迷狂私酔の日々(再)

明鏡止水とはあまりに遠いこの日々。

桟道の孤愁【2011雲南】DAY13・巴拉挌宗へ

2011年04月24日 | 旅する。

4月24日 日曜日 香挌里拉(中甸)

【巴拉挌宗に行くには?】
今日は巴拉挌宗(バラクソン)に行こうかと思う。崖に取り付くようにめぐる桟道を歩いてみたい。だが、昨日見つけた「巴拉挌宗ツーリストインフォメーション」はまだ開いていなかった。青空に名残の月が浮かんでいる。

【Aチベット粥を試す】
ATMを探して新市街まで足をのばし、中国工商銀行で500元を引き出した。戻るとタクシーたまりの男たちに次々と声をかけられたが、笑顔で断る。ここでVISAのATMを発見した。宿から出て1分のところ。しかも日本語の案内まであった。どうして気づかなかったんだろう?

巴拉挌宗インフォメーションはまだ開かない。すぐそばのSEAN'S CAFE no.2で朝食にする。チベット粥10元と雲南珈琲(ミルク入り)15元。

甘めの小豆入り粥に、やや雑味のある珈琲。ここは英語が通じるし、観光情報にも詳しいようだった。西洋人ツーリストたちが根城にする感じの店だ。

【中国エリートと同行する】
ようやく「巴拉挌宗ツーリストインフォメーション」が開いた。

英語を満足に話せるスタッフがいないため、説明が要領を得ない。帰りは18時ころになる、往復の費用50元だけをここで払えばいい、と判明したところで、予約客らしい夫妻が来た。上海から来たそうで、きれいな英語を話す。30代後半の富裕層か、野村證券からもらったというデイパックを持っていた。もうひと組のさらに若そうなカップルも英語を話す。どうやら中国のニューエリート層と同行することになるようだ。

大きめのツーリングワゴンに客は計5人、二列目と三列目に二組のカップル、私は助手席にゆったり座る。怖そうなオヤジが運転するが、フロントにマニ車がのっているところを見るとチベット族のようだ。

途中で女性2人がdico'sで買い出しに走っていった。どうやら昼食は自前らしい。ちなみに私は非常食を常に持ち歩いているので、何とかなる。もとい、何とかする。

工事中の区間では徐行や信号待ちなど時間がかかる。途中停車して証券マンが走り出したので、私も降りる。予想通りトイレだった。いい勘をしていた。路傍の公衆トイレには人民の排泄物が山盛りになっていた。

車内後方から酸梅味スナックが回ってきた。日本で言えば梅干し飴みたいなものか。若い方のカップルからだった。一般人民のある種押しつけがましい親近感とは違うが、友好のしるしをいただいておく。

【通天峡桟道を行く】
11:45、香挌里拉大峡谷旅客接待中心、景区(公園)の入口に到着。巨大な建物はホテルで、駐車場に民族衣装のガイドらが待ち構えていた。証券マンがその民族衣装のガイドと交渉し、みんなで一緒にいくことになる。各自186元(約2325円)をここで支払う。ここからのバス代と入場料が込みのチケットになっていた。

大きなバスに乗って川沿いを走る。ここも一種のパーク&ライドで、それは高額の入場料を課金するシステムとして機能していた。バスが着いたところから、通天峡桟道を歩く。ここは巴拉挌宗神山のふもとにあたる。岩壁にNATURE-MADE BUDDHA、つまり自然にできた釈迦像がある、ということだが「そう思えばそう見える」というたぐいであった。

切り立つ崖に取り付けられた急な登り道は鉄骨の足場に木の板が載る構造で、整備されている方だが、女性たちは不安がる。時々木が腐ったか、抜けているところがある。むしろ、もっと昔ながらの崩れかけた桟道を期待していたので、ちょっと拍子抜けした。

道はさらに崖を上っていく。撮影しながらゆっくり上ると、小さな休憩所になっていた。ここから先には行けないそうだ。来た道を降り、待っていたバスに乗ってさらに先へ。

【学校の先生?】
バスが着いたところは香挌里拉大峡谷という名前で、急流沿いに延々とつづく桟道には香挌里拉桟道という名前がついていた。なにがなんでも「香挌里拉(シャングリラ)」にしたい強引さがうかがえる。斜面に馬が放牧されていた。

ここでガイドから帰りにラフティングするか尋ねられる。他のみんなは行かない。車内で梅をくれた彼によれば、ラフティングには短過ぎるという。ここは協調性を発揮してみんなと一緒に歩いて往復することにする。

この道はずっとフラットで、川沿いの崖に懸けられた桟道を歩いていくことになる。さっきはいろいろあった解説もない。民族衣装を着たガイドが先に歩いていく。河原に降りると積み石がいくつかあった。

高山にあるならケアン(ケルン)、この地方ならチベット仏教のストゥーパに類するものかもしれないが、日本人には「賽の河原」を連想させる。

ライフジャケットが積んである場所に着いた。ラフティング用か。ここが終点らしい。また歩いて引き返す。みんなそれぞれに対岸を眺め、川の流れに耳を傾け、花を愛でる。

車内で梅をくれた彼から「学校の先生か?」と質問された。明日の飛行機で帰るそうだ。一行はバスで出発点の香挌里拉大峡谷旅客接待中心まで戻った。

【ナパ海を見下ろす】
ここからは怖いオヤジのクルマに乗り、帰途につく。工事で発破をかけたらしく、白煙の上がる道を少し待ってから通過。その先でも工事で5分ほど停車。少し進んではまた停車。

