阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

10月24日 広島県立図書館 「広島県報」など

2019-10-27 16:19:56 | 図書館
 今日はまず父が入院していた県病院で保険会社に出す診断書を受け取って、路面電車で県立図書館へ。借りていた4冊を返却してから予定していた広島県報の明治30年を書庫から出してもらうようお願いした。これは江戸時代、太田川本流の雅名であった三篠川が、今は安佐北区や安芸高田市を流れる支流の名に付け替わったいきさつを調べるうちに、明治29年の河川法が怪しいのではないかと思い、そのあたりの広島県の公文書を読んでみたいと思った。

 この旧河川法に注目したのには理由がある。以前、沼高郡の回では、沼田郡と高宮郡が合併する時に一文字ずつとって沼高郡とする法律案が提出されたが、安佐郡に修正の上可決という帝国議会の委員会会議録を読んだ。修正の理由は議事録にはないが、風土記の時代の郡名に復古せよという幕命により、廃止されていた沼田郡と高宮郡を元とは違う場所に置き換えた経緯があって、他所から持ってきた地名から一文字取るのを嫌う地元の意向があって郡名復古の前の郡名から採ったのではないかと推測した。今回、三篠川の件でも、古くは白島や横川のあたりの太田川本流を三篠川と呼んでいたのに、今は何故か安芸高田市や安佐北区を流れる支流の名前に置き換わっている。どうも同じお役所仕事の匂いがする。おそらく中央政府から河川名を確定するよう言われてこうなったのではないか。そう考えた時に明治29年の旧河川法の前後をまず当たってみようということになった。これは結論から言うと見当外れであったのだけど、図書館を訪れた時はまだ気づいていなかった。

話を広島県報に戻す。昨夜、広島県報で検索したところ以前の蔵書検索では引っかからなかった告示、訓令、県令という資料が1年ごとに出てくる。よくわからないけれど、告示というのには河川名変更とかあるかもしれない。そこで明治30年の広島県報と告示をカウンター2でお願いした。告示は8月までと9月以降と2冊に分かれていて3冊ということになる。ところが、書庫から持って来ていただいた中に広島県報はなく代わりに県令の明治30年があった。これになりますと言われて私が怪訝な顔をしたからだろうか、読んでいる間にもう一度確認してみると言われた。席で開いてみると告示も県令も公文書の原本をコピーしたものであった。すると広島県報を告示、訓令、県令の三つにわけてコピー製本したものだろうか。目次がついていて、河川に関わるものが無いことはすぐにわかった。橋梁の項目はあっても、両端の住所だけで川の名前は書いてない。そのうちに司書さんが戻って来て、広島県報の原本は痛みがひどいから出せないとのことで予想通りだった。こちらは別にコピーでも構わない。しかしこれを見ていく以外、三篠川にたどり着く方法はないものだろうか。ついでに司書さんに川の名前を探しているのだけど・・・とぶつぶつ言ってしまったら、あちらで相談されたら、と言われて相談コーナーへ。こういうものは自力で探すから面白いと思っていたのだけれど、素敵な司書さんが担当だったのでついふらふら相談の椅子に座ってしまった。私はもとより知的な女性に弱い上に、カウンター2の司書さんは皆さんメガネがとっても良く似合っていて・・・と書き出したら怪しいブログになってしまうのでやめておこう。

 まずは、これまで調べてきたあらましを司書さんに話した。太田川本流における本川vs三篠川の用例、今の三篠川は村ごとに長田川、三田川、深川川の呼称があったが江戸時代は三田川が多く、明治に入って深川川も見られて政治的な綱引きがあったのかもしれないということ。太田川も古くは大田川が多いということ等を、こういう機会があるとは思ってないから断片的になってしまったがお話した。

 すると司書さんは明治だと検索では出てこないからと昔の図書館にあったようなカードを繰って何冊か出していただいたが、三篠川というキーワードでは広島城下から向原まで、水運が太田川より盛んであったという記述がたくさん出てきた。私が探している支流の名前が三篠川になったきっかけは見つからない。いや、私も一通り調べたのだから、そう簡単に出て来ては困る。しかし、司書さんに話したことで、自説の盲点というか、整理がついてない所が良く分かった。

