのは申し訳ないんですけれども。
国井えり子さんと同じ場所にその男性(加瀬さんの夫と推定される人)が、写っているわけです。(会場より「ほほぅ」の声)
加瀬テル子さんの夫と言われている男性も、日本人で拉致されてきた方です。
それがまあ向こうに行って、洗脳されて、向こうに馴染んでしまって、仕事として日本人の管理課長をしているということでございます。

ということは、今(ご家族からの)お話がありました市川さん、増元さん、松木さん、こうした人たちを管理する部署にいたことは間違いないです。
ということは、当然帰国されてきた5人の方も知っているはずです。
知っているはずです!
当然、この男性(加瀬さんの夫)と一緒の場所にいた国井えり子さん、この方も拉致被害者であることは間違いないということになるわけですから。
ぜひですね、5人の帰国された方々は、知っているはずです。
それを是非ですね、公にしていただきたい。
そうすると、曖昧なままにいるこうした特定失踪者の方々も、政府認定という道に進む事は間違いないと思っております。

私どもとしてはですね。
私たちのデータにない拉致被害者の例として、加瀬テル子さんの夫であるし。
またですねご存知の方もいらっしゃると思いますけれども、金賢姫が証言しているのをご記憶ありますか?
田口八重子さんと一緒にいた場所に女の子がいました。
小さな女の子がいました、日本人でした。
その女の子が誰かということは、だ~れも追っかけてません。
誰だかもわかっていません。
当然我々の持ってるデータと照合してるわけですけども。
該当する失踪の年とその時の年齢と、それから金賢姫の証言と重ね合わせると、お一人だけいらっしゃるんですけれども、当時9歳で失踪です。(会場より「はぁ」の声)
この9歳の女の子と、金賢姫の証言がマッチするかどうかまだわかりません。
まだわかりませんが。
もしマッチしたとしたら、13歳より遥かに小さい子も(拉致の)犠牲になった可能性があるということです。

ですからとかく、拉致問題というとですね。
どうしても拉致被害者の、政府認定の皆さんのですね。
行動や発言、それから報道といったものが優先されてしまいますけれども。
まだまだ多くの拉致被害者が存在すると、存在する可能性が大きいと、いうことを前提にですね。
ぜひこの拉致問題を皆さんと一緒に解決していきたいと思っています。
今日も特定失踪者のご家族も来られています。
後でご紹介あると思いますけれども、神奈川県にいらっしゃられない遠くから来てるご家族もいらっしゃいますけれども。
ぜひ一緒にですね。
この問題の解決のためにご努力いただきたいと思っています。

神奈川県の現状についてお話を進めたいと思います。
神奈川県で明白に拉致だということについてはですね。
事例としては、1982年3月22日に金沢文庫で失踪した河嶋功一さんという方がいらっしゃいます。
関東学院大学を卒業されて、地元の出身地である浜松に就職が決定していましてですね。
そして、ご両親と一緒に引越しの手はずを終わって、ご両親は車で荷物を持って帰る、と。
ご本人は電車で帰ると。
で、下宿の前でご両親と別れたまま失踪という事件が、神奈川県で最も怪しい事例となっております。

河嶋功一さんにつきましては、当初から私ども拉致の可能性が高いと思っていたんですけれども。
我々として拉致に間違いないと認定に到った経過といたしましてはですね。
河嶋さんが失踪する前、何時だかははっきりしないんですけれども、河嶋さんから中学校の同級生の所に突然電話があったそうです。
その電話が非常に不思議な電話であったと、同級生の方が記憶しておりまして、何がなんだかわからないけれども、とにかく河嶋功一さんが言った言葉が忘れられない。
これは「これから北朝鮮に行く」ということを言ったまま、後は意味不明で、かかってきた同級生の方も一体これはどういう電話なのか?と。
ということが、不思議で仕方がなかったという電話なんですけれども。
そういう電話があったということをですね。
同級生の方から証言いただきまして。
当然その証言の裏を取る作業もしましてですね。
その証言は間違いないということから、私どもは拉致されたことには間違いないだろうと。

まあ、自らの意思で行ったんじゃないか、ということになるわけですけれども、自らの意思で行ったんだとすれば、自らの意思で帰ってこられなければいけませんよね?
帰りたくても帰れない状況に留め置かれるということは、これは拉致であると。
有本恵子さんもまた同じようになるわけですね。
そういったケースが神奈川県であるわけです。
当然、神奈川というのは、皆さんお地元ですからわかると思いますけれども、いろんな事件があってもおかしくない所ですね。
この種の。
しかし未だ拉致ということについては、まだまだ未解明のことが多いと思うんですが。
不思議なことがあるということだけは、今日お話ししておきたいと思います。

特定失踪者の方々の失踪の経過を調べますとですね。
幾つかの共通点があるんですけれども、神奈川県における共通点はですね。
横須賀周辺に多いということです。
それからどういうわけか知りませんけれども、横須賀周辺の自衛隊に入隊後、任期が来れば辞めるという任期制の自衛官になった後、なぜか日産(自動車)の季節工になる。
で、季節工が終わって、(郷里などに)さあ帰ろうかという時に、その人だけ帰らないでそのまま失踪すると、そういうケースが非常に多いということです。
不思議です。

自衛官の失踪というのも、あることはあるんですけれども、この横須賀に集中するというのが不思議です。
それから自動車メーカーの、これはちょっとマスコミの方もたくさんいらっしゃるんであれですけれども、自動車メーカーたくさんありますね。
トヨタとか三菱とか、なぜか日産に集中すると。
で、この神奈川の日産、すなわち座間工場ですとかですね。
それからあちらの・・・(会場から地名の発言あるも聞き取れず)、ああそうそう、そういった所に季節工として入った方が、そのまま行方不明になるということです。

ここまでお話しすると、だいたいもしかして?と思うのが、八尾恵さんの存在ですね。
彼女がどこまで拉致に関わったのかということは、彼女の証言の範疇でしか想像できないわけですけれども。
有本恵子さんについてはですね、告白されてるわけですけれども。(「謝罪します―私が有本恵子さんを拉致しました―」文芸春秋など)
彼女自身が関わらなくても、この横須賀周辺でこういう怪しい事件があるということ。

それから金沢文庫というのも、ある意味では横須賀にも非常に近いことから、この地域はですね。
米軍の基地も大きなのがあるわけですし、当然八尾恵さんは、自衛官を包摂するために、横須賀に店(スナック)を開いたわけですね。
そういうことから類推していけば、可能性として、こういう横須賀で自衛官になって、自衛官の任期を終わった後で、日産の工場は近いですから。
そういった所に勤めた後に、河嶋さんと同じような声がかかって「いい仕事があるんだよ」というような誘いがあったのかもしれない、と。
そりゃまだまだわからないんですけれども、そういうことも可能性としてあるんじゃないかなあ、と思っております。

え~何分くらいまでにしましょうか? 30分くらいまで。
(司会:そうですかね)はい。
それで神奈川の現状は、たくさんお話したいことありますけど、とても10分や20分ではお話しできませんので、これくらいにさしていただきまして。
特定失踪者問題に固有の問題についてですね、お話をさせていただきたいと思います。

今、拉致被害者のご家族の方から、異口同音におっしゃられた失踪から、今日に到るまでの状況。
これは特定失踪者のご家族もまったく同じです。
まったく同じです。(強調のため繰り返す)
UFOにさらわれたんではないのか?
自殺したんじゃないのか?
どっかに逃げてったんじゃないのか?
というようにほんとにご家族の苦しみというのは、まったく同じです。
そして、特定失踪者のご家族も高齢化してます。
もうほんとに再会果たせずにお亡くなりになった方々というのは、ほんとにたくさんいらっしゃいます。
加瀬テル子さんのお父さんも90歳を超えております。
テレビでも見ていただいたと思いますけれども、ほんとに頑固な親父でしてですね。
私も何度も行って、説得して公開に踏み切られたというような状況ですね。

いろいろな家庭の事情があったわけですけれども、一言「会いたいよ!」と「一目会いたい」ということだけ言われておられますが、もう90歳でほんとに高齢です。
国井えり子さんのご両親も、今北海道にお住まいですけれども、ほんとにもう足も動かないとかですね。
そういう状況です。
私どももご家族の面接に行きますと、ほんとにみんな同じ、皆さん同じような状況でですね。
何時になったら再会できるのか、というそういう思いだけで、頑張っておられるというご家族ばっかりですので、そういう状況を一日も早く変えていきたいな、と思っております。

そして特定失踪者のご家族が、まったく同じ状況というのは、政府の対応はまったく同じです。(薄笑いの声)
拉致被害者のご家族も先程いろいろお話一緒にしてたんですけど、政府認定っていうのは、ほんのこの2年、3年の間なんですね。
田中実さんに到っては、事件そのものは(実行犯が刑事告発されているほどの)明確な拉致なのに、この間やっと認定したと、いう状況ですから。
特定失踪者の場合は、認定どころか、認定に行く前のフォローといいますかね。
それはもう、ある意味拉致被害者のご家族よりも淋しい状況です!
一言でいうと、外務省はまったく相手にしません。
まったく相手にしません!(怒りのこもった口調)

辛うじて写真の出てきた藤田進さんや加瀬テル子さんについてはですね、名前を出しました。
日朝交渉のなかで。
名前を出しただけです。
「こんな人の写真が出てきてるんだけども、どうだね?」それで終わってます。
ほんとに。
で、向こうから「そんな記録ありません」って言われて「ああそうですか」で帰ってきて。
ポイントはご家族にそれを報告する意思がないということです。
ここがポイントです。
我々は、何度も、何度も頼んでですよ?
外務省に、内閣府に頼んで。
どんなことが話されたのか?
日朝協議の場でどういう話があったのかを、家族に報告すべきだろう!と。
してください、してくださいっていうのも変ですよね?
するべきだと言ったんですけれども、「そんな義務はありません」「なぜですか!」「認定されていないからです」(は~と会場ざわめく)その繰り返しです、ずっと。

もうしまいには、こっちも喧嘩ですからね。
「ふざけんじゃない!」というような状況が、繰り返されてるわけですけれども。
結局、政府の方としてはですね。
特定失踪者の問題を真剣に取り扱うという意思は、上から順番にない!
トップ(小泉首相)が殆どなくって、末端の警察官の皆さん、末端の公安調査庁の皆さん、末端の自衛官の皆さん、海上保安庁の皆さん、末端に行けば行くほど、「何とかせにゃならん」という意識を持って、頑張っていらっしゃる。
上に行けば行くほど、もうだんだん、だんだんどっかでフニャフニャフニャ~となってですね。
意思が決定されて行かない。
というのが、実はこの特定失踪者の問題等を含めて、日本のこの構造であると思っています。

悪口ばかり言ってると、ほんとにいけませんで、たまにはほめなきゃいけないんですけれども。
神奈川県警とそれから静岡県警、これは凄いです。
あの~、今日は警察の方いらっしゃられないんで。(笑い声)
他の県警の方に比べて、非常に真剣に調査、捜査をしていただいています。
特に河嶋功一さんの件は、我々がびっくりするくらい、ほんと真剣に捜査をしていただいています。
なのにですよ?
なのに、未だに河嶋功一さんについては、政府のトップは、な~んにもしていないのは、どういうことなんだろうか?と。
末端のほんとに、真面目な警察官の人とか、調査官の人たちとか一生懸命やったのが、結局トップの判断で潰されている。
これはもう、拉致被害者のご家族が通ってきたプロセスとまったく一緒です。
残念ながら。

この状況を変えない限り、拉致問題というものは解決しない。
全容解明も無理だし。
ましてやその先にある救出っていうのになると、ほんとに申し訳ないけれども絶望的な状況が日本のこの国家の中にあるということを、ほんと正直にお話せざるを得ないと思います。
従って私たちはですね、救う会とはちょっと違う立場でやってます。
まあ私も救う会のメンバー、幹事ですけれども。
救う会からは違う立場から、この問題をどうするか?ということを考えています。

その一つの方法として、法廷闘争ということを考えてます。
古川了子さんというですね。
千葉で失踪して、安明進氏が平壌の病院で見たという女性について、政府を相手に認定訴訟を起こした理由というのは。
やっぱりこの日本という国のそういう法律・制度・官僚組織・発想の仕方、これがもう問題がグジャグジャあると。
そこを何とか超えるために、やっぱり裁判闘争でクリアしていきたい。
という思いから古川了子訴訟をしてるわけです。
ですから、古川了子さんのための訴訟ではなくって、他の特定失踪者のご家族のためにも、この訴訟というものを、何とか勝っていきたい、というふうに思っております。

そしてもう一つはですね。
これは我々調査会とか、家族会とか、救う会という問題を超えて、やはり皆さんにお訴えしたいのは。
ご家族の方が異口同音におっしゃるのは、この国、日本というこの国家をどうするのか、どういうふうにすれば、この拉致問題解決するのか?
どういうふうにすれば、拉致被害者を奪還できるのか?救出できるのか?という、このことを真剣に考えなきゃいけない時期に来てるんじゃないでしょうか?

多くの方法論あると思うんです。
ま、対話も一つの方法論だと思います。
それから経済制裁、これも有効な方法論の一つだとは思いますが。
もっと、もっとよく考えると、この国の法律・制度・官僚組織・国民の意識、そしてそれを総体として表わす日本国憲法といいますかね。
そういったところに、実は大きな問題があるんじゃないか?と、思わざるを得ません。

今日本の政府でですね、どこが拉致問題を担当するか?まずそれがはっきりしてません。
内閣府の支援室がいま、連絡調整室ということになってますけれども、な~んの権限もありません。
やれることといったら、曽我ひとみさんが森昌子のコンサートに行きたいと言ったら、「さあ、どうぞ」って設定してあげる(会場失笑)。
そりゃきちっとやるんですよ。(さらに笑いが広がる)
遺漏無く。
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(6)真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事のお話 その2

2005-07-17 | 藤沢市民集会


何故ですか?しかし悪口ばっかり言ったらゴメン、(真鍋氏自身も吹き出す)すいませんね、どうしても悪口言いたくなるんですけど。
しかし、支援室、いや連絡調整室の人たちが20人くらいいるんですが、我々と一緒に「じゃあ調査行きましょう」
行きませんよ!
どっこも行きませんよ!(吐き捨てるような口調)
この問題があるんだけど、これ重要だから一緒に調査、研究しましょうか?
しやせんですよ!

何の権限もないからです。
何の予算もないからです。
なーんの法律的根拠もないからです!
特定失踪者の問題なんて、どっこの法律にも書いてないから(対応が)できないわけです。
気持ちはあってもですよ?
気持ちはある人はたくさんいるけど、そういう法律制度になってるから、できませんということになってしまいます(会場からため息)。

警察。
この拉致問題解決するためにはですね。
この都道府県警の縦の垣根を取り外さなければ、絶対に無理です。
私が担当する場合なんかですね。
一人の失踪者のことを追っかけるためには、例えば山形県出身で、東京で育って、名古屋に転勤して、沖縄に行って失踪って方がいるんですよ。
だから私たちは、山形へ行って調査し、東京で調査し、名古屋で調査し、沖縄に行って調査せなきゃいかんわけです。
一人の調査にですね。

それで、一人の調査の記録をファイリングしてって、それで決め手として認定するという方法論取るわけですけれども。
警察もそれと同じことできるはずなんですけども、警視庁と神奈川県警めちゃ仲悪い。(笑い声)
警視庁と警察庁張り合って情報の交換ない?
そんなことばっかりでしょ?
で、警察庁は、全体をコントロールできるかというと、コントロールできないわけでしょう?
もう行政官庁ということで、捜査権を警察庁が握るってわけじゃないわけでしょう?
連絡調整するだけでしょう?
てなことばっかりやってるわけですね。

一人の拉致事件追っかけるのに、それだけの多くの県警の横の連絡がなきゃできないはずなのに、それができる体制にないわけです。
辛うじてなぜか知らないけど、神奈川県警と静岡県警は非常に関係がいいらしくってですね。
そういうケースもあって、そういう横の連携が上手くいくようなケースもあるらしいんですけれども。
総体で見れば、本当に縦割り、官僚構造そのままのことで、本当にいいのか?と。

それから公安調査庁ありますですよね。
公安調査庁の方々は、一生懸命やっていただいてます。
影ながら。(イヤミ口調でなく、特に「影ながら」を強調しての発言)
そういう人たちですから、影ながら一生懸命やっていただいてますけれども、決定的に限界があるのは、捜査権ないんです。
強制調査権ないんです。
逮捕権もないんです。
だからある意味ではもう工作員に面会して、「お願いしますから情報ください」ということを地道にやっていって、一生懸命集めた情報が、どこかでチョキンとされると。

そして公安調査庁と警察庁めっちゃくちゃ仲悪いでしょ?
おったがい(お互い:真鍋氏強調すると促音になる)の連絡はまったくない。
情報の交換まったくない。
言い出すときりないんですけど、もう一つだけ。
海上保安庁。
海上保安庁重要です、拉致問題において。
しかし、まったく情報の交換を警察と海上保安庁はないんですね。

だからある私たちが失踪事件を追っかけてて、これは船の事件かもしれないとなると警察はもう「あ、これは海上保安庁だから」っていうことになっちゃうわけです。
「そうですか、じゃあ」って言って、海上保安庁行きますでしょう?
そうすると「それは陸の事件だから」ってことになっちゃうわけです。
でもってチョン。
だから陸と海の情報重ね合わせれば、この失踪もしかしたらそうかもしれない、ていう話はたくさんあってもそこで途切れてしまう。

それからもう一つだけ、言い出すときりがないんですけど。
自衛隊の存在がまったくこの拉致問題の中では忘れられてるということです。
自衛隊の能力というのは、自衛隊の情報収集能力というのは、非常に優れたものがあるわけですが。
これが現在の自衛隊法の枠の中で非常に手足が縛られてる。
何よりも、これは仮定の話ですけれども。
北朝鮮に何か有事が発生した、要するにクーデターとかですね。
何かそんなことが発生した仮定しますでしょう。

北朝鮮の国内が、もうほんとに混乱した時に、誰が助けに行けれます?
日本の(拉致被害者が)たくさんいるわけです、めぐみちゃんですとか、市川さんとか、増元さんとか、いるわけですよ。
国井さんとか、加瀬さんとか、藤田進さんとかいるわけですよ。
誰が助けにいけますぅ?(会場から「行かれない」)
ですねぇ?だあ~れも行けませんよ!今。
もうそういう混乱の時には、飛行機があって船があって、何よりも訓練がされて自分たちで(現地の物資や人員に依存せず、自己完結で)行動ができる。
私なんかトイレだって大変だし、ご飯作れったって作れないわけでしょう、私が行くとしても。
やっぱりそれは、自衛隊できちっと訓練を受けた、特殊なそういう救出訓練をしている者しか行けないわけですよね?
それが、今の体制じゃまったく行けないですよ。

自衛隊ってのは、ご存じの通りミッシング・ソルジャー、要するに戦闘で行方不明になった人たちを救うっていう訓練やるわけですよ。
そりゃ、どこの軍隊もやるわけです。
それと同じ方法論なわけです。
ただそれが日本国内でなくて、海外であるということですから、方法論としてできるけれども、ホ~リツ(法律)が、ない。
ケンポー(憲法)でそれができない(憤懣やるかたない口調)、ということです。
本当に私たちは、政府の官僚だとか何とかを、批判ばっかりしてますけれども、要請ばっかりしてますけども、彼らの本音ってのはそこにあるんじゃないでしょうか?皆さん。

この憲法で、この法律でどうしろというのですか!?
彼らはそりゃ言わないけれども、実際に私が、逆の立場になったらそう言いたくなりますよ!
この法律はこれしかできないと書いてあるんだから、できません、と。
言ったらまた家族会から怒られるから、言わないだけで本音はそこにあるんだと思います。
だからそこの所を変えない限り、この拉致問題の全面解決は、わたくしたちは無いんじゃないかなあというふうに思っております。

ちょっと、過激な話になっちゃいますけれども、実際、今憲法改正論議があるわけですけれども。
この拉致問題をどう解決するんだということを考えたら、やはりその線上の中にこの国の法律。
この国の憲法っていうのをやっぱり考え直さなきゃいけないんじゃないのか?っていうのを、やっぱり真剣に考えていかなきゃいけないんじゃないんでしょうか?

