呉かみしばいのつどい ~紙芝居はワクワクどきどき~

子ども達と心を通わせ、共感の感性を育む
日本独自の文化、紙芝居
紙芝居の輪が広がりますように~

②中学生の作文が法務副大臣賞入!!

2017年10月25日 | ふうちゃんのそら
安浦中学校の吹奏楽部さんとのご縁は、
2015年に『ふうちゃんのそら』の原画展をした時に、原画を見に来られた当時中学3年生の、大山由宇さんの作文がご縁となりました。


その作文とは、2015年、法務省と全国人権擁護委員連合会の主催する、
第35回「全国中学生人権作文コンテスト」に、全国973,865編の中から4位に入賞され法務副大臣賞を受賞されました。
詳しくはこちらからポチッと



「知る」ということ という題の作文です。
中学生が『ふうちゃんのそら』の作品を通じてどのように感じたかを、私たちも知ることができました。



作文は、インターネットで公開されていますので、ご紹介します。



「知る」ということ

広島県 呉市立安浦中学校 3年
大山 由宇(おおやま ゆう)


 この夏,私たち吹奏楽部は,中学校生活最後になるNHK合唱コンクールに出場する。私たちの学校では,毎年恒例の曲を自由曲として選曲し,練習を重ねている。それが「呉ふるさと讃歌」である。
この曲の作曲に携われた前顧問のK先生が今日,私たちのために合唱指導に来て下さった。



K先生の指導はこれまでに何度も受け,刺激を受けてきているが,今日の先生の指導はことさら熱かった。
普段はとても温和な先生がこんなにも激しく私たちに語られるからには,私たちの合唱に大きく足りない何かがあるからだと感じた。
先生が特に強調されたフレーズは「空襲に怯えた戦の空を」の部分である。



呉空襲の戦火の中,呉の人々がどんな気持ちで生き抜いてきたのか,イメージして歌うことが必要だといわれる。
正直,呉空襲についてほとんど知識のない私たちにとっては難しいことだと感じた。


先生の指導はさらに続き,「人間は本当におびえたり苦しかったりしたら,声は出ないし足もすくむ。そのことをあなた達は,歌声を通して,伝えなくてはならない。」「男声パートは,戦の中で恐怖の中,戦った若き人達を。女声パートは,学業を捨て,青春を捨て,兵器を作る工場で朝から晩まで働いた女生徒の気持ちを。」と。
K先生の檄は飛ぶものの,「これでよい。」とは言ってくださらなかった。
そして,最後に静かに,こうおっしゃった。「合唱は,美しさだけでは成り立たない。たくさんの思いを聴く人に届けることで,感動させなくてはならない。」と。




 この日,家に帰ってから私は母に「呉空襲って,そんなに大変だったん?」と聞いた。母は祖母に同じことを聞いていた。母はもちろん,祖母も聞いたことはあるもののあまり知らないようだった。
私は,「呉空襲」にかかわる歌を歌い続けてきたにも関わらず,今までこのことについてあまり深く考えたこともなかったことについて,申し訳ないような気持ちになっていた。




 このようなある日,新聞で「呉空襲」での被爆体験をもとに紙芝居が完成したという記事を目にした。
呉空襲を体験され,今日まで生きてこられた七十八歳の女性が語られたことを呉市在住の絵本作家が紙芝居にしたという。
私は,どうしても今,この紙芝居が見たくなった。毎日の部活の合間をぬって,やっとこの紙芝居の原画展を訪ねた。
ほんわかとかわいらしい紙芝居の原画に想像していたより穏やかな温もりを感じ,少しほっとした。




しかし,その中で一枚の原画の前で足が止まった。
それは,呉空襲の中でも最も被害が甚大であった七月一日の空襲の一場面である。
ぎゅうぎゅうづめの真っ暗な防空壕の中で,誰もが押しつぶされて死んでいく地獄のような中で差し出された一人の手と,「もうだいじょうぶじゃあ。しんぱいせんでええど。」という,やさしい言葉によって一人の小さな女の子の命が救われた場面である。



戦争という異常な状態の中で誰もが自分の命を守ることだけで精いっぱいだった時,そんな中でも人のためにやさしい言葉とあたたかい手で一人の女の子を救った人がいたのだ。
人間として一番大事なものを奪ってしまう悲惨で残虐な戦争の最中,大切な心をなくさずに生きていた人がいることを知り,私は胸がいっぱいになった。
原案を書かれた人も絵本作家さんも命をかけてこの事実を伝えようと,紙芝居に思いを託されたのだと思う。
私は,この人たちのおかげで,今回はじめて呉空襲の事実に触れ,人の心の尊さを学ぶことができた。


 
 被爆七十周年を迎えた今年,ヒロシマは節目の年だといわれている。
私の曾祖父も原爆の犠牲となり,三十六歳という若さで亡くなった。
そして,その妻である曾祖母は被爆手帳を持ち,苦労しながら三人の子供を育て,九十八歳を迎える。


今は亡き祖父がいて,私の母がいて,今の私がいて,命がつながれている。
ヒロシマだけではなく,身近な都市呉市にも惨禍があったことをあまりにも私たちは知らなかった。
ヒロシマも呉も,ともに戦争による悲しい歴史を持ちながらも必死に生き続け,命をつないできたのだ。


 
 K先生があの時,私たちに託された深い思いを私は三年間かかってようやく受け止めることができたような気がしている。
呉空襲を知らないから,うまく歌えないのではない。



過去の事実を知ろうとし,自分なりの思いを大切に持って,歌に魂をこめて後世に伝えるつもりで歌うことが,大切なのだと。



最後の合唱コンクールは明日。
「母が生まれた,父が生まれた。今はない祖父が祖母が生まれた,私が生まれたこの街で私は友と一緒に生きていこう」のフレーズを,私は仲間と共に誇りをもって,心をこめて歌う。そうすることが私にできるはじめの一歩であり,この曲を歌わせていただく中学生の使命であると感じている。


****************************************************************************************


呉ふるさと讃歌は、次へ




最新の画像もっと見る

コメントを投稿