今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

「いただいたこのいのち」に違和感

2020-03-06 06:54:36 | 考えること

連日のコロナウィルスの報道と現実に疲弊してしまっている皆様いかがお過ごしですか。

さてそんな中私がふと思ったことを書きます。

 

朝起きがけにふとこんなことが頭と胸に浮かびました。

 

「いただいたこのいのち」大切にいたします。

 

何か夢でも見ていたんでしょうか?

映画でも小説でも当たり前のこのセリフ。みなさんもどこで聞いたか覚えていないかもしれませんが聞いたことはあるような。

 

この「いただいたこのいのち」のフレーズに一度は納得をして多分夢の中の自分はうなづいたはずです。

しかし急に?と頭の中によぎります。

「いただいたこのいのち」  ?

何でしょうか? この違和感。

しばらくすると

「お預かりした私のいのち」

というフレーズが出てきて私もびっくりしました。

 

そうかよく「自分の体は借り物」なんてよくスピ系の人が言うもんな!と自分でも納得していたんですが

「お預かりしたいのち」と言うフレーズは聞いたことないな。キリスト教では言うのかね?全知全能の神、からいただいたとか。

 

などと思いつつさらにうとうとしています。と急に

「お浄土に還る」と言うフレーズが出てきました。

これは以前有名な布教師さんの法話を聞きに行った時に聞いたセリフ。

その時私は「お浄土に還る」に違和感がありました。

だって「お浄土に還る」なんて、お釈迦様言ってないし(たぶん)、生まれたのは縁だし、お浄土から生まれたわけじゃないし、と思ったわけです。

でもそんなことを思いながら

アミターバ、アミターユスのことが頭をよぎりました。

アミターバアミターユスは

アミターバ「無量の光」アミターユス「無量の寿(いのち)」のこと。

無量と言う計り知れないところから私たちは来ているわけですね。

これは「命の授業」でやりますが「命の授業」とは、A4野上を縦長にして、まず自分の名前を神の一番下の真ん中に横書きで書きます。その時自分のイニシャルがいいです。自分の名前の上に父母と書きます。名前を書いてもいいのですが、イニシャルもしくは父はP母はMと書きます。これは父はパパの略でP、母はママの略でMのことです。両親の上にさらにその両親をそれぞれ書いていきます。気がついたと思うのですが名前で書いていったら、すぐいっぱいになっちゃうんですね。でもイニシャルでもそんなには書けません。そうこうして書いた家系図。この紙の上に表れたご先祖様の人数を数える、繋がる命を感じる授業です。この授業の効果は絶大で、繋がる命が「つながるいのち」変換され、子供達の心と体に中に浸透して芯の底からわかるのです。

 

ここで「つながるいのち」

と言うフレーズが出て来ました。「つながるいのち」が私の中で「お預かりしたいのち」に変換されたのです。

誰からお預かりしたのかわからないです。ただ「永遠の過去」からお預かりした。

「永遠の過去」=「お浄土」

 

「永遠の過去」から来たアミターバアミターユスからお預かりしたいのち

 

そう考えるとわたしのいのちは「いただいた」ものではなく確実に

「お預かりした」命に転換されました、わたしの中で。

そして「お預かりしたいのち」は、この世の縁が尽きた時「お浄土に還る」のだな、とふと合点がいきました。

以前お話ししていた布教師さんは、この話を省略してお話しされていたのですね。その時のわたしにはわかりませんでした。強烈な違和感だけが記憶に残っていました。

宗祖親鸞聖人も「聞」が重要と言われます。

いろんな「聞」をし、その時感じた違和感が、わたしの命を育てるのだなあとしみじみ感じた朝でした。

ここで宗祖親鸞聖人も・・・と言われますと書きましたが、宗祖親鸞聖人が言われていることはお釈迦様も言われていると言うことです。

 

さて永遠の過去からお預かりしたいのちをハナから確実なものとして届けているから、早く気付けと阿弥陀さんは呼びかけておられる。

そうなると完全確実な形でいのちは届けられているわけです。

阿弥陀さんの名前を呼ぶことすら必要ではないような気もしますが

なぜ我が名を称えよ。

と仰ったのか?

 

早く次の夢が待たれることです。

 

 

 

 

 

 

#神社仏閣


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