ところが、ていうことで、アメリカでですね。
制定されました北朝鮮民主化法がありますね。
非常にアメリカとしてですね。
戦略をそこに盛り込んでます。
戦術を盛り込んでます。
武力を使わないで、北朝鮮をどうやって民主化させるかという、予算もふんだんに取ってます。
NPOにも何千億円も拠出するっていうのを、既に具体的に始めてます。

日本はどうでしょう?
まあ議論がチロッて出ましたね。
民主党案ってのがチロッて出てる。
それに対抗して自民党案ってのが、チョロッて出てる。
その後どうなりましたか?
消えてしまいました。
国民の皆さんも、それをどうしろ、ああしろっていう声もほとんどなかった。

今、辛うじて北朝鮮の問題に関係してるNPO、NGOの皆さんでちょろちょろっと集まって、どうしようかという、相談と議論は進めてますけれども。
残念ながらとても大きな声にはなってません。
もし憲法とか、何とか、そういうややこしい話がこれも何年かかるかわからないんだとすれば、やはり日本版の北朝鮮民主化法みたいのを、きちっと作った上で。
国家として戦略を決めた上で。
予算も、戦術も、人員も、組織も北朝鮮問題どう対峙するかっていうことを決めてからやらないと。
何時まで経っても、ご家族が全国を訴えて回る。
特定失踪者のご家族がその影でひっそりとその状況を見守っている。
この状況がまたあと10年、あと20年続いてしまうってことをほんとに許していいんでしょうか?
そうなりますよ、今のままだと。
この集会も、あと10年くらい続けなきゃいけないかもしれませんよ。
もうそんな時間はないし、そんなバカなことはもうそろそろやめにしたい、と思っております。

あ、いささかちょっとすいません。
長くなってしまいましたけれども、要するに私が言いたいことは、この国、この国家のありようというものは、やはり根本から考え直さないと、この拉致問題というのは、全面的に解決しない。
拉致問題が事例になって、この他にもた~くさんあるわけです、似たような問題は。
国家政策の中で排除されて、淋しい状況をしていらっしゃる他の例はたくさんあるわけです。
そういった諸々のことも解決できないような日本のままで行ってしまう。
それは許されないことではないか?と思っております。
その上で、何らかの国民としてのお一人、お一人のやはりちょっと覚悟というかですね、そういったものが重要になる問題だろうと思っております。

ウチの荒木は乱暴な人間ですから、来年の12月までに拉致問題解決しなかったら、国会議員は全員辞任しろと言っておりますよ。(苦笑しながら)
本人も責任取るとか言ってやってます。
彼自身は、やはりそういう覚悟を国会議員にも求めたし、自分自身にも課してるというふうに思っております。
私もその覚悟というものを、少し見習ってこれからも頑張って行きたいと思っております。
皆さんもどうか今後ともご支援のほど、心よりお願いを申し上げまして(拍手が始まり、聞き取りにくい)ごあいさつとさせていただきます。(拍手)
ありがとうございました。(拍手)

司会者
ありがとうございました。
踏み込んだ話になりまして、ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエントリーのテキストは、原良一さん提供のテキストを元にぴろんさんが再構成したものです。
原さんのご好意、ぴろんさんご努力に感謝を申し上げます。(momoedake・金木犀)
参照:話の花束
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(7)脱北者Yさんの証言

2005-07-17 | 藤沢市民集会
脱北者Yさんの証言 聞き手:野口孝行氏(北朝鮮難民救援基金)

☆野口孝行氏のあいさつ


こんにちは。
北朝鮮難民救援基金の野口です。(拍手)
いつも神奈川の会にはですね。
私たちの団体は、難民の救援について活動している団体なんですが。
いつもご協力をいただいて貴重な時間をいただきまして、ほんとに会の方、そして皆様にいつも感謝しております。
ありがとうございます。

脱北者の方と話をする前に、ちょっとお知らせがありまして、8月1日ですね。
「北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟とNGOの会議」というのが予定されていまして、皆様のお手元にあります、私たちの会報にもいろいろ書いてあるんですが。
難民問題に関係している団体、そして救う会、特定失踪者問題調査会等々NGO、国際議員、各国の議員さんが集まって会議をします。
興味がある方はたくさんいらっしゃると思うので、注目していただきたいと思います。

それとですね、7月31日ですが。
チラシが入っているので、ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが。
「ソウル・トレイン」というですね。
脱北者が中国まで逃げてきて、そしてその人たちがどうやって韓国までたどり着くのか、というドキュメンタリー映画を、アメリカの監督が作りまして、それを日本で上映する会というのが、日本であります。
7月31日に文教区民センターで行われるんですが、興味のある方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。

これから脱北者の方とお話をするんですが、マスコミの方にお願いがあるんですが。
多くの脱北者の方がそうであるように、まだ北に家族が残っている関係で、こちらの日本にたどり着いたことがわかると、(北にいる)家族に害が及ぶ恐れがありますので。
申し訳ないですが、顔は映さないようにしていただきまして。
公の場で出す場合は、音声の方も変えていただきまして、顔も一切映らないようにしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

☆脱北者Yさんの証言(聞き手:野口孝行氏)

(会場脇より脱北者Yさんが登場、正面席に着席)

※野口氏質問(以下野口氏)
それでは。
お話するのが、まだ慣れていないということで、私がきっかけみたいな形でお話をうかがいたいと思います。
まず、最初に聞きたいのは、先程の1960年代に帰還事業で向こう(北朝鮮)に渡ったそうですが、その時の乗った時の様子と、何歳くらいの時に北朝鮮に行ったのかと言うことをちょっとお話しください。

★脱北者Yさんの回答(以下Yさん)
私は日本の大阪で生まれました。
日本で教育を受け日本の学校を卒業して日本で就職して、18歳の時に父母に付いて北朝鮮に行きました。
それから北朝鮮に着いた途端に「ああ、北朝鮮に行ったのは間違いでだった」とそれを感じました。
どうしてか感じたかというと、日本で聞いた時は
「朝鮮の国は、地上の楽園で夢のような良い国で、仕事をしなくても食べていける。
勉強はただで、病院もたただ」
と、そういういろんな宣伝に騙されて、うちの父母たちは正直一本で。
そう言う人たちの宣伝に本気になって(北朝鮮に)行くために、私は行きたくないのに連れていかれたというか、父母が行く所にしょうがなく行ったのです。

行ってですね。
一番初め船が着いた途端に「間違ったな」と思って、改めて話したんですね。
「この船で日本へ帰して下さい。私は日本に帰ります」
と。
それで、(北朝鮮に)帰る時は、「絶対(日本)に帰ることが出来ない」ということを知らないで行ったんですね。
行ってみて、気に入らなかったら日本に帰れるものだ、とそういう気持ちで行ったんですけど。
着いた途端に、日本に帰ると言ったのを、絶対にそれは出来ないということがわかって、その日から日本に帰るのを夢に見て、
「いつかは必ず自分が生まれて育った日本に帰るんだ」
とそういう具合に北朝鮮に生きました。

※野口氏
実際に船に乗ってですね。
北朝鮮に着いた時に、何を見て何を感じて、この国は言われていた・宣伝されていたものとは違う、と具体的に思ったのですか?

★Yさん
私たちを迎えに出てきた大学生たちの服装とか、顔色を見て、日本では見たことがないような質の悪い服装をして。
人間たちの顔色というのは、栄養失調に近いような。
その頃から北朝鮮というのは食糧難に遭っていたようでしたが。
私は、何のために人間の顔はこのようななのかというのは知らなかったんです。
とにかく日本では見たことのないような人たちだなと。
それから(北朝鮮の)山には木が全然ないんですね。
全部裸なんです。
だから国が豊かではない、ということを感じました。

※野口
それで今はですね。
いろいろな報道、テレビなどで「あの国は貧しい」ということをみんなが分かっていると思うんですけど。
ほんとにその時は、宣伝で北は豊かな国だどいうふにう言ってたと思うんですけど。
疑いとかそういったものは一つもなかったんですか?
ほんとにすばらしい国だと思って、あの当時みんな行かれたんでしょうか?

★Yさん
私が日本にいる時、「朝鮮」という画報があったんですね。
その画報を見て、女がツルハシを振るって仕事をするのを、また女がみんな農業をやっている姿を見て。
なんだかおかしいな?とは思ったんですけど。
まさか嘘は言わないだろう、悪い所には送らないだろうと。
まあ、人を信じることが悪かったのかも知れませんけど(笑)、信じて(北朝鮮に)行ったのは本当です。

※野口氏
それで結局向こうに着いてですね、中国の国境に近い場所へ配属されたという事ですが。
実際、生活になじんでいく時のですね。
向こうの生活、一年一年、年を越すにつれて、いろいろ辛いことがあったと思うのですが。
日本を思いながら。
その中でも特に恋しかったものとかですね、これはなれるのが大変だったという向こうの生活は何でしょうか?

★Yさん
朝鮮に行って一番嫌だったことは、改めて学校に入って「(朝鮮の)言葉と字を習わなければ」と思って学校に入ったんですね。
それが、その教育の仕方が気に入らなかったのです。
というのは、日本とアメリカに対しては、私の知っている日本ではなく、とても悪い国で。
アメリカも悪い国で。
朝鮮だけが良い国だと。
そういう教育の仕方は間違っているんじゃないか?
こういう形で子供たちを教育して育てて、何がその中で偉い人が現れるのだろうかと思いました。

「私が見た日本はこんな悪い国ではなかったのに、どうして日本はこんなに悪い国として子供を教育するのに当たり前のようにしているのだろう」と。
また、それを聞く子供たちも、学生たちも教わるものが本当に悪い国だと思われるもので、私が日本から来たというので、日本について私にいろいろ聞いてくるのです。
それに対して正直に話すことが出来ないんですね。
「言論の自由」がないというのが一番苦しかったです。

※野口氏
それで、日本のことを考えながら生活していったと思うんですが。
自由にものが言えないこともありますし。
何か、こう日本のもので恋しいいなぁと思ったもの、ものとかそういった物で何かありましたか?

★Yさん
私たちが何十年も北朝鮮で耐えてきたというのは、日本で教わった童謡とか。
「うさぎ追いし、彼の山」(故郷)そういう童謡とか。
歌手たちの歌(歌謡曲・流行歌の事か?)とか、そういう歌の文句を聞く度に力をつけて。
「頑張って日本に帰るまで、死なずに生きよう」と。
それで帰国者たちが、お互いに励まし合って、苦しい時は童謡とか歌を歌って、それで耐えてきた。
それが力になりました(徐々に涙声になる)。
皆さんはここ(日本)で生まれて、ここで育ってそのまま自分に国にいるから分からないと思いますが。
一時この国を離れたとき。
もの凄く地獄のような所に行ったら、小さい時に覚えた童謡はとっても懐かしく、また自分の通っていた学校の校歌が、自分には本当に力をつけてくれました。

※野口氏
そういう状況でくらしていて、60年代くらいはまだ食べる物があったと思うんですが。
90年代の半ばに向けて、どんどん食糧事情はどんどん悪くなっていったと思うんですけど。
食べ物が減ってきているなというのは、どういう形で差し迫るような変化がありましたか?

★Yさん
(北朝鮮は)全てが全部配給制度なんです。
味噌・醤油はもちろん、靴、布、全部が配給で(配給)カードをくれるんですね。
(そのカードを)持っていって配給を貰うのも1ヶ月に2回、15日分の配給を貰うようになっている。
90年代に入って、それまで当たり前に行われていたその配給ができないんですね。
それでも94年までは、金日成が亡くなるその年までは、もらえなかった配給の(不足分は)年末に貰える年もあったのですが。
(金日成が死んだ94年の)その後からは、(年末の補填は)ぜんぜんなくて。
くれないものと思うようになったのが、97年からは、だんだん人々が(飢えて)死んだとか、食べる物がなくて人を殺して食べたとか、変な評判が出るようになったのが、96年・97年度からでした。

※野口氏
Yさんの住んでいた所には、他にも日本からの帰国者の人たちがいたわけですよね。
その皆さんは、どのように食べ物を調達して、くらして工夫がいろいろあったと思うんですけど、どのような工夫をしてみんな生きていたのですか?

★Yさん
北朝鮮という所は山火事が多いんですね、どうしてかしら?
その山火事になったら、山の木が燃えてしまうんですから。
その木の無い所には、自分が行って、畑を作ってトウモロコシとかジャガイモとかを植えてもいいことになってたんです。
それも初めはね。
90何年度だったか、それまではそれもできないようになってたんです。

だけど、だんだん人間が餓死するようになったもんで、空いた土地へ行って、自分の力で耕して食べることを許可するという法ができたもので、力のある人たちは山へ行って、作物を植えて、自分の力で食っていくと…。
そういう方法で早くから始めた人たちは、餓死ということはなかったんですけど。

力がなくてそういう工面ができない人たちは、配給所にばっかり頼って、毎朝ご飯食べたら配給所の前に行って座って、配給くれるのを待ってる人たちは、段々と倒れてしまったんです。
早めに畑へ行って、自分の力で耕して食っていくという人。
それから動物、豚とか山羊、そういうのを家で養って、栄養が足りない時には潰して食べるとか。
そういう具合に暮らすようになって、人間たちがだんだん知恵が回ってですね。
餓死しないように気をつけて、頭を回し、自分の力を頼るようになってきました。
国を頼るんじゃなくて、自分の力を頼って自分で生きていくのだ、とそういう考えを早くした人は生き残っていると思います。

※野口氏
住んでいらしゃった所に、他にも日本から帰っていった人たちがいるということですけれども。
ういった人たちとお付き合いがあったと思うんですけど、その人たちとは、普段は日本語で会話をしたりするんですか?

★Yさん
はい、そうですね。
大抵は帰国した人たち同士が集まって、お正月とかお盆に集まって。
無いながらでも一杯飲んで、冗談を言ったりはするんですけど。
北朝鮮の地元の人たちと一緒に馴染めない仲に、その人たちに変な具合に政治的に引っ掛かるような話をしたら、(当局に)言い伝えるんですね、その人たちは。
だから帰国者同士では、そういうことは絶対なかったんです。
(お互い)心を広げて「日本に帰りたいな」とか「金日成いつ死ぬのかな」そういうことを言っても、無事でしたから。
そういう中で、日本人妻の人たちは特に生活力がないのですね。
商売をすることも知らないし、畑に行って何かを作るっていうことも知らないし。
配給所の前に行って、じっと座って待ってるのが日本人妻でした。

※野口氏
それっていうのは、つまり、(日本人妻は)受身というか。
自分から何か生き延びるためにやるというようなことが、出来ないような状況だったんでしょうかね?

★Yさん
畑を耕すには力がいるんですよね。
(苦笑しながら)腹が減っては何も出来ないじゃないですか。
だからね、悪いこともしなければならないんですよ、時にはね。
北朝鮮はみんな協同組合といって、国で農業をしてるんですね。
だからそういう農業組合の作物なんかを、泥棒して食べる人もいるんですけど、帰国者とか日本人妻という人たちは泥棒が出来ないんですよね。

もう正直一本で。
「とにかく待っていたら(国が配給を)くれるだろう」と、そういう具合で死んでしまう人が多かったんです。
私たちの家は日本に親戚がいて仕送りがありましたから、そんなに苦労はしなかったんですけど。
日本人妻たちには日本から全然何もがなかったものですから、その人たちは、正直バカ一本で配給所にばかり頼って。
とにかく貧乏して苦労して、そういう人たちを私は沢山見ました。

※野口氏
そういう人たちというのは、やはりみんな、亡くなってしまう人たちも多いのですか?