ナパ海(漢字では納[巾+白]海、上の写真を参照)を見下ろす展望地でクルマが停まった。ここに来るか巴拉挌宗にするか迷ったので、ナパ海を見られるだけでも嬉しい。

湿地帯に広がる草原を上から眺めるだけだが、馬がいて、ストゥーパが立ち、タルチョが風に舞い、湖が広がる風景は美しい。

帰途、長征大道に面したホテルでカップルは2組とも下車していった。あとで知ったが、彼らが泊まっていた香挌里拉天界神川大酒店は1室1000元以上の5つ星ホテルだった。100元や130元の部屋で「贅沢だなぁ」と悦に入るビンボー旅行者とは格が違った。

古城入口でひとり降りて宿に戻る。

【お仕着せのタルチョ】
夕食に出かける。四方街の踊りの輪から、女の子が駆け寄ってきた。

四方街から東へ。どの道も広場に通じるつくりだ。通りから空にかかるタルチョを見上げる。ここのタルチョの一部には、よく見ると当局のスローガンが書いてあったりする。そういえば、ストゥーパや聖地ならともかく、商店が並ぶ通りにこんなにタルチョがあるのははじめて見た気がする。

広場からマニ車と朝陽楼を見上げる。

月光広場にはまた踊りの輪ができていた。

北側の道はストゥーパのある小さな広場に続く。

【沈黙の聖なる石】
レストラン探しで今日も右往左往するが、結局このLHASA RESTAURANTに決める。東北チベットにあたるアムド地方の料理店のようだ。

メニュー看板に静静的[口+麻]昵石/THE SILENT HOLY STONESと出ているのは映画(邦題「静かなるマニ石」ペマ・ツェテン監督)のことだろう。入店してみたが誰もいない。キッチンに入って呼ばわっても出てこない。しばらくテーブルに座って待つことにする。ようやくメニューをもらい、[口+加][口+厘]土豆鶏/ポテトチキンカレー26元と蔵式肉餅/ヤク肉入りチベタンブレッド26元を注文する。

映画のDVD(あるはビデオCD)をかけるが、接触が悪くて音がぶつ切れになる。テレビ画面もごく小さい。最初は店員が韓流ドラマでも見るのかと思っていたが、どうやらこれが"THE SILENT HOLY STONES"らしい。カレーもヤク肉パイもうまいが味が単調で少し飽きた。数人でいろいろ頼んでシェアするのが賢いと思う。

【暖炉を囲んで】
昨日見つけたチベタンチョコレートの店へ入ってみる。昨夜もいた白髪白髭の老紳士は同じ暖炉のそばに座っていた。小さな男の子と女の子が遊んでいる。丸刈りの男の子は白髪白髭紳士に「リトルモンク」と呼ばれていた。

「ニーハオ! ハロー!」と女性がメニューを持って来てくれた。「寒くないですか」と気遣ってくれる。とりあえずベイリーズチョコレートカフェ35元を頼む。

今度は店主らしき男性と老紳士が炉辺に誘ってくれた。固辞する方が失礼のような感じだったので暖炉の前に移動する。老紳士は「サムです」と握手を求めてきた。店主はアメリカ人でかつて山形県にもいたそうだ。女性は奥さんで現地の出身だった。男の子「リトルモンク」がやって来て、持っていたピーナッツを全部私にくれた。歓迎のしるしとして。暖かなホスピタリティが、距離感を溶かしていくようだ。

【教授と歓談する】
サムはいかにも「老教授」という風情だったので、「YOU ARE HERE FOR RESEARCH(ここには調査で来ているのですか)?」と聞くと、「A KIND OF(ある意味では).」と話し始めた。中国政治、哲学が専門の教授で、雲南に低所得者向けの学校を作ってアメリカから教師が来て教えるプログラムに関わっているそうだ。場所は「リンサン(西北部)」。しかし、7-8grade(13-14歳)でやめて仕事につく例が多く、経済的理由と親の無理解が原因だ、と説明した。

初めての中国は1983年だったと聞き、シャングリラへの改名について尋ねると「面食らったよ」と言う。そりゃそうだ。

アメリカに行ったことはあるかと聞かれたので、「仕事でニューヨークに行きました。まだ危険だったころに」と答えると、「今も危険だよ」と笑った。

【米米クラブの思い出】
ニューイングランドのクリスマスや、出版ビジネスはインターネットの普及で厳しいのか、などの話題をサム教授と話していたら、店主が米米クラブをかけた。日本にいたころ大好きだったんだそうだ。

それから話題が転じて日本のホラー映画や、幽霊、ゾンビ、キョンシーの違いについて高尚な議論が戦わされた。中国の本屋にケルアックの『ON THE STREET』中国語訳があって驚いた話をしたら、イギリス人の民主主義についての本も中国語に訳されているよ、ということだった。中国の現状をどう考えるのかについて、サムは「THINGS GETTING BETTER(だんだんよくなっている).」と慎重な言い方をした。

店にドタバタと西洋人ツーリストの団体が入ってきた。帰る潮時らしい。
「I GOT TO GO(もう行きます).」
夜の街に人影は少なかった。

宿に帰ったら、アンドレが「寒いからお茶飲んでいけば」と誘ってくれた。眠いので辞退したが、ここはいいところだな、としみじみする。

【違和感とシンパシーと】
この街で感じる違和感の理由を考える。通りにむやみにはためくタルチョ、しかも書いてあるのが官製スローガン、観光客向けの商店ばかりが並ぶ通り、毎日の踊りの輪。どれもチベット文化からは不自然で観光のための作為を疑う。しかし、そんな違和感にもかかわらず、この街は初めてなのに懐かしく、人々にはよそ者をあたたかく迎えるシンパシーがある。