いずれにしろ、 言葉の軟弱化は七〇年代から八〇年代にかけて始まり、 いまでは少年による殺人事件やいじめ自殺などが起きるたびに、 新聞でもテレビでも 「 命を大切にする教育を! 」 の大合唱が巻き起こるようになっている。 そんな教育は何十年も前から行なわれているにもかかわらず'状況がかえって悪くなっていることには誰も気づこうとしない。
なぜ 「 命を大切にしましょう 」 という教育が、 殺人や自殺の歯止めにならないかといえば、 その言葉が何の力も持っていないからだろう。 「 殺すな 」 が深い葛藤を生じさせ、 したがって生半可な覚悟では言えないのに対して、 「 命を大切にしましょう 」 は誰にでも簡単に口にできる。 まったく良心の呵責を感ずることなしに垂れ流すことのできる、 きわめて無責任な言葉だからだ。
ちなみに、 こうした言い換えが行なわれた言葉は 「 殺すな 」 だけではない。 宗教の黄金律には 「 殺すな 」 のほかに 「 盗むな 」、 「 嘘をつくな 」 といったものがあるが、 これも同様に教育の世界から消え去っている。
これはどちらも 「 殺すな 」 と同じように、 現実に生きていく上では誰もが避けて通れない行為だ。 いっさいの盗みや嘘と無縁に生きている人間などひとりもいない。 それでも宗教は 「 盗むな 」、 「 嘘をつくな 」 と言い続けてきた。
だが、 いまの教育は、 それを葛藤のない薄っぺらな言葉に言い換える。 「 盗むな 」 ではなく 「 他人に物を与えましょう 」、 「 嘘をつくな 」 ではなく 「 真実を言いましょう 」 と教えるわけだ。 これは実に言いやすい。 たぶん泥棒や詐欺師でさえ、 悪びれることなく平気で口にできるだろう。
山折哲雄 「早朝座禅-凛とした生活のすすめ」 序章 30頁~ 祥伝社新書 初版2008/8
なぜ 「 命を大切にしましょう 」 という教育が、 殺人や自殺の歯止めにならないかといえば、 その言葉が何の力も持っていないからだろう。 「 殺すな 」 が深い葛藤を生じさせ、 したがって生半可な覚悟では言えないのに対して、 「 命を大切にしましょう 」 は誰にでも簡単に口にできる。 まったく良心の呵責を感ずることなしに垂れ流すことのできる、 きわめて無責任な言葉だからだ。
ちなみに、 こうした言い換えが行なわれた言葉は 「 殺すな 」 だけではない。 宗教の黄金律には 「 殺すな 」 のほかに 「 盗むな 」、 「 嘘をつくな 」 といったものがあるが、 これも同様に教育の世界から消え去っている。
これはどちらも 「 殺すな 」 と同じように、 現実に生きていく上では誰もが避けて通れない行為だ。 いっさいの盗みや嘘と無縁に生きている人間などひとりもいない。 それでも宗教は 「 盗むな 」、 「 嘘をつくな 」 と言い続けてきた。
だが、 いまの教育は、 それを葛藤のない薄っぺらな言葉に言い換える。 「 盗むな 」 ではなく 「 他人に物を与えましょう 」、 「 嘘をつくな 」 ではなく 「 真実を言いましょう 」 と教えるわけだ。 これは実に言いやすい。 たぶん泥棒や詐欺師でさえ、 悪びれることなく平気で口にできるだろう。
山折哲雄 「早朝座禅-凛とした生活のすすめ」 序章 30頁~ 祥伝社新書 初版2008/8
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