★Yさん
日本人というのは特徴が、とにかくあきらめが早いんですね。
これ以上駄目だと思ったら自殺してしまうんですよ。(会場からため息が漏れる)
首吊るとか、川にはまって死ぬとか、ガスを、あそこはガスってないんですね。
石炭ガスです。
そこに鼻をつけたまま死ぬとか。
まあ「死なずに、どうにか日本へ帰ろう」という考え方をするんじゃなく、諦めててしまうんですね。
それが私、とっても残念でした。

自分の家に食べ物がない時は人の家に借りて食べるとか、そういうことを考えないんですね。
恥ずかしく思うのか?
とにかく、同じ「帰国者」でも日本人妻たちの生活の仕方というのは、日本で暮らして教育を受けたそのままに、他人の物には欲を出さないこと、嘘をつかないこと。
私もそういう教育を受けましたけど、北朝鮮にいってはそれが通じないんです。
時によっては悪いこともする。
協同組合のジャガイモも、私泥棒したこともありますけど、日本人妻たちはそういうことが出来ないんですよね。

ですから、豆満江にはまって死んだ人もいましたし、首吊って死んだ人もいます。
その人も私と同じ名前でしたけど、そういう人たちを見るとね、私、同情しませんでした。
「残念だね、なんて馬鹿だかね」と。
ま、生きていたおかげで、私こういう具合に日本に帰ることができたんですけど、その人たちのことをつくづく考えますね。
「死なずに、どうにか一生懸命やって帰ってくれれば良かったのに」と。

※野口氏
そういう強い気持ちがあって、中国に脱北したわけですけど。
一度捕まったことがあるという話しですけど。
その時はどういう状況で捕まって、捕まった後はどうでしたか?

★Yさん
それをここで話しても、皆さん想像つかないと思いますけど。
私は97年度から中国に渡って、日本に帰るように一生懸命やっていたんですが。
その間に2回捕まりました。
運がよく、悪運が強いものやら、今まで命があったんですけど。(笑い声)
中国で捕まった時は、北朝鮮よりはマシですね。
食べるものは食べさせてくれるんですから。
だけど北朝鮮というのは当たり前のように人民たちに食べるものがないんですから。
脱北して自分を裏切ってた政治犯に対する待遇というのは、食べ物っていうのは全然ね。
人間の食べるようなもの、ここでは想像つかないと思います。

私の方はちょっとマシだったんですね。
だけど(一緒に捕まった)私の子供たちは、(北朝鮮に捕まって拘留中)食べられないような物をくれる物で、15日間一食も食べなかったそうです。
でも死ななかったんです、水は飲むものですから…。
人間というのは、なかなか寿命が、そう簡単には死なないんですよ。
15日間一食も食べなくて、それでも水飲んで死なずに辛抱したらしいです。
(当局側がこれでは)死ぬかと思って、無理に食べろと命令して、そういう具合にしてどうにか生きて、また中国に渡ってきました。

※野口氏
2回目に中国に出て来て、その時も捕まってしまうんですね?
その時は、捕まってどういうお気持ちでしたか?

★Yさん
その時はもう最後だと思いましたね、二回目だから。
その時は息子と一緒に捕まったんですけど。
(息子は)手錠を後ろ手にかけられ、足にも足枷をかけられて、それからロープでも極める(=縛るの古い表現)んですね、絶対に逃げられないように。
私にはそこまではしなかったんですが、若い人たちにはこういう具合に捕まえていくんです。
中国の警察というのは、捕まえていくのは北朝鮮よりもっとも酷いんですよ。

その点、北朝鮮は手錠もろくろくないんですから(笑い声)、手を極めるのも紐で縛って…。
賢い子たちは、どうにか(解いて)逃げる若者たちもいるらしいけど。
中国は絶対にそういう具合に逃げられないように、(笑いながら)手も足ももう全部、そしてもう、「こりゃあもう死刑場に行くのかな」と思ったんだけど。
よく考えてみたら「私、そんなに悪いことをしていないのに、そう死ぬわけがないだろう、生きるまで生きてみよう」と思ったのが刑務所でした。

※野口氏
それで2回目に捕まった時は、4ヶ月中国の留置所というか、収容されたわけですけれど。
それでですね、運良く日本の外務省との連携もあって日本に帰ってこれたわけですけれど。
40年ぶりくらいに帰ってきたわけですけれども、実際今帰ってきてまだ1年経ってないですけど。
初めて、何十年かぶりに帰ってきた時の、ずーっと何十年も思い続けてきた日本、最初どう思いましたか?

★Yさん
一番初め、中国で立つ時に、中国にいる日本大使館の人が来て、「行きましょう」って言うから、―中国のチャンチョン(音訳)という所です。
「どこに行くんですか?」って聞いたら「日本へ行くんです」と言われた時、私は聞き間違えたのかと思ったんですけど。(苦笑する)
とにかく着いた所が成田でした。
成田に着く前、日本が見えた時の感じっていったら、嬉しいというよりも悲しかったですね。
北朝鮮でいろいろ亡くなった人たちのこと、まだ残っている人たち、その人たちのことを考えをしたら、思い出したら、何だかね、嬉しくなくてね。
悲しくて、そう何だか複雑な気持ちで、自分だけが幸せになって(他の人が)気の毒なって、そういう感じがしました。

※野口氏
何十年ぶりかに帰ってきて、日本は変わりましたか?

★Y氏さん
昔の姿って全然ないですね。
私が何十年間も北朝鮮にいて、1日も忘れることなく。
夜中に寝ていても、「二度と帰れないんじゃないかな」と思ったら気違いみたいに寝て起きて、真っ暗な所に座ってました。
必ず帰る、どうして帰るのか」っていろんなこと考えてましたね。
それほど恋しかった日本なんですけど。

帰ってみて、自分の「故郷」に行ってみたんですね。
私が幼い頃、夏には川にいつも行って泳いでいたんです。
その川の水の色がまた違っていました。(笑い声)
川の流れも、変に曲がって昔の姿は全然なかったんですけど。
神社に行って、神社の境内でソフトボールをして、バットを振った時に梅の木に引っかかってバットがなくなって大騒ぎしたんです。
その梅の木がそのまま残ってました。

それから、その神社の横に椎の木があったんですね。
私は小さい時から静かな所が好きなもんで、時々一人で行って、椎の実を拾ってたんです。
その木もありました。
それがね、その椎の木があるかな?と思って探しながら。
これがそれだけ恋しかったのかな?死ぬほどほんとに、気が狂うほどに恋しかったのかな?
私のふるさとってここだったのかな?と、いろんなこと考えながら。
一緒に来られなかった兄弟のこと。
私を頼って来ながら豆満江で死んでしまった息子のこと。
いろんなことを考えて、椎の実を握って泣いてしまいました。

※野口Q
今まだ北朝鮮に家族が残っているということで、とても複雑な事情もあると思いますが。
この北朝鮮のことですね。
厳しいこと言えない事情があるかもしれませんけど。
まぁ希望的な観測でいいますと、どうなったらいいと思いますか?
最後に。

★Yさん
私は政治に対してはあまり関心がないんですね。
興味がないんですけど、私が1度目(の脱北中)に中国から北朝鮮に拉致されていったんですね。
中国の公安に捕まるんじゃなくて、北朝鮮から保衞部から直接来て直接捕まって送還されました。
その時私、考えたんですね。
「こういう具合にして、日本人たちも捕まっていったんじゃないだろうか」って。
私はこういう具合に捕まったんだけど、いろんな具合で人間を拉致していく、そういう人たちは何と言うか、一口で言うとプロですね。

どんな国に行っても、悪いことを幾らでもできる人たち、こういう具合にさせた人、またこういう具合に行動を取る人、みんなバカじゃないかな。
まあ、北朝鮮だからって、全部が全部悪くはないんです。
そん中でもいいとこあるんです。
人情が厚いんですね。
お互いに助け合う、貧乏な人に、私もそうやってたんです。
「あそこの家、今日は食べ物がなくって、みんな寝込んだですって」と聞けば、何か残り物持って行ってやるとか。
お互いに助け合うという人情のために、少しでも今、生き残ってるんじゃないのかと思いますね。

日本には、それが不足と思いますね。
隣の人は誰やら、他人のことはもう絶対関係ないっていうか。
いいところもあるけれども「なんだか冷たいな」と感じることもありますけど。
まあ、人種によっていろんな人がいると思いますけど。
私の考えでは、政治的なことは話したくないんですけど、(北朝鮮のあの体制は)まあ長くはないと思います。

※野口氏
わかりました。
もちろん拉致の被害者の方とか、特定失踪者の方が帰ってくるのは、当然なんですが。
こういった脱北者の家族の方たちも、無事に日本に帰ってこれるようにですね。
ぜひ私は望んでいます。
この辺で終わりにしたいと思います。
どうもありがとうございました。
(拍手、退出するYさんにもう一度拍手)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このテキストは、原良一氏提供のテキストを元に話の花束ぴろんさんが再構成したものです。
原さん、ぴろんさん、ありがとうございました。 (momoedake・金木犀)

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(8)横田拓也 家族会事務局次長のお話 その1

2005-07-17 | 藤沢市民集会


皆様こんにちは。(会場からも「こんにちは!」の応答)
ただ今ご紹介いただきました、横田めぐみの弟の横田拓也と申します。
ほんとにいつも北朝鮮による日本人拉致問題に関しまして、本当に暖かいご支援と応援をいただきますことありがとうございます。
また、ちょっと時期がほんとに遅くなりましたが、先月の末にですね。
首相官邸前というか、横で実施しました、私たちの家族・兄弟を取り戻すために行った座り込みに関しまして。
本当に三日間暑い中、平日も含めて多くの方々にご参加いただきましたことをですね。
重ねてお礼申し上げたいと思います。
ありがとうございました。

既に、私の家族他の案件に関しましては、皆様ご承知いただいていることかと思いますが。
私の所も若干もう一度ご紹介したいと思います。
私の姉、横田めぐみは1977年11月にですね、中学1年生です。
下校途中に拉致されたわけです。
警察犬が嗅覚を失ったのは、本当にもう自宅からすぐ近くの所ですから。
あともう少しで帰れたはずのところで、何者かによって待ち伏せをされて、拉致をされてしまったというわけです。

先程特定失踪者問題調査会の真鍋さんの方から、9歳の女性の方の事例もありましたが、9歳にしても13歳にしても本当にまだ子供です。
まだ少女なんですね。
私たちが、自分たちが男性であれ女性であれ、13歳の頃、もう一度ちょっと思い浮かべて欲しいんです。
本当に明るく、楽しい毎日だったはずですね?
こんなクラブで楽しんでみたいとか、こんな友だちと、どこどこ遊びに行ってみたいとか。
こんな勉強してみたい、こんな高校に進学したい、大学に行きたい、こんな仕事をしてみたい。
いろんな夢があったはずです。
自己実現の夢ももっと持っていたと思います。

しかし、そういった夢が一方的に遮断されてしまって、美しい日本から連れ去られて、楽しい家族の許から連れ去られたわけであります。
これは、私のめぐみだけではなくて、家族会にいる全員がそうですし。
先程ご紹介があった、政府が認定してる・してないだけの違いがあってもですね、特定失踪者の方々、ご家族の皆さん。
等しくそういう悲しみと辛さを背負わされていると、いったわけであります。

で、引き裂かれた拉致というものは、ほんとにもう釈迦に説法でございますが、改めて申し上げますと、単なる一人の男が、偶発的に行った誘拐事件のようなレベルではないんですね。
国家の指令によって、独裁者の指示によって、直接的な指令によって行われた国家テロなんですよ。
私たちはもう、一週間・二週間前にまた大きな大規模な同時テロ、テレビ画面を通じて知ったわけです。ほとんど、これ一緒なんですね。
事態の現象こそ違いますけれども、もう、組織ぐるみでされてるわけなんです。

そのテロの話ですとか、先程脱北者のお話の方にもありましたけど、日本はまあこんな有り様ですが。
アメリカにおいては、ほんとに積極的にこの問題に取り組もうとしております。
新聞でも既にご承知いただいてるかと思いますが。
アメリカの下院本会議では、7月11日に北朝鮮による日本人・韓国人の拉致及び被害者を拘束し続けていることを非難して、拉致問題解決なくしてテロ支援国家から外してはならない、ということを改めて採択してるわけです。
そして脱北者を強制的に退去させている中国への非難もそこに含まれているわけであります。
その採択というのは、362対1で、いわばすべてがこの採択に賛成されているわけなんですね。

で、ポイントは、当事者のアメリカではないんですね。
日本人が当事国であって、韓国も日本以上に拉致されている。
他国のことを彼ら(=アメリカ)がこういって、こうした形で採択をしているということがポイントなんですね。
本来であれば、こういった動きというのは、日本政府が先頭を切ってしなくてはならないはずなんです。

私はいろんな場でお話しする機会をいただいておりますけども、こうして私たちにできることは、皆様方にお訴えすることしかできません。
私たちの辛い思いを、一言でも多くお伝えすることしかできない。
これは、みんな一緒なんですね。
ですから家族であるから、兄弟であるから、前面に立って闘うしかない。
これは当たり前のことだと思っておりますけども。
これは国家間の戦争行為のようなものですから、テロ行為に向かって闘っている以上は、国が先頭切ってやらなくてはいけないことなんですよ。

そういう意味では、日本政府、小泉総理は、本当にいつも他人事のようにこの問題を受け流している。
聞き流しているというこの事実は、本当に淋しい限りなわけであります。
私たちは、先程申し上げた座り込みの時も、30度を越す真夏日の中で。
私はまだ、真夏の炎天下の中でも座って耐えられますけど、本当に高齢の方々がいらっしゃるわけなんですね。
ほんっとに辛いんですよ、これ。
これ、想像以上に辛い、暑い。
その中でも、皆さん方がいろんな飲み物とか、アイスクリームとか、保冷剤とか持ってきてくださって。
「頑張ってよ」というお声をかけていただいて。
倒れないで「ありがとうございます」ということで、何とか3日間を凌げたというのが、事実です。

多分、私たちが叫んでいた声というのは、首相官邸の中に少しなりとは、聞こえていたんだとは思います。
しかし、小泉さんは、私たちの前の道路を通らないで、避けるかのように、車を、車列を通っていったということですね。
別に私たち、絶対会ってくれともいう権限もないし、資格もないかもしれませんが。
国家が本来やるべきことを、私たちが代わってやっているのに、そこに対して何の反応も示さない、ということが、本当に不思議でならないわけであります。

そして私たちの座り込みというものは、以前にも何回かやっているわけですが。
先月やった座り込みとこれまでの座り込みとの違いというのは、2002年より前には、北朝鮮も日本政府も拉致事件が拉致疑惑であって。
それは家族会、あなた方が勝手に言ってるのではないか?と、いうこともあったし。
もしくはマスコミの方々も多くを取り上げてくださらなかった、という事実もありました。
そういう点で私たちの座り込みというのは、あまり採り上げてくださらなかったわけなんですが。
しかし2002年以降は、あの独裁者(金正日)が、自らの口で拉致を認めたんですよ。
犯罪者が誰で、被害者が誰かというのは、明らかな事実なんです。
わかっているんです。
残されている者が誰か、というのもわかっているんですよ。

それなのに日本政府は、一貫して毅然とした態度を取らないで、圧力はダメです、と。
対話なんです、と。
言って、その対話の一つさえもできていないというのが実態なわけです。
挙句の果てには、松木さんの所もそうですけれども、私の所にも遺骨と称するものを提供してきて、調べてみたらまったく別人のものであると、いうことです。
アメリカの高官の話を言葉として借りると、「およそ文明の社会を超えた行為」ですよね。
人がやることかどうか?ってことです。
そこまでして彼らは、何を守りたいのか?ということが疑問ですし。
ここまでバカにされているのに、日本政府は、もしくは小泉総理は「ふざけるな!」ということを、一声、一言言えないのか?ということが疑問でなりません。

これは、今日の配られてるチラシのヘッドラインがですね、「拉致被害者とその家族の人権を考える会」と書かれてご案内されてるわけですが、これは、単に私たち家族の問題じゃないんです。
小泉さん個人の問題でもないんです。
日本の総理大臣という威厳と威信のかかった問題であるし、日本国の主権がかかってる問題なんです。
そこを履き違えてほしくないわけなんですね。

このままこれだけ、30年も40年も前から(主権を)侵され続けているのに、一言も抗議をしない。
こういった姿勢というのは、日本政府はこの問題に対して何の疑問も持っていないんですよ、という誤ったメッセージを送ってしまいかねないということを、私たち国民は怒っているわけなんです。
実際にこういった日本政府の、曖昧で躊躇している姿勢に対して。
およそ8割か7割弱の方々が、怒りと疑問を持って、国家の、国民の意思で法律を成立させた経済制裁法。
外為法だとか、特定船舶入港禁止法というものがあるのにも関わらず、それを賛同してくださってる多くの方がいらっしゃるのに、小泉さんだけが首を縦に振らないわけなんですね。

これ、民主主義の流れとしては、まったくおかしい話なわけなんですね。
これだけ被害者が、私たちが、本当に先程の話にもありましたように、高齢の方々が疲れて足を引きずって、全国飛び回って、国民の皆様の多くの方々が賛成してくださっているのに。
それに対して本来は民主主義ですから、声を受けなくてはならないのにも関わらず、小泉さんは他人事のように、「ああ、そうですねぇ」と涼しい顔をしているわけなんですね。
こんなことがあっては、いけないわけなんです。
小泉さんご自身がバカにされるのは、私の知ったことではありませんけども、日本の総理がバカにされてるんだ、ということをご本人も気づいて欲しいですし。
一番先頭を切って、自国民を守らなくてはならないという使命を、小泉総理にはほんとに感じてほしいと思います。

おかげさまで、皆様方のお力添えによってですね。
この問題は全面的に解決はされてはいないものの、5人の方々とそのご家族が、日本に帰ってくることができたわけであります。
先程真鍋さんのお話の中にも、あの(特定失踪者問題調査会の)大きなポスターの中で、いろんな日本人管理課の課長みたいな話も出てきましたが。
もしかしかすると、帰ってきた5人の方々がどこかでそういった方々をご覧になってるケースがあるかもしれませんですね。

私はそれがご存じかどうかわかりませんけど、先程市川さんのお話にもありましたように。
安明進さんが当時金正日政治軍事大学の中で市川さんを目撃されたといったような安さんのお話もあるわけなんですね。
ぜひですね、ここは力を取り合ってですね、安さんと5人の方々が会ってもらって、情報を補完しあっていく。
そうでないとこの問題は解決しないんじゃないか、と思います。
いろんな事情があるのかどうか、私にはわかりませんけれども、やっぱり知っている者同士がですね。
手を取り合って仲間同士で力を合わせて、この問題で一丸になって対処していくという姿勢を、みんなでムードを作っていく必要があるんではないかな、というふうに思います。

家族会の言うことは、もう一貫してほぼ一緒になりますが。
この北朝鮮問題というのが、拉致問題だけではないということは、もう明白な事実なわけであります。
6者協議でもやってる核の問題もありますし。
先程お話にも出たように偽札の問題・麻薬・大量破壊兵器の拡散の問題、もういろんな問題があるわけなんですね。
先程のような(北朝鮮)国内での人権弾圧の問題もあるわけであります。

ミサイルの問題でいうと、数年前に私たちの上空を飛び越えた弾道ミサイルの問題もあるわけですし。
この北朝鮮問題というのは、ここにいる私たちだけに課せられた問題ではないということを、私たちは強く再認識していく必要があると思います。
彼らの横暴、というか独断で(発射)ボタンに手が押されればですね。
10分後には、この日本のどこかにミサイルが飛んで来るっていう現実を、私たちは再認識して、彼らの暴挙は許さないんだということ。

そして拉致問題が解決していないということはですね。
今現在ですよ、いまこの時点で日本のどこかで、私たちの友人やご家族が拉致されている可能性は否めないということを、私たちは認識していく必要があると思います。
そういう意味では、私たちは、当事者であるだけなんで、強いことは言えませんが。
やっぱり他人事ではなくて、私たちだけのことではなくて、みんなのこととして、我が事としてですね。
この問題を捉えて、絶対に許してはならないんだ、ということを北朝鮮に訴え続けていくこと。
それと日本政府に早く、あなた方が自らの意思を以って動いてほしいと。
そして北朝鮮に対して、「返せ!」と「一人も残さないで返してくるまで、私たちは許さないんだ!」ということを口にして欲しい、ということを声を出して言ってほしいと思います。

実際に、北朝鮮は6者協議の場でもありますように、核の脅威をちらつかせておりまして、安全保障上ほんとに脅威な存在なわけです。
でも、冷静に考えてみてください。
日朝平壌宣言(吹き出しかけながら)と言われたですね。
どうでもいいような内容にしてもですね。
それが、仮に通ってるわけですよね?
これは、明らかに今の国際的な状況からいって、全然もう意味を為していないんじゃないか、というのはみんなわかっているわけですよね。
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(9)横田拓也 家族会事務局次長のお話その2

2005-07-17 | 藤沢市民集会
小泉総理は、それが違反しない限りは経済制裁はしない、というふうに言って言い逃れをしているわけなんですね。
でも明らかに、94年のジュネーブ合意にも違反しているし。
NPTの一方的な脱退もそうだし。
IAEAの査察官も勝手に追い出すし。
核兵器の保有宣言をして6者協議にまで持ち込んで、国際的な脅威を産み出しているこの事実が、日朝平壌宣言が反故にされているんではないかというのは、明らかな事実なわけですよね?
そうであれば、約束どおりですね、私たちの意思を以って成立させた経済制裁の発動をしていく必要があると、私は思います。

特に、先程「悪の温床」という例えもありましたけども、工作母船とも言われている万景峰号。
これはまあ、いろんな人の往来があるんで、すべてが悪いという側面はないかもしれませんが。
一方で私の姉を含めて他のご家族、特定失踪者の方々を含めて申し上げると、この船で拉致された可能性が、ないとは言い切れないじゃないですか?
ここが、ポイントなんですよ!
イメージ的に何か、小舟でやってきて、小舟で帰っていくだけかどうか、ってのは誰もわからないですよね?
あそこ(北朝鮮)で、まあ確かに先程(脱北者の証言)飢えてるという実態があって。
一方で一人だけ肥えた人が、メロンとか、マグロ食べてるケースもあるかもしれませんけども。
やっぱり軍事転用できるような部品や車両運んでるわけですし。
人がさらわれていった事実があるかもしれないですよね?
実際、彼らが、これだけ私たちに脅威を与えている以上は、やっぱり、私たちが決めた法律を、きっちりと発動していく、実効化していくというのが、今、日本に求められている事実、実態だと思います。

先程、あそこにも今プラカード(会場受付の背後の大きなブルーリボンを指す)もありますし。
真鍋さんの方からも大きなポスターがありましたし、こちらにも(白板に掲示された被害者の)写真がありますけども。
彼ら(被害者)が今何を考えているか?
何を思っているか?
朝も昼も夜もほんとに悲しい毎日だと思います。
拉致された時も、ほんとに怖くて、辛くて、泣いても誰にも聞いてもらえなくて、一人ぼっちにされて、泣いても誰にも聞いてもらえなくて。
私の姉のケースでいうと、船の底で爪をかきむしって血だらけになって泣いてたけれども、誰も聞いてくれなかったというじゃないですか?

たぶんみんな一緒ですよ。
20年も30年も待っても、誰も助けに来てくれないんですよ。
空を見て、星を見ても、日本の童謡を歌っても、誰も助けに来てくれないんです。
この前の、小泉総理の再訪朝の時も、日本の政府専用機、おそらく白い飛行機ですから、天使とか鶴のように見えたんじゃないかと思います。
「やっと来てくれたか!」と「やっと私たち帰れるんだよね!」「待ってたよ!」(血を吐くような叫び声に近い口調で)って、たぶん来る時には思ってたんだと思います。
でもどうでしょうか?
二回目の訪朝の時は、5人のご家族のことだけは、確かにおかげ様で、無事に解決ができましたけども、その他の未帰還者の問題は残されたままです。
特定失踪者の方々については、何も触れられない状態でありました。

しかもこれ、私たちが事前に総理に対して、「どうかそういうことがないようにお願いしますよ」と言っていたにも関わらず、まるで仕組まれたようにそのまま帰ってこられたわけです。
怒って当然じゃないですか?
人の命が懸かってる問題です。
20年も、30年も、40年も待たされてることなんですよ。
どっかのここにあるコップを倒して怒ってるような次元の話じゃないんですよ。
命の懸かってる問題です。
彼女たち、彼らは今日も悩んで、暑い時にも私たちは、こうして涼しい部屋にいることができます。
お腹が空いても、これから何の心配もなく夕食を食べることもできます。
そういう所の根本が、彼らは心配してるんですよ。

今日も生きられるんだろうか?って、明日は生きていられるんだろうか?って。
自分の家族も、ほんとに幸せな生活がこの先送れるんだろうか?って。
お父さんやお母さんや、兄弟に会えるんだろうか?って、毎日思ってるんですよ。(横田拓也氏の気迫に圧倒されてか、会場寂として声なし、見回すと息を呑んで聞き入っている状態)
そういった彼らの気持ち、悲しみ、訴えというものを、私たちは絶対に無視してはならないし。
正面から受け止めなくてはいけないと思うし。
日本の政府は、私たち以上に受け止めて、一刻も早くこの拉致問題、救出のために具体的な行動を取ってほしいと思います。

で、先程、アメリカの下院本会議のお話のご紹介をさせてもらったので、もう一個だけご紹介をさせていただきます。
7月13日にロシアの外務次官が、拉致問題を6者協議に取り上げることに関して、それは止した方がいいんじゃないかという類のことを発言されました。
これは韓国も中国もおんなじようなところで、本当にまあ(北朝鮮とグルで)一緒なんだなあということが改めてわかるんですが。
で、それに関して細田官房長官が、談話を発表されたわけなんですが。
こういうことをおっしゃってるわけなんですね。

「拉致問題を取り上げれば、北朝鮮が反発するのではないか?ということばかり言っていると、拉致被害者の家族や関係者が怒るのではないか」(会場失笑)

と言ってるわけなんですね。
その中で確かに「取り上げましょう」ってことは言ってるようなんですが。
ちょっとこれは私、おかしいと思うんですね。
私、これを初めはニュースではなくて、インターネットで文字で読んだんですけど、私、その時目が悪くなったんじゃないか?(失笑広まる)、と正直思って、読み間違えたんじゃないかと思ったんですよ。
でもまあ、いろいろなテレビやら報道見ていると、実際にそういうことが言われているわけですね。

本当にこの日本は、どこか狂ってるんじゃないか?とほんと思います。
すべてが、悪いわけじゃないですが、私たちが怒ってるから言うとか言わないじゃくて、国が責任を持って拉致された人間を、一人残さず一刻も早く取り戻す使命が、責任なわけですよね。
こういった気持ちを、外務省も、内閣府も、首相官邸も、小泉総理もみんな持っていただかなくてはならないんですよ。

もうほんとに単純明快。
被害者、加害者ってのがわかってて、ニセの遺骨と称する物も出してきているのに。
二度も訪朝されてもまったく誠意を見せないこの現実に。
小泉総理が、小泉さん個人ではなくて、総理が権威としてバカにされてるのにも関わらず、黙っているのはほんとにおかしいと思います。
これ私たちが、声を挙げて取り組んでいかなけりゃいけないということだと思います。

もうお時間がお時間なんで、もう少しにさせていただきますけども。
ちょっともう私は皆様方、国民の皆様方から、じゃあ何ができますか? ということをよく、暖かいお言葉をちょうだい致します。
既にもう今月ももう多くの方々が、もうされてることかもしれませんが、お願いをさせていただくことが、二、三ご紹介させてもらいたいと思います。

一つはやはり今日、私どもとお会いさせていただいたこと、もしくは私どもからお話をさせていただいたことをですね、一人でも多くの方にお伝えいただきたいんです。
「今日、誰々さんに会ったんだよ」でもいいです。「こんな話ってあるの知ってる?」これだけでもいいです。
この輪が広がって、北朝鮮問題は身近な所にあるんだというのを知ってもらうこと。
あと北朝鮮という言葉を聞いて、わからないものとか、怖いものではないんだということをしらせていくこと。
見える物、闘える物であることを私たちが知っていくこと、伝えていくことが、この問題解決の近道だと思います。

あともう一つは、私たちが、国民の意思としてできること、これは、首相官邸、外務省に抗議といってはなんですが、この気持ちをFaxや電話やお手紙、メールで送り続けることです。
「あなた方の外交方針間違っているんではないか?」ということを訴えていくことだと思います。
私たちはもう、様々な場所でこの拉致問題解決なくして、北朝鮮に対する一切の経済協力をすべきではない、と何度も申し上げておりますし。
この問題の解決なくして、日朝国交正常化もしくは、国交正常化交渉はされるべきではない、と何度も申し上げております。
こういうことも皆様方にお伝えいただきたいですし。

そして今度開催される6者協議の場においては、日本政府からは、必ずそのことは、6者の前で、そして二国間の中でも、それは言ってほしいんです。
「絶対に拉致問題解決されるまでは、あんたたちに協力は一切しないんだ」
と、これをみんなの、残りの5カ国の前で明言をしてほしいんですね。
どんなに日本が、外交が下手でもお金だけはまだあるわけですから。
絶対にそういうふうなグルになってやってる動きに対して、私たちは負けないよ、ということを、日本政府は、ここで外交の姿勢としてですね。
出してほしいと願うばかりです。

先程、帰国された5人の方々が、安明進さんと会って、やっぱり情報を持ち寄って強化していくことで、この問題解決のために近道を作っていく、ということが大事だということ。
そして私たちが、一人ひとりが我が事としてお伝えいただいて、抗議する、然るべきところに声を伝えていくこと、大事だと思います。
6者協議の国際的な所でも言っていくことが大事だと思います。
私たちの拉致された家族というのは、今日も悩んでる、泣いてるわけです。
これまでのもう奪われた時間は取り戻すことはできないかもしれませんけども、これからの時間、私たちの力によって作っていくことができるわけです。絶対作れます。
もうこの自信しかないですね。

やっぱり悪に負けているわけにはいかないんです。
やっぱり正義とも言い切れないかもしれませんが、少なくともこの問題に関しては、どちらが正しくて、どちらが悪いかはもう明らかなわけですから。
この悪に対しては、私たちは絶対に負けないんだと、日本人はこの問題に対して絶対に譲らないよ、ということを、私たちは声高に叫び続けていかなくてはならないと思います。

そしてもう一点、横田家的に申し上げると、数日前のNHKの夜7時の報道で、姉(めぐみさん)と曽我ひとみさんが、北朝鮮の大物工作員の辛光洙によって教育をされていた、という話がありました。
NHKのニュースのニュース元(情報源)というのが、どこからというのは私わからないんですね、はっきり言って。
どうしてあの場で出たのかというのもわかりませんけれども、私たちが(それを)曽我さんから聞いたのは事実です。
ですからあの話は、おそらく間違いないと思います。

問題なのは、これは私たちだけが聞いているわけではない、ということなんですね?
日本政府も、当局もみんな知ってるんですよ、これ。
知っているのに、いかなる場所や交渉でも口にしていないというのが問題なんですよ。
ICPO(国際刑事警察機構)にまで手配している人間が、この拉致問題に関与していることに関して何も、私たちが何も言わない限りは、NHKが報道するまで隠してたと取られかねないような姿勢を取ってる、ということなんですね。

先程真鍋さんの方からもお話があったように、特定失踪者の方々に関して言えば、行っても門前払いだということがありました。同じ色彩がここにあるわけなんですよ。
こうした問題をなぜ、大々的にしていかないのか?
ということ。
穏便に済ませて、言わなければ何もしないということを取り続けるのか?ということを、私たちはやっぱり疑問視していかなきゃいけないと思うんですね。

辛光洙は普通に見ると、まあ何国人でもそうですけども、普通のご老人ですよね。
私たちの横に、ああいった何もわからないような、善人とも取れるような人が、工作員として潜んでいるわけですよ。
そういう人間に騙され、教育され、ということなんですね。
ですから私たちは、情報を当局は持ってるわけですから。
彼らが私たち以上に前面に立って解決のために行動していく必要があると思いますし、経済制裁を速やかに発動して、彼ら(北朝鮮)が譲歩していく姿勢を作り出していくことが大事だと思います。

今度の6者協議も、北朝鮮が折れたのは、安保理に付託することで、経済制裁(への圧力)が国際的に強まることを恐れて出てきたわけですから、日本政府は譲歩するんではなくて一歩踏み出す姿勢を作っていくこと。
これがこの拉致問題解決のための近道なんだ、ということを私たちは、しっかりとお伝えしたいですし、皆様方の方からも、日本政府や外務省の方にお伝えいただけないものかなと、いうふうに思います。

ほんとに、先程の脱北者のお話を聞いていても、本当に悲しくて聞けなかったですよね。
成田に着いた時に、嬉しいの前に悲しい、悲しくて涙が出た、と。
自分だけで良かったんだろうか?と、こんな悲しい話はないですよね。
でもほんとに、それが現実だと思います。
今も帰れなくて、悲しくて、泣いても泣き切れない人々が山ほどいるわけです。
(特定失踪者の)400人の方は、ほんとはもっといるのかもしれませんね。
もっと私たちが声を挙げて、知ってる人は、口にしてください、ということは、言っていかなくてはいけないと思います。

私は、こうして皆さん方にですね、めげそうになったり、挫けそうになったりする時に支えられるのは、ほんと皆さんの力強い視線であったり、「頑張れよ!」というお言葉であったり、それだけで私たちは、ほんとに耐えて生きていってるようなものなんです。
ほんとに皆さん方にお礼をする意味で、拉致された私たちの家族を、日本に取り戻すことで、ほんとにお礼をしたいと思っています。
めぐみが帰ってきてありがとうございました、ということ(拍手始まる)でお礼を申し上げたいと思います。
どうかお力を、これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。(拍手続く)

司会(河井氏)
横田さん、ありがとうございました。
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(10)高野美幸さんのお話と特定失踪者ご家族のご紹介

2005-07-17 | 藤沢市民集会
高野美幸さん(特定失踪者・高野清文さんの妹)のお話と特定失踪者ご家族のご紹介


※司会(河井氏)
続きましては、特定失踪者家族の訴えです。
特定失踪者高野清文さんの妹でいらっしゃる高野美幸さんです。
よろしくお願いいたします。

高野美幸さん


いつも神奈川の集会の方にお呼びいただきまして、ごあいさつさせていただいているので「またあいつか」とイヤな顔をされないで、また聞いていただきたいと思うんですけれども。
わたくしの兄は、特定失踪者高野清文ということで、伊豆七島の神津島から、1976年に大学2年生19歳の時に、行方不明になっているその家族の妹でございます。
今日はですね、先に特定失踪者の家族のご紹介ということで、今日いらっしゃってる家族の方たち、お名前を申し上げますので、あの立ち上がってその場で、軽くあいさつとかしていただければと思うんですが。

・・・特定失踪者問題調査会HPより引用・・・

高野清文さん
失踪年月日 昭和51(1976)年7月30日
生年月日 昭和31(1956)年10月31日
当時年齢 19歳
当時身分 電気通信大学2年生
失踪現場 東京都神津島村の民宿から

大学寮の仲間と神津島へ行き行方不明に。前日に山へ行くと言っていたため、神津島村の天上山を捜索するが発見できず。同月12日に隣の新島でも若い女性が行方不明になっている。

・・・引用終了・・・

『参加した特定失踪者のご家族の紹介』

↑紹介を受けてご挨拶をされる特定失踪者ご家族の方々

高野さん
まずですね、前回もお話をいただきました、佐渡から74年にいなくなられました大澤孝司(おおさわたかし)さんのお兄様でいらっしゃいます茂樹様がいらっしゃってます。(拍手)

★大澤茂樹さん

(大沢孝司さんのお兄さん)
(拍手の中、マイクを受け取る。以下他の家族の方々も同様に発言または会釈あり)
私の弟は、昭和49年の2月24日に、新潟県佐渡島でいなくなっております。
今それぞれの方のいろいろなお話がありましたが、私もこの拉致問題が完全に解決するまで頑張っていきたいと思いますので、さらなる皆様方のご支援とご協力をよろしくお願いいたします。(拍手、以下同)

・・・特定失踪者問題調査会HPより引用・・・

大沢孝司さん(佐渡の曽我さん母子失踪地のすぐ傍で失踪)
失踪年月日 昭和49(1974)年2月24日
生年月日 昭和21(1946)年6月21日
当時年齢 27歳
当時身分 新潟県佐渡農地事務所勤務
失踪現場 新潟県佐渡郡新穂村

自宅独身寮から約400m離れた飲食店で夕食を済ませ、知人宅に寄った後行方不明。当時事務所には50~60人が勤務、うち15~20人程度が本土から単身赴任で来ていた。失踪時期は観光がオフシーズンだったため、最も忙しい時期に拉致された曽我さんと違い警察もかなり大規模に捜査してくれた。事務所では失踪後まもなく「あれは北朝鮮にやられたのではないか」との話で持ちきりになったが、やがてぴたりと止んだという。元同僚の話では「失踪の2~3日前、一緒の船で新潟から帰ってきた。船中では飲む話、食べる話などをしていて自殺や失踪のそぶりは全くなかった」とのこと。北朝鮮製と思われるマッチが漁の前あたりに落ちていたという。平成16年1月29日、新潟県警に告発状提出。

・・・引用終了・・・

高野さん
ありがとうございました。それではですね、生島孝子(いくしまたかこ)さんですね。
渋谷から72年に行方不明になりました。
お姉様の馨子(けいこ)様がいらっしゃってると思うんですけど。

★生島馨子さん
皆様のお力をお借りして、是非、妹を日本に連れ帰りたい、取り返したいと思います。
よろしくお願いいたします。


・・・特定失踪者問題調査会HPより引用・・・

生島孝子さん(脱北者による目撃証言あり)
失踪年月日 昭和47(1972)年11月1日
生年月日 昭和16(1941)年6月14日
当時年齢 31歳
当時身分 港区役所麻布支所交換手
失踪現場 東京都渋谷区

当日、一日の年休届けを出し勤め先を休む。朝、同居していた妹に「夕方に電話があったら出かける」と言っていた。衣類の入れ替えをし、夕方クリーニング店に衣類を出している。孝子さんは翌日出勤時に着る服を揃えておいて出かけていた。その夜何の連絡もなく帰宅せず。翌2日夜、自宅に電話があり、しばらく無言の後、「今更仕方ないだろ」と男性の声とともに切れた。平成16年9月29日、警視庁に告発状提出。

・・・引用終了・・・

高野さん
そして、藤沢のこの地では、もっとも関係が深い方かと思います。
寺島佐津子さん、鎌倉の花火大会に行って行方不明になりました。(会場の一角が「あら~」と驚きでざわめく。「かわいそうに」の声も…)
ご両親がいらっしゃってると思いますけど、その場でお立ちいただければと。

★寺島佐津子さんのご両親
無言で会場に深々と一礼。(拍手)

・・・特定失踪者問題調査会HPより引用・・・

寺島佐津子さん(鎌倉の海岸で失踪)
失踪年月日 昭和54(1979)年8月10日
生年月日 昭和35(1960)年7月26日
当時年齢 19歳
当時身分 銀行員
失踪現場 神奈川県横浜市戸塚区

失踪当日、勤務先の支店の親睦会で鎌倉の花火大会に行き、10時に現地解散。同僚と鎌倉駅で別れ、戸塚駅からバスで帰宅途中に行方不明。翌日、自宅近くの草むらからセカンドバッグが見つかる。警察犬の捜査でもここまで来たのは間違いない。

・・・引用終了・・・

高野さん
あと、松井綾子さんのお母様、1998年12月に千葉県※で失踪されたということで、いらっしゃってるかと思いますが。

★松井綾子氏のご母堂
松井でございます(最敬礼)。

・・・特定失踪者問題調査会HPより引用・・・

松井綾子さん(※千葉県で失踪?)
失踪年月日 平成10(1998)年12月3日
生年月日 昭和51(1976)年9月14日
当時年齢 22歳
当時身分 臨床検査技師として病院に勤務
失踪現場 茨城県水戸市のアパート

12月3日8:20病院に「調子が悪いので休む」とtel。4日病院を無断欠勤。検査課の人がアパートへ確認に行く。車なし、ドア施錠。病院から実家に電話があり、家族が部屋に入るが室内物色された形跡なし。12月4日8:28国道6号線茨城町のGSで給油(本人自筆で確認)。12:05ローソン調子黒生店で昼食購入。12月15日 神栖町海浜公園多目的広場駐車場で自家用車発見。運転席側のロックなし、6000円入りの財布が助手席に置かれた黒バックに残されていた

・・・引用終了・・・

※特定失踪者問題調査会のホームページでは、水戸市で失踪となっていますが、松井氏の車が千葉県内の東金から銚子方面を走り回って、最後は茨城県神栖町で発見されており、千葉県内での失踪の可能性が高いので、松井氏は千葉県で失踪としたものと思われます。
(この項、原良一氏が調査会の真鍋氏に直接確認済み)

高野さん
それからですね、
実は、笹垣範男(ささがきのりお)さんという92年に行方不明になられてます、18歳の方のお父様がいらっしゃってたんですけど、
今日はこの時間には、ちょっとご用事があるということで、お帰りになられましたが。
いらっしゃってたことの旨、お伝えしておきたいと思います。

特定失踪者問題調査会HPより引用

笹垣範男さん
失踪年月日 平成4(1992)年9月12日
生年月日 昭和49(1974)年3月4日
当時年齢 18歳
当時身分 予備校生(美大志望)
失踪現場 神奈川県三浦市

当日、母親が出勤する時(午前9時)には「今日は予備校(横浜市)で絵の授業はないが空いている教室で勉強できるので行くかも」と言っていた。姉が昼に出かけるときはまだいた。予備校に行ったかどうかは出席をとっていないので不明。普段と同じ服装、お金も4、5千円しか持っていない。朝の雰囲気からはとても家出するようには見えなかった。いなくなる10日位前から誰かと会っている様子。いつもは夕方5~6時に帰宅するのが、10~10時半に帰宅する日もあった。前日、前々日は終電で帰ってきた。誰と会っていたか聞いても答えなかった。預金通帳は残っている。


そして、わたくしのお話をさせていただきたいと思いますが。
わたくしの兄、高野清文は、1976年の7月30日、もうすぐ29回目の7月30日が来ようとしています。
その前の年(75年)私は湘南で、ちょうど兄と海水浴をしていた時の3歳の記憶があるんです。
波が来て、わたくし浮き輪につかまってたんですけども、後ろの方からひっくり返って海の中が見えまして。
その後兄が慌てて戻して、兄のほっとした顔をしていて、私は何が起こったんだろう?とキョトンとしているような記憶がありまして。
14歳離れておりましたので、親が3人いるような、非常に優しい兄だったことを覚えております。

まあ今ですね、拉致問題、拉致の可能性があるということで、思ったきっかけは、9・17の時にですね。
曽我ひとみさんが出てらっしゃった時に、最初にお名前が出てらっしゃらなかったので、そんなに世の中に行方不明になっている人がいるものではないと思っていましたので。
ウチの兄の名前も言ってくれるんじゃないかということをですね。
テレビに言ってほしい、言ってほしいというふうに祈りながら見ておりましたが。
実は佐渡島からいなくなった女性だということだったので。

でも、こうやって政府の拉致認定とかがなくても、いなくなってる方がいらっしゃるんだという認識を持ちました。
そしてその後今、実質失踪者というのが、430、50? 440人くらいということで、後ろのポスター、ちょっと落ちそうになってますけども、たくさんの方が顔を出していらっしゃっいます。
もちろん(顔を)出せない方もいらっしゃいますし、調査会に申し出ることさえも躊躇してる方のお話とかも、ままお伺いすることがございます。

その内何人が、本当に北朝鮮に連れて行かれているのか?
私の兄もそうなのかどうか?という確証はないのですが、政府が調べているのか、調べていないか?
警察の方がやっているか、やっていないか、公調の方が一回接触に来られただけなんですが、まったくそういう情報がないので自分で調べております。
それこそ、先月ですね。
真鍋さんに連れてっていただきまして、伊豆七島の神津島の方にも調べに行きました。

新しいことは、とりたてて無いんですが。
私の兄の場合は、近隣でいなくなってる女性の方がいらっしゃっいますので、その足で新島の方もいろいろ調べてはきたんですが。
怪しいことばかり、という感じで、まあ逆にいえば、確証たるものもないような状態ではあるのですが。
この状況をですね。
一家族が、警察や公調や政府に代わって調べているという事実(笑)をですね。
皆さんに知っていただければと思います。
34歳ごときの小娘がそんなことをしております。
この国はどうなっているのでしょうか?
私たち国民の政府であるのかどうか?と言うのは、非常に疑問に思うことではあります。

まず私、この特定失踪者という形になる、まあ公表をする段階でですね、
日本という国は、まあどうしてCIAとかFBIみたいな組織がないんだろう?ということを、既に2年半前に記者会見の場で申し上げておりまして、
それがなんか最近になって、また改めて実感で「何で無いんだろう?」みたいな部分が明らかになってきたんだろう、とあるかと思いますが、
認定ですね、拉致の認定の話しも今はいろいろありますが。
認定であってもなくても、拉致被害者は拉致被害者だって、私自身は、認定云々ということよりも、真実が知りたい。
兄貴がどうなったのか?ていうことを知りたい。
まあ、上の方が動いてくれないことを嘆いていても、その上を選んでしまったのは私たち国民なので、私はその国民の皆様にお訴えするしかない、という今の現状であります。

それからですね、今ニューヨークで先日テロが、ツインタワーのテロがあったかと思います。
最近では、ロンドンでもテロがありました。
じゃあ、この日本の拉致問題は?
まあ拉致はテロだということで、救う会の方も活動をされておりますが、
6者会談を前にですね思うのが、核の話をメインにしようとしている趣がありますが、この核作ってるの、私の兄かもしれません。
そうなってくるとですね。
核の問題イコール拉致問題だと私は捉えざるを得ないんじゃないか?と、私は思います。

ちょっと、お話に聞いたところによりますと。
とある工作関係の方は、例えば麻薬であるとか、偽札であるとか、拳銃であるとか、そういった物を日本に垂れ流しすることを、「緩やかなテロ」と言って、テロだと認識してやっているようであります。
真綿で首を絞めるようなやり方で、日本にテロを仕掛けているわけですね。
偽札入れると、日本のお金の価値が下がって、自分たちの所にも外貨が入りますね。
麻薬を日本に入れることによって、日本のヤクザとかが潤って、なおかつ日本の若者の世代は崩壊していくわけです。
そしたら、日本の未来はないわけですよね?
そういった形で、私たちは今テロに遭っているということを、もっと深く認識するべきではないか?というふうに思っております。

ちょっと特定失踪者の問題から外れてる部分もあるかと思うんですが。
かなりの大勢の方がいなくなっていらっしゃっるっていう点では、例えば印刷工の方がいなくなっていらっしゃっる、
ウチの兄のような技術者がいなくなっていらっしゃっる、
医療関係の方(注:特の曽我ひとみさんなど、看護婦の方に失踪が多い)がいなくなっていらっしゃっるなどの傾向が見えてきた中で、そういったことが言えるのではないか?という部分もございまして、ちょっとわたくしは、そのようなお話をさせていただきました。

あともう一点ですね、北朝鮮の土地にいる方たちですね。
何回かお話ししてますが、私の母は、引揚者で北朝鮮の地から帰ってまいりました。
そういった意味で、北朝鮮の土地に住む人民の皆様にお世話になったことがあります。
母が、帰ってくる時握らされたお米(引き揚げ時、近隣の朝鮮人たちから道中の携帯食に、と焼き米をもらった)を、直接北朝鮮の土地にいる方たちに、お返しできるような経済援助でなければする意味がなく、経済制裁をしたもらった方がいいぐらいな気持ちでいると思います。
先程の脱北者の方のお話にもありました。ウチの母にも、ほんとに紙一重の部分があったのではないか?と思います。
そういった意味で、私は家族の中二つちょっと、たまたま(北朝鮮と)関わるような事例がございましたので、こんなふうに話をさせていただいているんですが。

わたくし、こういう話をする時に、北朝鮮が悪いという話はしないで、キム政権を何とかしたい、と必ず申し上げるようにしています。
北朝鮮の土地の方たちは、同じ人間として非常に大変な扱いを受けていらっしゃっると思いますので。
そちらにも目を向けて、たまたまこういう問題をやっていく中で、そういう部分に私みたいな若者が気づいてしまった、と。
そういう世界情勢まで考えなければいけない状況だと、いうことがわかったということで、この立った状態で大変申し訳ないんですが、お訴えをさせていただきました。

後ろの方で、また失踪者の署名ですとか、あと調査会のポスターの方も、今回は拉致被害者の方も入った状態になってます。
時系列で、非常にわかりやすくなってるかと思います。
何らかの参考にされる方は、販売もしております。
それからまたウチの母が、帰りを待っていながら編んでいる編み物が(アクリル毛糸のたわし)、夏なので西瓜なんか持ってってみたら、なんて言われたので持ってきてみました。
いつも早く帰ってくることを祈りながら、日本の花、桜の花とか、いいことがある(吉兆の)亀さんとかそんなのを編んでおりますので、それも販売しております。
カンパの方も募っております。

それから、秋田の方の子供たちが作ってくださった鶴が、インターネットとかでよく出てるのはご覧になった方あるかと思いますが、後ろの方でご入用の方に配布しておりますので、私も今下げてるんですけど。
あの北朝鮮の方を向いている金の鶴と、早くゴメンナサイと兜を脱いでくれるように、逆さまの兜をかたどっているというようなお話しで。
あの~まあ中学生、高校生の子供がここまで考えてくれるか?というようなことで。
ウチの両親も、たまたま実家に届きまして直接、泣きながら電話が入ってまいりました。
こんなこともあるんだねって話しをしたことがあります。
そういったことで、長くなりました。
わたくしの話を終わらせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。

※司会
ありがとうございました。

参考リンク
◆特定失踪者高野清文さんの妹、高野美幸さんのblog
Ω♪♪♪♪♪ KONAboration-SSQ ♪♪♪♪♪Ω

◆特定失踪者大澤孝司氏のホームページ
「大澤孝司さんと再会を果たす会」

・・・・・・・・・・・・・・・・
特定失踪者お一人お一人の失踪の状況に関しては、特定失踪者問題調査会のHPより引用させていただきました。
特定失踪者に関しての詳しい情報は、調査会のHPをどうぞ御覧下さい。

特定失踪者問題調査会HP
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このテキストは、原良一さん提供のテキストを元にぴろんさんが再構成したものです。
原さん、ぴろんさんのご好意に感謝申し上げます。 (momoedake・金木犀)
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(11)来場の議員紹介&伊藤玲子元鎌倉市議のお話&家族会への千羽鶴贈呈

2005-07-17 | 藤沢市民集会
来場の議員紹介

※司会(河井氏)
ここで、来ていらっしゃっている議員紹介に移りたいと思います。
よろしいでしょうか?

藤沢市議会議員、 三野由美子先生、(その場で立ち上がり会釈、会場より拍手)
鎌倉市議会議員、 原かつら先生、「こんにちは!」(同上)
海老名市議会議員、太田祐介先生、(同上)

伊藤玲子元鎌倉市議のお話

※司会(河井氏)
ここでですね、元鎌倉市議の伊藤玲子さんのお話を、よろしくお願いします。

※川添友幸会長代行による、伊藤玲子元市議の紹介
ちょっと講演の前に、伊藤先生のお話をしますと、伊藤先生、4期16年鎌倉の市会議員を続けられておりまして、この度4月で議員をお辞めになられました。
なぜお呼びしたか?と申しますと、伊藤先生は、救う会地方議員の会始まった時からの議連のメンバーでしてですね。
ずっと9.17の前から、私たちと一緒にビラを撒いたりとね、ほんとに献身的に活動してきてきました。
で、今議員をお辞めになられまして、こういう拉致の問題や、教育の問題を扱うまっとうな議員を作らないといけないということで、こんどそういう運動をやられるということで。
ちょっと今回議員をお辞めになって、さらにその拉致議連を抜けられた経緯のをお話しを伺いたいと思いますんで、よろしくお願い致します。

★伊藤玲子 元鎌倉市議のお話


ただ今ご紹介をいただきました伊藤玲子でございます。
(マイクに声が入らず調整してから改めて)
大変失礼いたしました、この4月まで、4期16年鎌倉市会議員を勤めさせていただいておりました、伊藤玲子でございます。
今日突然に、川添会長の方から、わたくしに何か一言と言われて、ビックリしているんですけれども、今までの経緯からと、これからのことをお話しさせていただきたいと思います。

皆様、国というものは、国民の生命、財産を守るのが、国の責任じゃありませんか!?(高齢の小柄な女性に似合わぬ大音声の呼びかけに、会場からも大きな拍手と共に、「そうでーす!」などの合いの手)
本当に腹立たしくてなりません!
日本の国は一体何をしてるんだ、ということでございますよ!
わたくしは、この(拉致)事件がはっきりした時からそう思いました。

そしてまずこれは、平成9年(1997年)に国会で梶山静六国家公安委員長が、「拉致があったということは事実だ」と表明なさったのが、最初でございました。
それですぐその後、救う会ができました。
その救う会ができて、国会の方もそう表明されたにも関わらず、非常に動きが鈍いので、じゃあ地方議員もそのバックアップ、要するに言葉は汚いですけど、国会議員のお尻を叩こうじゃないか、ということで、地方議員の会が発足致しましたのが、平成10年だと思います。
わたくしどもは、そういう形で側面からバックアップ致してまいりましたけれども、それから何年かかっていると思いますか?
未だにこんな国があるでしょうか?!(「我慢できない」の声あり)
で、わたくしは、ずっとずっといろんなことを辿っていきますと、結局戦後国民に、国家観が無いんですよ。
国家観がないんです。

で、わたくしは、国家が安泰してなくて、国家が国民の生命・財産を守らなくて、どうするんだ?
ということを言いますと、すぐ右翼だとか何とかというんですよね、ほんとに。
で、それを辿ってくと、結局戦後の教育なんです。
日教組なんです、共産党なんです(「その通り」などの声と共に拍手)。
もうほんっとにね、わたくしは、この教育戦後60年、この左翼思想の毒が回っちゃった日本国民、どうしたらいいだろうと思って、今も考えてると崖っぷちですよね。(マイクの音が割れるほどの大音声)

で、そこには、女性ってのは、本当に行動力があっていいんですけども、間違った。
まあわたくしは、大変はっきり物を言う人間なんですけども、左翼思想、戦後の教育をよしとした、バカな女が今国を滅ぼしかけてるんですよ!(拍手広がる)
それは鎌倉市を例に挙げますと、わたくしが4期16年在任中、女性議員が28議席中6人いたんですけど、4月の市議選で10人に増えました。
その中のまっとうな議員は二人です。
フツーの感覚の、良識派の議員は二人です。
後は全部、日教組の戦後の教育をよしとした、要するに国旗、国歌、道徳教育、学力テスト、児童中心主義、イラクもう何でもかんでも反政府のね。
そういう反国家の、要するに戦後の教育をよしとした、日教組の教育をよしとした8人です。
これがねぇ、鎌倉だけじゃないんですよ?
私は全国歩いてますけど、これが、鎌倉が縮図でございます。

それでわたくしは、どうしたらいいんだろうかと調べましたらば、こういう(左翼系の)女性を要請していく組織が四つあるんです。
片や、フツーの女性を養成というか、勉強する組織ですね、全然ないんです。
それからわたくしは、これは大変だと、こう今崖っぷち来てますからね。
ということで、わたくしは、この1月に「立て直そう日本(にっぽん)女性塾」っていうのを立ち上げました。

<参 考>
「立て直そう日本女性塾」に関する記述のある、伊藤玲子前鎌倉市議の活動報告

そして、今の目標は、とにかく平成19年に、もうあと2年半切っちゃいましたけども、統一地方選挙があります。
その時に、またこういう女性がどっ、どっと出てきますから、これ止めることができませんね。
少なくとも、一人でも、二人でも、三人でもまっとうな議会で、フツーの良識の言葉を言える女性を、出してかなきゃいけないんですね。

わたくしは、鎌倉市で一人孤軍奮闘してきました。
でございますので、神奈川県で19市ございますが、その中でどこの市にも4、5人女性議員がいます。
しかしその19市の中で、わたくし、フツーの日本人だと思ってんですけれども、そういう女性は、6人しかいませんが、(笑)そういうのが、今の日本の現状です。
ですから、本当にやはり戦後教育に毒を回されてしまった国民全体もそうですけれども、やはりここでしっかりと、国家観というものをね、皆さんに意識してもらう。
やっぱり国家が安泰でなくて、どうするんですか?(拍手)
ほんと、そうですよ。
とにかく私が、国家という言葉を使った途端に、すぐ右翼って始まりますからね。

じゃあ外国行った時に、困った時に、どこ駆け込むかといったら、大使館に駆け込むんでしょ?
非常にそういうね、何ていうんですかね、ほんとにでも恐ろしいですよ。
教育っていうのは、こういうものですから、この60年、日教組、共産党が天井向いて笑ってますよ。
大成果上げたわけですよ!

(集会に参加している男性が挙手の上発言)
「質問あります」
はい。
「あなたの言ってることと、今日この会議はどういう関係があるんですか?」

で、ございますから、国家観がないから、こういうことになったわけですから。
(会場の他の聴衆から「そのとおり」の声多数、最初の質問者の異議の声をかき消すような大きな拍手が湧き起こる。少し騒然とした雰囲気)
教育、教育が始まり、教育を変えていかなきゃいけません。
そういうことで、それから今度政治が決めていきますからね。
その政治の世界にまっとうな良識派を増やしていかなければ、この国家が成り立たなっていきません。(「その通り!」の声)
それは私が、16年体験してきた実感でございます。
もしお考えが違えば、そりゃ仕方のないことでございます。

ということで、わたくしはこれから教育の正常化と、それからこのまっとうな良識派の議員を出していく運動を、全国的に今歩き始めました。
そういうことでございまして、とにかく皆さま、拉致された方々を、全員取り返す、それまではこの国民運動止められません。
この国民運動風化させたらおしまいです。
政府があんなざまですから、やっぱり国民のバックアップがなきゃダメです。
だからわたくしは、この集会にはもう、毎回欠かさず伺ってます。
なんとしてもね、一人残らず取り戻すまで、運動続けてまいりましょう!(拍手)
そうでなければ、本当に日本の国ってのはバカにされっぱなしですから、ちょっとお金ばっかり持っていかれるんですから、とにかく皆さん頑張って、とにかく一人残らず取り返すまで、頑張りましょう!
この集会を続けなければいけません。(拍手)
皆様どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

※司会(河井氏)
ありがとうございました。
ここでですね、お手紙の紹介をさせていただきます。

『家族会への千羽鶴贈呈』

「千羽鶴をお届けします。平成15年元旦に一念発起しました。80歳を超えた今、自分にできることは何か? ひたすら祈りを込めて鶴を折り、長く哀しい日々を過ごしておられる方々に、少しでもほっとする和(なご)みをお届けできたらと思っております。
6月3日で2万2000羽になり、今回のお届けとなりました。
どうかお受け取りください。
これからも長い時間かかると思いますが、くれぐれもお体をお大事になさってくださいませ。
どうか望みを持ってお暮らしくださいますことを祈っております。
平成17年6月25日、救う会のお力をいただきお届けできました。
小松栄子」


というわけで、救う会神奈川のメンバーから、斎藤文代さん、市川龍子さんに千羽鶴の贈呈をお願いします。
(拍手の中、斎藤、市川両氏、「あら、きれい!」と喜びながら青い色の千羽鶴を受け取る)
ありがとうございます。
それでは、最後に閉会の辞ということで、川添会長代行から、はい。


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(12)川添友幸 救う会神奈川会長代行 閉会の辞

2005-07-17 | 藤沢市民集会
今日は、長時間ですね、ご来集ありがとうございました。
伊藤先生の言われたとおりですね、これからもこの続けていかなければいけないというふうに考えています。

それで事務局から、幾つかご報告したい点がございます。
一点目はですね、さっきの先生のお話の中で非常に気になることがあったんですが、日教組の話が出ました。
日教組、所謂教職員の集まりですよね。
実はですね、はっきりはしたことは、私も言えないんですが、日教組が拉致に噛んでる可能性が非常に濃厚です。(「え~」と会場内大きなどよめき)

ある特定の学校の教員とか、学校名出せませんが、そういう学校の教員とか、今実際、拉致の実行犯の名前が挙がっています。
日本国内にいます。
その人間が、学校の教員関係、教職員関係、(「ほんとに?」の声)そういうふうな関係で。
なぜかというと、日教組全体がやっているわけではなくて、日教組の中に、チュチェ思想を研究している研究会がありまして、そこのメンバーが拉致をやっているのではないか?

例えばよど号の妻たち、八尾恵を初め、大半がチュチェ思想の研究会のメンバーです。
よく拉致のビラなんか撒いてると、「朝鮮人はけしからん」みたいなこと私にも言ってくる方いるんですが。
私は、これは個人的な意見なんですが、やっぱ日本人の拉致の実行犯というのは、かなり多数いるんではないか?と。
逆にですね、朝鮮の人みんな悪いわけではなくて、そこをですねちょっと皆さん、考え方をちょっと考えていただけるとですね。
特にたとえば松木薫さんを拉致したのは、よど号犯の妻森順子、これは在日ですが、もう一人若林佐喜子は日本人です。

ですから日本人の行った拉致というのがですね、かなり多数あるんではないか?と僕は思います。
そういう中にですね、労働組合であるとか、共産、共産党はたぶんやってないかもしれませんが、日教組とかですね。
所謂そういう組織の名前が、実際出てきますし、さっき言われた警察なんかは、その辺をかなり把握しているという情報を得ています。
特に社会党が噛んでるんではないか?ということが、一時期騒がれたことがありますが、社会党、現社民党の人たちも、以前こちらの会は、阿部知子さんをお呼びしたことがあったんですが、ぜひ阿部さんにその点を調べてもらって、実行犯がいるんであれば、ちゃんと法の裁きの前に出していただきたいと思います。(会場内、失笑)

(川添氏は、このあたりから興奮して非常に早口になり、語順の乱れや言い間違いが目立ったので、これ以降適宜再構成しています)
それとですね、今日お配りしたチラシの中に、「WFPに対する講師派遣の拒否に関する緊急声明」っていうのが入ってまして、ちょっと簡単に経緯だけご説明致しますと、今日も会場に来られてるんですが、RENKさん、「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」私たちは、北朝鮮の金正日体制打倒とかですね、難民の支援をしているグループだと認識してますが、たぶん皆さんご存じかもしれませんが、産経新聞がかなり大きく取り上げました。

食糧横流しの映像が、6月末に報道で出ました。
去年の小泉再訪朝の時に、12万5千トンの食糧支援が決まりました。
送られた食糧は、日本政府が直接配布するんではなく、国連のWFPという機関を通して食糧配布を行うということを聞きました。
しかしそれを闇市の現場で売られている写真を、RENKの方(正確には、RENKが支援している、北朝鮮国民の反体制活動家)が撮影しまして、産経新聞初め、各紙新聞等で大きく報道されました。
騒ぎが大きくなって、こりゃ大変だと思って何気なくWFPのホームページを私見ていましたら、講師派遣をしていただくという一項がありまして、あ、こりゃ凄い、と思ってですね。
すぐ神奈川の会として、ここの会場、今日じゃないんですが、8月に会場押さえてありますんで、WFPの方に北朝鮮の食糧支援の実態話してもらおうじゃないかと。

その話した上で、RENKの方と話して、どっちが正しいのか?と皆さんに判断してもらおうと、企画を考えたんですが。
昨日になりまして回答がありまして、講師を派遣できないと。
なぜ派遣できないか?と聞きましたところ、(手にした回答書を掲げて)文書の中に細かく書いてあるんですが、人道目的の支援であるから、政治目的の問題になっては困ると。
しかしですねぇ、人道目的ということで、自分たちが胸を張ってやってるんであれば、やはり我々国民に対して説明する責任があるんではないか?と僕は思います。

さらにですね、個人的に北朝鮮に食糧支援されてる方がかなりいます。
新潟なんかでやられてる方(新潟NGO人道支援連絡会、川村邦彦代表)も、この間テレビで報道されてました。
ああいう方がやることを、私はいいとは思いませんが、それはまあ、それぞれの自由ですからいいですけど。
(WFPのように)我々の税金を使って北朝鮮に食糧支援と称して、実際にはほとんど一般の国民の口には入ってないと。
本日参加の脱北者の方とも始まる前にお話してたんですが、ほとんどそんな支援を受けたことがない、と言っておられました。

さらに申しますと、「国境無き医師団」ですね、あるいは「オックスファム」ですね、所謂国際的なNGO団体みんな撤退している(提供者補足:他にも「対飢餓行動」「カップアナムーア」なども撤退している)そうです。
さらにWFPも非常に問題あるなと思ったのは、現地スタッフってのが、何十人(WFPによると40人)かいるそうですが、ほとんどが朝鮮語を話せない(同2人)。
そんな朝鮮語を話せない現状で入ったところで、(公正な)食糧支援なんかできるわけがないんですね?

要するに、食糧支援を隠れ蓑に、あの体制延命させることをしてるんではなかろうか? と。
私もそういうことを、担当者にかなりきつく言って、(講師の派遣の)再検討を迫ったら、再検討するというふうな話だったんですが、金曜日に再度回答が来まして「講師の派遣はできない」と。
私はさらに、講演を拒否する理由を文書に出してくれ、記者会見をするからと言ったら、それも拒否すると。
食糧支援をしている写真を送るからそれで勘弁してくれと、いうみたいなことを言って(苦笑しながら)おられまして、私としては、非常に憤懣やるかたない気持ちになりました。

それで、今日WFPに抗議する緊急声明を神奈川の会として出しました。
今夜メールマガジンのニュースの方で流そうかと思っておりますので、食糧支援が真に困った人たちにはまったく届いていないということですね。
これは私たちもですね、ちゃんと口に入るんであれば、困っている人たちがいるんだから考えようという余地があるんですが。
このような(WFPの不透明な支援には)絶対に支持することはできない、と思っております。
その点で、さらに私たちもいろんな活動をしたいと思っているところです。

・・・以下、会場で配布された資料の紹介を開始・・・

WFPの講師派遣要請の拒否に関する緊急声明

 私たち「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」は6月22日WFP(国連世界食糧計画)に対して北朝鮮における食料支援の実態の知る為に講師の派遣要請を行った。それに対してWFPの担当者である伊藤氏が 7月12日に講師派遣の要請を拒否する方向であると連絡してきた。
 WFPの伊藤氏は拒否理由に関しては以下のように述べた。
(1) 人道支援目的の食料支援が、日朝の政治的な問題になってしまう恐れがある。
(2) 過去、北朝鮮の食糧支援関連の講師派遣は全てお断りしてきた。
 それに対して「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」としては、国際機関であるWFPは日本政府から委託を受け食料支援をしている実態を説明するべき責任があるのではないかと主張し、再検討と拒否理由の文書送付を求めた。WFPの伊藤氏は二点とも了解する旨の回答であった。
 しかし、7月15日に再度、WFPの伊藤氏から連絡があり、講師派遣と拒否理由の文書送付も拒否する回答をしてきた。拒否理由の文書送付の拒否の理由を質すと、文書を送ると政治問題化する恐れがあるからだそうだ。
 私たち「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」としては、北朝鮮においては国際的なNGO団体の『国境無き医師団』や『オックスファム』などが人道支援目的での支援が出来ず、撤退している現状で日本からの援助がどうなっているか説明する責任がWFPに対してはあると考えるし、北朝鮮への食糧援助がどのように行われ、それをどのように監視しているのか? 本当に飢餓に苦しむ民衆に食糧が届いているのか?
 その実態をWFPに説明してもらう責任もあると考える。さらにWFPが、食料支援活動を人道目的であると主張するならば堂々と国民に説明するべきであり、それを人道目的の支援であると堂々と説明して一層の援助を依頼するべきなのではないか。
 家族会も私たち救う会も、真に飢餓に苦しむ民衆への人道支援、食糧支援を拒否するものではない。人道支援の名目で送られた食料が市場で売られている。
 脱北者の話ではこのような市場では北朝鮮の貧しい階層はほとんど買うことが出来ないそうである。
 さらに北朝鮮のおけるWFPのスッタフは、数十人規模でスタッフの大多数が現地語を話せないそうであり、本当に人道活動を行っているかは非常に疑問であると言わざるを得ない。
 そのような中で、今回のWFPの講師派遣要請の拒否に対して「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」は、強い抗議をすると同時に北朝鮮への人道支援の抜本的見直しを強く求める。

平成17年7月17日
「北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会」 会長代行 川添友幸
(一部誤字があったので、読点の追加と併せ、テキスト提供者:原良一の文責で校正しています)

・・・資料の紹介終了・・・

(再び川添氏のお話)
最後に、次回の講演会なんですが、10月8日の土曜日を予定しています。
講師はですね、わたくしが先月の3日間の座り込みに参加した際、報道等でご存じかもしれませんが、「北朝鮮を知りすぎた医者」(草思社、2、3まであり)の著者であり、ドイツ人のお医者さんのノルベルト・フォラツエンさんが、偶然来られてました。
私、英語まったく喋れないもんで、今日来られてる野口さんに通訳してもらって、10月8日藤沢で講演していただけることになりました。
通訳は、その野口さんにやっていただけるということで、フォラツエンさんの他に家族会の増元照明さんか誰かお呼びしたいな、と検討しております。

また、特定失踪者問題調査会からは、岡田理事に来ていただこうと思っております。
岡田さんは、「報道特集」とかでご覧になってご存じの方もいるかもしれませんけど、今回拉致認定された兵庫県の田中実さんをずっと追ってた方で、その岡田さんをお呼びしようと思っておりますので、ぜひ10月8日、皆さん来ていただいて、いろいろお話しいただけると思います。

私たちが、こういう集会を重ねることは、ほんといいことではないと思うんですが、皆様のご協力があってこそ、先程の伊藤先生のお話じゃないですけど、会を続けるってことが必要だと思いますので、皆様のご協力今後ともよろしくお願いいたします。
あと、大変申し訳ない話なんですが、私たちもこういう形で手弁当でやっている会ですので、もしお心のある方がいらっしゃいましたら、カンパ箱ありますので、ぜひご協力よろしくお願いいたします。
いつも、いつもしょうもないお願いをして申し訳なく思っております。

今後のメールマガジンとか、チラシですとか、あと8月7日の講演会というのがチラシに入れてるんですが、先程のWFPのために会場取ったのですが、WFPに拒否されてしまったので、替わりに、私よど号の問題ずっと研究してますので、よど号の話を私がしようと思っています。
ご興味ある方、ご参加いただければと思います。
今後も救う会神奈川の会を続けていただきたいと思います。
皆さまのご協力よろしくお願いいたします。
今日はほんとうにありがとうございました。(拍手)

※司会(河井氏)
ありがとうございました。気をつけてお帰りください。

・・・集会終了・・・
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砂川 昌順さんのお話

2005-04-10 | 藤沢市民集会
第10回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会
           ~拉致を語らずして人権を語るなかれ~


4月10日藤沢産業会館8Fにて、参加者約400名
5人の方のお話と詩を掲載します。
目次

1.砂川昌順さんのお話(ここ)  2.小川晴久さんのお話(1)   小川晴久さんのお話(2)

3.北朝鮮難民基金の方のお話  4.横田早紀江さんのお話  5.高野美幸さんの詩

他の講演内容はaoi blogさん電脳補完録さんでどうぞ!




1.砂川昌順さん のお話
※砂川昌順さん 
(元・外務事務官・駐クェート日本大使館員、株式会社デプロ・代表取締役)

初めまして、砂川と申します。今日はこうして皆様の前でお話しをさせて頂く機会を与えられましたことを大変光栄に存じ深く感謝申し上げます。どうもありがとうございます。

昨年の11月15日早朝私は新潟の海岸に向かいました。28年前のこの日、横田めぐみさんが拉致されたその新潟の海をどうしても東京に戻ってくる前に見ようと思って車で出かけました。横田さんご夫妻が「めぐみちゃ~~ん、めぐみちゃ~~ん」という声を張り上げながら探し回ったであろう海岸線にたって、私達がこれからして行かなくてはならない責務というものを自分自身でも考えてみようと思っておりました。(涙ぐむ)

今日私は、3つのことを胸にこちらに参りました。3つの事をお伝えできればとの想いです。

一つめはお詫びの気持ちを申し上げたいいう想いです。
二つ目は感謝の気持ちをお伝えできればという想いです。
そして三つ目は、私達がこれからして行かなくてはならない責務についてお話しさせて頂ければという想いです。

長年、多くの日本人が拉致問題に正面から向き合おうとしてきませんでした。多くの人たちは拉致を疑惑としてその疑惑を「ひょっとしたら事実とは違うんではないか」というように考えて認めようとしなかった過去があったと思います。それは政府も、マスコミも、そして一部の有識者もそういう風な疑惑の目を向けて来たのではないかと思います。 この拉致被害者ご家族の声に耳を傾けなかった我々の責任というのは大きいと思っております。
この事実を事実として言わないでしまったという思いもあります。

私が出しました「極秘指令」という本は、1987年11月に発生した「大韓航空機爆破事件」の犯人である蜂谷新一こと金勝一(キム・スンイル) 蜂谷真由美こと金賢姫(キム・ヒョンヒ)の二人を拘束した経緯をまとめたものです。 私はこの本で訴えたかったのは、事実を事実として言わなくてはいけないのではないかということを少しでもお伝えできればとの思いで 出版致しました。

1987年の12月15日のテレビ報道をご覧になった方も多いと思います。韓国の空港に着いた飛行機から、自殺防止用のマスクを口に取り付けられて、両脇を抱えられて、タラップを降ろされる金賢姫の姿を覚えておられるかと思います。
あのシーンでこの世の中に「諜報、工作活動」というものが存在するのだということを 皆さんも少しは理解しはじめた瞬間だったのではないでしょうか?
只、そのシーンの裏には、このことを突き詰められなかった日本政府のふがいなさ、金賢姫(キムヒョンヒ)を取り調べることなく、韓国側に引き渡してしまった日本政府のいわゆる弱腰外交、それが読みとれるのではないかと思っております。

大韓航空機爆破事件、115名という尊い人命が失われた単なるテロ事件ではないことは、みなさんもよく記憶されていると思います。
その事件の裏には、我々が真剣に考えなければいけない重大な問題があります。日本国のパスポートが偽造され日本人化教育された工作員がいて、日本が陥れられようとした重大な問題があります。
日本の国益が大きくそこで失われました。日本人に偽装するために日本人化教育に利用された、あるいは北朝鮮によってその日本の情報収集の一端を担わされている拉致被害者の方がいると言うことを突き止められなかった日本政府の、日本の体制そのものにも問題があります。

さてここで少し突っ込んでお話しさせて頂きます。
私は1989年8月に在バーレーン日本国大使館勤務を終え、9月に休暇をとるよう(一部不明:休暇をとって渡欧した意味?)
基本的には3つの目的を持っておりました。
具体的には当時のソ連モスクワ、オーストリアのウィーン、東西ドイツのベルリンに入りました。

3つの目的というのは、ひとつは北朝鮮大使館側とオーストリアの北朝鮮大使館に於いて、大韓航空機爆破事件をはじめとする国家犯罪に、北朝鮮が大韓航空機を爆破したと国際社会では判断している事に対して、北朝鮮がどういう考えているか、それを問いただしてみるという目的がありました。
当然ながら金賢姫(キム・ヒョンヒ)をはじめとする工作員に対する日本人化教育、偽造旅券作成、その真偽を問いただしてみる。
更には対日工作活動の全容を調べるために、自分自身で手段を問わず、北朝鮮に入国できるかどうかの可能性を見いだす目的もありました。

二つ目及び三つ目の目的は今日の集会の主旨とは直接関係がありませんので、詳細については差し控えますが、簡単に申し上げますと、当時東西ドイツベルリンの壁の崩壊情報、東側社会の崩壊情報を当時のソ連国家保安委員会=いわゆるKGBといわれているメンバー等にその信憑性を確認するという目的がありました。

ウィーンでは、オーストリアの北朝鮮大使館側と話し合いを持ちました。
先方は参事官以下、書記官含め計5名と対談を持ちました。
私が金勝一(キム・スンイル)金賢姫 (キム・ヒョンヒ)を拘束した当事者であるということで、相手も懐疑心、動揺を示しておりましたけれども、私の「北朝鮮が大韓航空機858便を爆破したのか」というストレートな問いに対して、彼らは一貫して「南が悪い、南のせいだ」と返答してきておりました。

私の予想としては、私のストレートな質問に対して彼らもストレートに「何を馬鹿なことを言っているんだ。北朝鮮がするわけないだろう」と返答してくるのかと思いましたが、「すべて南が悪い、南のせいだ」と他者に責任転嫁するかのような、曖昧模糊と言いますか、議論を噛み合わせまいとする返答に固執しておりました。
私はことばや表現を変え同様の質問を幾度となく行いましたが、彼らは反論するわけでもなく、噛み合わない返答を続けておりました。
当然ながら北朝鮮が大韓航空機858便を爆破したという(ことの)明確な否定もなく、当然ながらそれ尾を認める返事も彼らはしませんでした。

また金勝一(キム・スンイル)金賢姫(キム・ヒョンヒ)の身元についても問いただしました。更に彼らが日本語を話し、日本人化教育を受けていることに対する開廷、旅券を国ぐるみで偽造していることの真偽もを聞いてみました。
しかし彼らは「この二人が誰かは知らない。彼らは南の工作員あり、南のせいだ。全て南の策略だ。北も南にも日本語を話せる人たちは大勢いる。日本人化教育などは、かつての日本がやったことだ。
偽造旅券のことなども知らない。どうして、どの部分で偽造旅券だということがわかったのだ?」などというような返答を続けておりました。

また、バーレーン空港での私と金勝一(キム・スンイル)と金賢姫 (キム・ヒョンヒ)とのやりとり、彼等の自殺現場を録音(録画?)したカセットテープもそこで開示し、彼らの反応を覗ったのですが、彼らは、動揺をみせたものの、ただ単に白を切るようかのように無関係を装いながら「南のせい、あくまでも南の策略だ」と言い続けておりました。

更に、「ここ数年ヨーロッパから複数の日本人が北朝鮮に渡っているということを聞いているが、その人たちが何のために北朝鮮に渡っているのか?単なる旅行とは思えないが」という質問をいたしました。
彼等は「北朝鮮にはチュチェ思想がある。北朝鮮に渡っている日本人はそのチュチェ思想を勉強しているようだ」と答えてきました。
日本人がヨーロッパから北朝鮮に渡っていると言うことに対して、つまり私が<渡っている>と言うことを聞いていることに対して否定をしませんでした。

何故「チュチェ思想を勉強している」とそこで即答できたかに対しても疑義が残るところです。そこで私は『チュチェ思想なるものを私自身も北朝鮮で勉強したい。ついては私を北朝鮮に連れて行ってもらえないか?日本の外務省職員が北朝鮮に入国したということは彼等にとっては都合の良い話ではないのか?彼らが、外務省職員が北朝鮮に亡命したとか、うまい理由をつけて国際社会に発表すれば北朝鮮にもいい話ではないのか』という交渉を行いました。

北朝鮮、そういう国家犯罪を犯し、日本の国益を侵し、平気で偽証するそういう国の実態を私自身、この目で北朝鮮の国内で確認しなければと言う想いがありました。

北朝鮮のその日の対応は「即答はできない、本国にその旨を伝え本国の決済=返答を受ける必要があるので3日間待ってくれ」ということでその日の会議は終わりました。

それから3日後、私は再度北朝鮮大使館を訪ねました。本国からの返答は「日本の外務省職員をオーストリアから直接に入国させることは認めない」という返答でした。「但し、可能性としては一旦日本に帰り、日本の朝鮮総連の誰某とコンタクトをとり、日本の朝鮮総連から本国に要望を出せば、高い確率で貴方は北朝鮮にいける」とう返答でした。

すでにヨーロッパから複数の日本人が北朝鮮に渡っているとの情報は出ていましたが、それが日本人自らの意思なのか、それとも意志に反して北朝鮮に渡らざるをえなかったのかという情報は、私もその時点で掴んではおりませんでした。

私がこの種の情報を得たのは、他国の諜報機関、そのエージェントからでした。
日本政府はこれに類する情報は何も持っていなかったと思います。私の知る限りこの種の情報を日本政府が持っていたとういうことは聞いておりませんし、記録も残っていないと思います。
言い換えれば日本政府には、こういう情報(を)収集する体制や方針がなかったということです。

当時拉致問題があることは、一部の有識者の中ではささやかれておりました。
が、日本政府をはじめとする、マスコミ、行政や国民の目は冒頭に申し上げましたとおり、冷たかったのではないかと思っております。

とりわけ日本国内での拉致は、拉致被害者本人及びその家族の尊厳を傷つけるばかりではなく、日本国民の安全を脅かし、主権を侵し人権を蹂躙するものだと思います。

日本がその当時から諜報に対する意識を持ち、国家として総合的な、安全保障体制を整えていれば、あるレベルでの拉致の防止やその後の対策が、当時から作られていたのではないかと思うと、私自身当時一公務員として働かせて頂いた私自身、国民に対する、そのご家族の方々に対しお詫びを申し上げたい気持ちでいっぱいです。

1990年3月私は、外務省を辞職致しました。
情報という者に対する日本政府の姿勢に愛想がつきたというのも要因のひとつですが、当時は、公務を離れたプライベートな立場といかように主張したとしても、ソ連の諜報機関の関係者や北朝鮮大使館側=北朝鮮の公務員と接触を持つことは禁止されております。当然、金銭での取引とかそういったことがあるということは(不明、当然という意味?)
したがって、ヨーロッパから日本に帰国できたとしても懲戒免職等の罰を受ける立場でもありました。結果的には懲戒免職ということにはなりませんでしたが、罰は罰。規則を犯した罰を受けるべき、けじめを付けさせるべきとの声も強く、道は道、筋は通すべきとして、私自身、辞職という形をとり、外務省を去りました。

退職後も他国の諜報機関との接触が続き、その影を消すのに相当の年月を要しました。
身の安全も含めて全て自己責任として、隠遁生活を続けていた時期もあります。当然私の身内や関係者に何らかの影響がでることも危惧し、一切コンタクトをとらず行動を控え、黙して生きてきた時期もあります。

そう言った中で、拉致被害者家族の戦う姿を見たとき、「いや、このままではいけないんじゃないのか」と、その戦う姿に大きく刺激され、自分が黙して生きてきたことを反省して、これから少しでもまた何かお役に立てればという思いを持っております。

さて、時間も迫っておりますので、最後に我々が北朝鮮問題に対してどう立ち向かうか、私なりに簡単に述べさせて頂きます。
さてどうするか、「北朝鮮と戦争をしますか」と言っても、日本国民がそれを望むわけもありませんし法的にもありえません。戦争を行うべきではないと思います。
それでは北朝鮮の体制が崩壊するのを待つのでしょうか?これは我々が望むところでありますが、現実には崩壊しておりません。

それでは経済制裁しますか?と。
~~即刻すべきです。~~
単に経済制裁のみならず、可能な制裁を、あらゆるレベルで、即刻実施すべきだと思っております。
これ以上何もしなければ完全な手遅れになります。
他国の協調行動がなければ、特に周辺国、中国、韓国、モンゴル、ソ連(ロシア)の協調行動がなければ、その影響は小さいことは分かり切っています。

かといって、経済制裁の効果が小さいから、あるいは周辺国の北朝鮮との貿易関係が強まるからと言って経済制裁をしないという、そういう損得勘定で外交を行えば、日本の尊厳、外向的立場、国際社会における立場は完全に失われることになると思います。

単なる損得だけで動くことで、果たしていいのか?そうではないと思っております。

また、北朝鮮は、日本の世論も恐れていますが、国際世論も恐れています。

国連、あるいは国際的人権擁護団体に対して、日本がもっと訴えていく必要があります。
あるいは民衆レベルで、国境のないインターネット等あらゆるメディアを媒体として国際世論に北朝鮮おける包括的人権問題も含めて、その中心となる拉致被害者の人権を軸に、国際世論に訴え、国内的には制裁世論と、北朝鮮に強制的にでも調査団を乗り込ませ、事実究明をはかるという、こういうことに対して国内的にも理解を求め、国内世論、国際世論両方で高めることで北朝鮮を包囲していくと言うことが必要だと思っております。

即刻、直ちに、あらゆる制裁を発動し、実施し北朝鮮に乗り込むと言う声をあげていくべきだと思っています。

圧力と対話という紋切り型の表現を維持している日本政府、膠着状態の続くこの状況をこのまま私達がみていていいとは思っておりません。

みんなが、国民一人一人がまず、声をあげていくことから、この膠着状態を打破する第一歩が歩き出せるのではないかと思っています。

以上今日のお話しは終わりとさせて頂きます。
ありがとうございました。
極秘指令~金賢姫拘束の真相 ◆砂川 昌順 (著)

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小川 晴久さんのお話(1)

2005-04-10 | 藤沢市民集会
◇第10回「拉致被害者と家族の人権を考える市民集会~拉致を語らずして人権を語るなかれ~」
                  2005年4月10日藤沢産業会館にて
小川晴久さん
「守る会」名誉共同代表、二松学舎大学教授、東京大学名誉教授

只今ご紹介にあずかりました、小川でございます。
今日は横田めぐみさんのご両親と一緒にお話しできるといった機会を与えていただけたことを嬉しく、光栄に思っております。

砂川さんのお話を聞いたのですが、25分という制約がある中で、ひとこと、ひとことが重くて(少し言葉に詰まる、涙ぐむ)とても良いお話しをお聞きすることができました。

私に与えられた時間も20分少々になりますが、今日お話し申し上げたいことがいっぱいありまして、レジメを用意しました。その中にたくさんのことを書かせて貰ったんですが、テーマは「北朝鮮の人権問題と世界の関心」というものにさせて頂きました。

私は悪い癖がありまして、一度に全部のことを語りたいと。

このレジメは(私が北朝鮮の人権問題に目を開いて以来今日まで僅か12年間なんですけれども)市民運動、人権運動をしていて学んだこと、掴んだ事を全部ぶち込んだレジメでございます。

但し今日は時間の制約もありますし、北朝鮮の金正日の体制というのは、どれだけひどい、悪い体制であるかというのは、日本の、特に民法テレビのがんばりでかなり知られるようになっているわけですので、北朝鮮が一体いつからあんな国になってしまったのかはレジメの3番目、4番目に要点は書いてありますので、後で参考にして頂ければと思います。

今一番私たちに求められている事は、横田滋さんも、砂川さんも仰いました。「膠着状態になっている。どうしたらいいんだ。何をやればいいんだ」ということだと思いますので。
その点に関していわゆる「包括的な解決方法」、小泉さんが何度も言っていますが、「包括的」と。人権問題も経済問題も、国交を開く問題も、すべて包括的に掲げて、その中で、できることからやっていこうという包括方式とか、六カ国方式で打開していくとかいう政府が取っている、あのやり方、あれは間違いであるということを、どうしても申し上げなければなりません。

私は今の憲法で育った世代の一人でありますので。1941年に生れて1947年に小学校に入った一人です。(ですから)今の憲法で小学校から育てられた世代ですので、どうしても第9条、「戦争放棄」(にこだわります。)

今の憲法はものすごく人権条項に恵まれた憲法であります。世界人権宣言と双子ではないかと思われるほど、日本の憲法は世界の中でも、ものすごく人権尊重を謳った憲法ですので、この憲法を生かして、隣国の北朝鮮の人権問題の解決に努めたいと、そういう立場で今まで、考え、且つ行動してまいりました。

人権は国境を越えますから、人権問題にものすごく敏感な人たち、それは、アメリカであり、ヨーロッパの人達であります。そういったひとたちが、世界が、北朝鮮の人権問題にどこまで関心を向けてきているのか、そのことが特に5番目にまとめてあるのですが、そこを中心に(お話していきたいと思います。)

現在この瞬間(4月10日)にもジュネーブで第61期国連人権委員会が開催中であります。
明日(4月11日)、ヨーロッパ=EU諸国と日本が、-今回は日本がかなりイニシア(ティブ)をとって-今年の北朝鮮に人権改善を求める決議案を上程して15日に採択される見通しでありますが。

現在進行中のジュネーブ国連人権委員会で どういう形で北朝鮮の人権問題が集約されているかについて今日は申し上げたいと思います。

今砂川さんがおっしゃったとおり国内の努力というのはまだまだたりない。小泉政権があのように「対話と圧力」「対話と圧力」それしか言わない政権、首相ですので。もっとはっきりさせてくれ(と言いたい)。
「対話の段階ではないんだ。交渉の段階ではないだ」ということがはっきりしているのにも関わらず、やるべきことをやっていない、そういう政権を私たちは持っておりますので。

日本国内でも、平和勢力、民主勢力、「第9条を守ろう」と一生懸命がんばっている人達、9条の会に結集している人達、その代表たちが北朝鮮の人権状況について発言しないという状況。私は、これは正しくない対応をされていると思うんです。(この部分強く怒りを持って仰っていました)

私は、第9条を守りたいという一人ですから、第9条を守る運動が広がっているのはとても評価しなくてはいけないのですが、しかし、何故そこで、北朝鮮のものすごいひどい人権状況について、あの年配の日本を代表する知識人たちが語らないのか!(声を強めて)どうして語らないのか? 大江健三郎さんにしても、何故このことを事挙げしないのか?ほんとにおかしな事態が進行しております。

憲法9条がどんどん崩され、有事体制がど進んできたこの10年間、その引き金を引いているのは、ノドンの発射、テポドンの発射、これによってぐいぐいと有事体制化が進行致しました。

それからイラク戦争に対しても、日本政府はアメリカをイギリスを支持して自衛隊を送っていますけれども、本来だったら断固、第9条の立場から、あんな遠くに自衛隊を送るのかということで大きな反対運動がおこっていいはずなんですが、それが暗黙のうちに、国民の半数以上の人たちの支持があって、その事態が進行していると言うことは、やはり北朝鮮の影が濃いからなんですね。北朝鮮脅威をいうものを、日本国民は肌身で感じているので、こういう事態が進行して、第9条がどんどん崩されていく。そういうことを第9条を守ろうという人たちは何故しっかり抑えて発言しないのか?

ものすごい人権条項に恵まれている憲法を持っている国民、市民として、その人権条項を守るためもですね、早く北朝鮮の人権状況を改善しなければならない。(これは)ものすごく密接に関連があるはずなんですけれどね。
そう言う点日本国内でも、韓国ででも同じです。

(現在の)韓国の政権は民主化を達成した勢力が作っている政権であります。あの過酷な軍事政権と戦って血を流して、そして自分の力で勝ち取ったあの政権です。あの人達何故あの北朝鮮のものすごい、おぞましい人権侵害に対して積極的に改善するように声を挙げないのか?

「北朝鮮を刺激してはいけない。対話が始まったからばっかりだから刺激しちゃいけない」という態度、今のノムヒョン政権。ものすごくねじれていますね、韓国社会も。(深い憂いを込めて) 

日本の社会もねじれています。
そういうことについてもどうしたらいいかということを時間の限りお話したいと思っています。

第五項
「世界はどこまで、北朝鮮のおぞましい人権状況に気付いてきているのか?」というテーマです。

まず、第一に1979年に2月24日にロンドンに本部があるアムネスティ・インダーナショナルがベネズエラの詩人アリラメダの手記を英文で発表致しました。この英文のラメダの手記によって、世界は北朝鮮に強制収容所があると言うことを、はじめて知りました。それから9年後(1988年12月)にアメリカで「北朝鮮の人権」という大変立派な人権報告書が発刊されました。これがそれです。
(掲げて示して)『北朝鮮の人権』

それを出した主体は、「ミネソタ弁護士会国際委員会」と「アジアウォッチ」 という人権団体です。二つのNGOが共同して今日でもこれを凌駕することのない、北朝鮮の人権状況の把握ですね、今から16年前にだしました。これはアリ・ラメダの手記が、かなり大きな引き金になったのではないかと推察しております。

ところが、この翻訳大国の日本がこの大変立派な北朝鮮の人権報告書を昨年11月まで翻訳しませんでした。このこと自体も大変恥ずかしいことです。

3番目、ロンドンにあるアムネスティは、北朝鮮の人権問題について、大~きな貢献をして参りました。先ほど申し上げましたラメダの手記を発刊したり、富士山丸の漁船民の拿捕についても、アムネスティは1980年代に世界に訴えました。そういうことも、この人権報告書で知りました。

4番目にですね。
私が北朝鮮の強制収容所に気付くきっかけは今から12年前、1993年8月に東京のある朝鮮料理屋さんでですね、-40年前に、日本から沢山の人が北朝鮮に渡りました。日本人妻も6000人ぐらい渡ったと言われておりますがーその帰国者たちの家族が、北に渡った家族が強制収容所で殺されたり、ひどい迫害を受けているということを、はじめて小さな屋内集会で、(知りました)私もそこに誘われて、12年前、はじめて帰国者が受難していることや、山の中に恐ろしい収容所があることを知りました。その時から、この問題に取り組むようになったんですけれど。

韓国でも、同じような市民団体が私達の市民団体ができた2年後に誕生しました。私達は「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」という長ったらしい名前です。 韓国では「北韓人権市民連合」というNGOが一緒になって、「命と人権」という英語のパンフレット世界に発信することを始めました。

それで、何を訴えたかったかというと、山の中に恐ろしい強制収容所があるんだという事実を訴えたくて、4刊、今までに出しました。

第5番目に国連人権委員会の小委員会が、1997年8月にはじめて決議を出します。それは2年続きます。

6番目に、フランス知識人21名声明。1999年3月12日にでます。

(7番目)それからアメリカ上院外交問題小委員会では、強制収容所体験者を呼んでヒアリングをしました。1999年4月に行われています。

(8番目)それから、1999年12月から、北朝鮮難民問題国際会議というものが、ソウル(1999年12月)で開かれ、第2回もソウル(2000年12月)東京(2002年12月)で開かれ、そして一昨年はチェコのプラハ(2003年2月)で開かれ、昨年はポーランドのワルシャワ(2004年3月)で行われ、そして今年はまたソウル(2005年2月)で開かれました。こういう国際会議が営々と続いています。

(9番目)それからドイツ人の医者フォラツエンさんが2001年1月から、「北朝鮮を知りすぎた医者」(2冊)と言う本を出して、個人の力であれだけのことができるのかと思うぐらいがんばって、「情報こそ、インフォメーションこそ力だ」という信念の元に、行動を開始されております。
北朝鮮を知りすぎた医者 国境からの報告(Part2) 北朝鮮を知りすぎた医者

(10番目)それから、2001年9月(あのニューヨークセンタービル爆破事件の月でありますが)北朝鮮人権改善のためのアメリカ委員会が発足しました。とっても立派な創立宣言を出しております。この創立宣言の何処が立派かと言いますと、「安保問題よりも、核問題よりも、人権問題のほうが大事だ」という視点を打ち出したことです。

11番目になりますが、国連人権委員会のコリア委員会で、立派な決議がでるようになりました。、

(12番目)そして昨年の4月(2004年)の決議では地域を特定した北朝鮮の人権問題を特別に調査する特別報告官が勧告され昨年の7月にタイの学者、ムンターボーンさんが初代の北朝鮮特別人権報告官に任命され、精力的にその方が活動され、今回進行中の人権委員会に立派な報告書が提出されております。

そして昨年12月には、アメリカで「北朝鮮人権法」が成定され、これが北朝鮮に対する大きな圧力になっているのはみなさんもご承知かと思います。

このように世界の中で目立つのは、アメリカです。この立派な人権報告書をだしたアメリカの人権団体がひとつの象徴ですね。それから、クリスチャンたちのものすごく活躍していますね、アメリカであれヨーロッパであれクリスチャンたちの活躍が非常にめざましい。。

アメリカとヨーロッパが非常に良い形で提携して、今日まで、国連人権委員会に向けて北朝鮮の人権状況の改善のために、力を合わせて努力しております。

人権決議の中には山の中に恐ろしい強制収容所があるということが、しっかりと書かれておりますし、北朝鮮の人権問題がほとんど全て網羅されている、レベルの高い決議が採択されております。

あとは、砂川さんが仰ったとおり、「人権査察」が必要なんですよね。核査察は一度北は受け入れましたが、核施設をごまかして隠してきたんですが。それよりも人権査察が必要なんですよね!

人権査察で何を査察するか?それは山の中に今5つ6つに集約されているといわれている強制収容所を詳細に確認し査察する必要がある。しかしこれはもう人工衛星でキャッチされています。

アメリカの商業用の人工衛星なんですけれど、山の中の強制収容所の詳細な衛星写真が、一昨年、アメリカ人権委員会の報告書「隠された強制収容所」という報告書に、26枚の強制収容所の衛星写真がここに示されております。

昨年の9月にイギリスの外務次官、ビル・ラベル(?)さんというひとが(イギリスは北朝鮮と国交がありますので)、人権問題を特定して北朝鮮に乗り込みました。そして北朝鮮当局に、ここに強制収容所があると言って、写真を持ってその確認を迫ったんですね、そうしたら、北朝鮮はそれは刑務所であるとごまかしたそうです。でもラベルさんはその報告書を2冊おいてきたそうです。そこまで行っている。

残念なことに私は、40年前、学生時代は北朝鮮を支持していたひとりでありました。
当時は、北朝鮮はあんなにウソをつくようなでたらめな国ではなかったと思うんですね、。
だからこそ、たくさん多の人がいろんな人の説得に応じて、北朝鮮に渡ったんですね。全て騙されたとは言えないところがあるんですね。<北朝鮮というのは社会主義だ。日本では大学にも行けない。日本の大学を出ても研究職には就けない>というのが当時の状況でありましたから、東北大学で研究していた在日の科学者たちも率先して北に行くんですよ。その人達が数年後に強制収容所にぶち込まれてしまうんですよね。そんな悲劇を私達は、なかなか判らなかった、長い間。(感慨深く)そういった帰国事業の悲劇もあるんですけれども。

今や北朝鮮はあらゆることにウソをつくひどい国になっちゃいましたね。これは本当に悲しいことなんですけれども、そこのところをどのように打破して行くかと言いますと。

今申し上げた国連人権委員会をはじめ、人権を守れという世論も高まりつつありますけれど、だ・け・ど、北朝鮮は崩れませんよね。なぜ崩れないと言うと、国内でがっちりと体制を固めているからです。なんで固めているかというと秘密警察、密告制度、それから恐ろしい強制収容所です。本人が収容所にいれられるのだったら、まだ我慢もできます。自分さえ勇気を持っていればいい。。ところが、家族ぐるみ入れられちゃうんですね。裁判もなしに。こういうことは、強制収容所体験者の手記を読まないと判らないんです。手記は日本でいっぱい訳されています。その手記はレジメの第2番目のところに書いておきましたので読んでください。この中の一つでもいいですから読んで頂きたい。(参照A)

時間もなくなってきましたので、何故、北は崩れないのかとうと、これは国内をがっちりと固めている。金正日という人は国家主席になればいいものを、国家主席なんか蹴飛ばして、軍事委員会の委員長なんですね。それはどういう事かと言いますと、北朝鮮の軍隊、秘密警察、その上に彼は自分を乗っけて、自分ひとりの命を守っているんです。北朝鮮の軍事力で、自分一人の命を守っているんです。(声を強めて早口で)

金正日さえいなくなったら、金正日さえその地位から引きずり降ろせば、北朝鮮の民主化は一気に始まります。(それなのに)何故(崩れない)かと言えば、金日成から築いた恐怖の体制=強制収容所、秘密警察=そういう体制がまだしっかりしていますから。金正日、金日成の批判をしたら、即刻山の中の収容所に持っていかれてしまうんです、家族もろとも。
北朝鮮の人達の命が、全部あの金正日というたったひとりの人間の手に握られているです。

もちろん北朝鮮を支えているのは金正日だけではなくて支配層はありますよ。
もし、金正日が失脚したら、自分たちも一緒にやられちゃうと言う。北朝鮮政府に代表者はみんなそうですね。そう言う人たちは、必死ですよね、あの体制を守らなければならないと。だけど、金正日さえひとり除去できたら、ものすごく早く、北朝鮮というのは民主化する。この問題は解決されていくと思います。

そのために(失脚しないために)彼は必死になって、軍事委員会の委員長として自分を守っているんですね。

だからなかなか倒れないと言うことがあるんですけれど、だけど、残念なことに(国外にも)北朝鮮を支えている勢力があるんですね。ひとつは中国です。ひとつは残念ながら韓国政府ですね。残念なことに、日本政府もなんて言うんでしょうか・・小泉さんと金正日が会談しましたよね。宣言を発表しましたね。あれを(日朝平壌宣言)を遵守するなんて言ってますからね。だから、日本政府の北朝鮮に対する対応は非常に弱いですね。だからこそ、拉致家族の皆さんも非常に苦しんでいらっしゃいますね。

日本政府もどっちかと言えば北を支えている。

何故、支えているかと言うと、北朝鮮が崩壊して難民が多く出てきたら困る。それだけです。これはエゴイズムだと思います。難民がいっぱい出てきたら困る。だからできるだけ今の体制で改善していって欲しいというのが、中国、韓国政府、日本、ロシアもそうですね。そう言う形で支えちゃっているから、なかなか崩れない訳です。

だけども、支えている国の中にそれぞれ大きな矛盾があります。
一つは、中国の矛盾ですね。中国は1951年に難民条約に加盟しております。『この人を送り返したら命が危ないという場合は、保護しなければならない』というのが難民条約の根本精神ですね。

ところが北朝鮮からどんどん難民が出ています。その難民を中国は捕まえて送り返しているんです。
これは難民条約の明白な違反ですね。国際人権活動家たちは、もう歯ぎしりしています。何を言い始めているかといいますと、今年の2月のソウルでの国際会議の決議に入りました。
『中国政府がこんなことをやってたら2008年の北京オリンピックをボイコットするぞ。』と。この声がだんだん、だんだんと高くなっていくと思います。これは中国の一番の弱点でありますね。北京オリンピックを成功させたいと思っていますから。これは中国の最大の弱点です。難民条約に違反して脱北者を送り返しているんですから。

韓国政府の弱点は何かと言えば、軍事独裁政権と戦って血を流した人たちが、北朝鮮の裁判もなしに、金正日、金日成の批判をしただけで、収容所に入れてしまうような体制、あれに賛成するはずないんですよ。民主化でがんばった人たちが、もしそれをあからさまにそれを知ったらですね。そこも、ものすごい矛盾ですね。

今、386世代(60年代に生まれ80年代に大学校に通い、現在30~40代の世代)というのが政権を支配していると言われています。それよりも10才上の世代486世代が分離して動き始めています。それはとても待ちに待っていた嬉しい事態ですので、大いにそれを見守りたいし、その人達と一緒に行動していきたい。

更に、日本の北を支えている人たちの矛盾が何かと言えば、さっきの9条を守ろうとしている人達が、北朝鮮の人権問題について口を噤んでいると言うこの矛盾です。これは早急に解決されなくてはならないと思います。

総じて言えば、平和勢力、民主勢力、もっと端的に言えば左よりの人たちですね。その人達が北朝鮮に対してものすごく甘いんです。この弱点がある。この人達が、北朝鮮を支えてしまっているのです。ここのところの矛盾をもっと突いて、こういう人達がもっと拉致問題にも取り組み、難民問題にも取り組み、北朝鮮に返った人たちの受難もですね、そういった問題をどんどん取り上げるべきです。(また)特にNHKはもっと北朝鮮内部の収容所などの問題を報道しなければいけないと思います。

そう言うことも含めて、やるべき事ははっきりしています。

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小川 晴久さんのお話(2)

2005-04-10 | 藤沢市民集会
最後に私の悩みについて書いておきましたけれど。
どういう悩みかというと、強制収容所の手記などが翻訳されて出版されておりますけれど、こういうものがねずみ算式に読まれていかないんですね。私は、ねずみ算式に読まれていくんだと思っていたんです、最初は。
(それを読んで)驚いて、親しい人に知らせなくてはならないと広がっていくと思っていたんです。どうもそうではない。

最近わかりました、その理由が。人間は不幸なことから、目をそらしたい。不幸なことを見つめ続け、その認識を深めると言うことは、人間の本能には反する。

だから私は友人達に訴えるんですけれど、年賀状で400人ぐらいの友人に。
昨年若い人たちと
『北朝鮮・隠され強制収容所』とか、ミネソタ弁護士会の『北朝鮮の人権』
やっと訳しました。それを「読んでください」と頼みますね、年賀状で、400人。反応してくれた人は10人ぐらいです。反応してくれた人はホントに心の優しい人たちだと思うんですけれど。でも何故かと考えると、やはり人間には、不幸からは目を背けたいという気持ちがあるんですね。
でも、そんなことでは、拉致問題も、何も解決しないんですよ!

どうしたら良いかと言いますと、やっぱり努力するしかないんですね。
手記などを読んだ人が、一時期はいろいろ動きますよね。でもやっぱり疲れてしまうんですよ。なかなか解決しないから。

その時に考えたのは、『勉強することだ』ということです。
何を勉強するかというと、『命というのはものすごく大切なものなんだ』という勉強、『人権を確立するためには、どれほど困難な歴史があったかということの勉強』それから『最近20年間のアメリカの努力』についてです。

アメリカは憎まれていますね。イラクの戦争とかいろいろ。私も学生時代に左翼に入って活動した人間ですから「アメリカ帝国主義」というイメージしかないんです、アメリカに対して。

だけどアメリカはイギリスから分離独立した国ですよね。
ベトナム戦争でホーチミンが指導したときの、ホーチミンの合い言葉はなんだと言えば、「独立と自由ほど尊いものはないんだ」という言葉です。これはアメリカの独立宣言の言葉ですよ。ホーチミンは、アメリカの独立宣言の精神を持って、アメリカのものすごい空爆と戦ってあの時アメリカを追い出しちゃったんですね。

そう言うこともあってアメリカは今は大国で、世界一の強い国ですが、『人権』とか『自由』とか『民主主義』については歴史がある訳ですね。その歴史を我々は勉強してこなかった。アメリカ批判一辺倒。

説明つきませんよ、2001年にアメリカ人権委員会ができたこと、昨年『北朝鮮人権法』というものすごく立派な人権法が成立したこと。満場一致だそうです、上院下院! アメリカ議会で、満場一致です。
レベル、ものすごく高いです、アメリカ北朝鮮人権法は。内文なんて、事実認識では北朝鮮の人権状況を全て認定していますよ。

顧みて、日本政府はどうですか?
    日本の国会議員はどうですか?
    日本の政党の北朝鮮の人権状況への認識はどうですか?

    ものすごく遅れています。(深い落胆と憤りとを込めて)
    
この認識の遅れは何処に表れているかと言いますと、NHKが報道しないこと。
日本国民の認識レベルは民法テレビとか、週刊誌とかの、手記とか、難民の証言とかの、その域を出ていません。
日本人のこの認識の遅れは、アメリカの国会議員達の認識に比べて、ほんとに恥ずかしいぐらい低いですね。

そういうことを考えると、何を勉強しなければならないかというと、『命に関する勉強』『人権の歴史に関する勉強』特に最近は、『アメリカのこの20年間の人権、民主主義を普及するという努力』ですね。
これについて勉強しなければならない。

6回の国際会議を支えてくれたひとつのスポンサーは、ナショナル・エンダウメント・フォー・デモクラシー(NED~National Endowment for Democracy~米国民主主義基金)というアメリカのNGOです。それは アメリカ議会のもとにできているNGOです。
このNGOが、国際会議の費用の半分を持ってくれている。そう言う点でも、アメリカに対するイメージには悪いイメージもあります、悪いアメリカもありますが、しかし、人権を守るというアメリカもあるわけなんですね。
その点、私は今の日本国憲法ははっきり言って、与えられた憲法だと思うんです。こんなにありがたい憲法はありません。世界人権宣言の双子です。それを我々は、力で勝ち取っていないために、(人権意識が遅れている。)今北朝鮮の人権問題を通して、日本国憲法の精神を守っていくべきなのです。

北朝鮮に家族のいる在日は何も言えないんです。北朝鮮に家族のいない日本人、たくさんいるでしょう、私も含めて。彼等の言いたいことを聞いて、それを変わりに語っていくことです。それは日本国憲法の人権条項の精神を守っていく活動でもあります。

以上です。

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