 江戸時代、広島城あたりの太田川を三篠川と呼んでいたのは武家が多いように思われる。一方、相生橋までが三篠川で下流は本川のように思えたり、詩歌に気取って詠む時に三篠川を使ったようにも見える。まだ、用例集めが不十分でどれと断定はできない。しかしこれを一言で言うなら武家のテリトリーで三篠川と呼んでいた、で大体説明がつくのではないかと思う。その三篠川をデルタから切り離して山奥に押しやるというのは相当ブーイングもあったのではないかと推測できる。一方、三篠川がやってきた支流の側でも、明治になって深川川という川が二つ重なった一見気持ちの悪い呼び名が出てきて、こちらも一本化となると簡単にはいかなかったのではないかと思われる。すると、中央政府から河川名を確定するように言われたとしても、そう簡単に決着しなかったのではないか。そして、まずデルタの七つの川の名が確定してから、あぶれた三篠川が別の所へという順序ならば、明治30年よりもっと後を探さないといけないのではないだろうか。

司書さんと話したことで、そういった考えが頭をかけめぐった。司書さんからも、広島県報をつぶしていくのは最後の手段で、まずは広島県史などの通史から攻めた方が良いのではないかというアドバイスがあった。手掛かりは見つからなかったけれど、司書さんと話した時間は貴重だった。やはり、一人だと視野が狭くなる。自説を伝えようとしたことで、うまく説明できない所がよく分かった。そういえば正月に聖光寺の狂歌碑を訪れた時に、栗本軒貞国というこのブログで散々書いて来た狂歌師の名をそれまで一度も声に出して言ったことがなく自信がなかったためにお寺の人に歌碑の場所を聞くのをためらってしまったということがあった。これまで調べてきたことを声に出してお話しできたこと、時間をとっていただいた司書さんに感謝したい。

家に帰ってからも色々なアプローチが頭に浮かんでその晩は眠れなかった。まずは国会図書館デジタルコレクションの広島県関連の文献からもう一度と見ていたら、太田川に河川法が施行されたのはずっと後の昭和3年というのを見つけた。一度河川法を離れて、範囲を明治40年代にも広げて探さないといけないようだ。トンチンカンな自説をぶつけてしまった司書さんには次回お詫びを言わないといけないかな。それでも、三篠川という川の名が移動したことについて、必ずどこかにきっかけがあり、痕跡が残っているはずだ。ふりだしに戻った感じはあるけれど、もうちょっと探してみたい。




以下は国会図書館デジタルコレクションの参考文献(随時追加予定)

明治11年 広島県治提要  広島県 「大田川 三笹川(市内七川)」

明治13年 高宮郡地誌略  「太田川 三田川」

明治14年 広島県統計書. 明治14年  広島県 「大田川 三田川」

明治15年 広島県管内地理  「太田川 本川(一に猫屋川) 深川川」

明治15年 西南諸港報告書  「太田川 本川」

明治20年 官報 「大田川ニ産スル鮎魚」

明治22年 広島県統計書. 明治22年  広島県 「大田川 三田川」

明治23年 新撰広島県管内地理  「大田川 三田川」

明治23年 広島県治一斑. 明治23年  広島県 「大田川」

明治23年 広島県統計書. 明治23年  広島県 「大田川 三田川」

明治24年 広島県統計書. 明治24年  広島県 「大田川 三田川」

明治24年 広島県治一斑. 明治24年  広島県 「太田川」

明治26年 広島県管内地理  「大田川 長田川」

明治26年 広島県地理大要  「太田川 三田川 長田川」

明治28年 広島県地理. 師範学校用  「大田川 三田川」

明治28年 広島県地誌  「大田川 深川川 上流ヲ三田川」

明治29年 広島県地理  「大田川 太田川 三田川」

明治30年 広島県地理. 小学校用  「大田川 三田川」

明治30年 広島県統計書. 明治30年  広島県 「太田川 三田川」

明治31年 広島県統計書. 明治31年  広島県 「太田川 三田川」

明治32年 広島県統計書. 明治32年  広島県 「太田川 三田川」

明治32年 地方分轄地図  「大田川 深川川 三田川 長田川」

明治32年 広島県地理  「大田川 三田川」

明治33年 広島県地理歴史管内唱歌  「太田川」

明治34年 高田郡地理歴史大要  「三田川」 「深川川ノ上流」

明治35年 廣島市街地圖 明治三十五年新版  「太田川 本川」

明治37年 広島県年報. 明治37年  「太田川 三篠川」

明治38年 広島みやげ : 附・安芸の宮島  「太田川 猫屋川」

      同上 「三篠の支流が更に元安、本川の両派に岐るゝ所」

明治40年 広島県年報. 明治40年  広島県 「太田川 三篠川」

明治40年 新撰日本分轄地図  「大田川 深川川 三田川 長田川」

明治42年 袖珍日本新地図  「太田川 猫屋川」

明治43年 郷土広島県地理表解  「太田川 深川川」

明治43年 広島県案内  「大田川 三田川 本川」

明治44年 安佐郡報郡勢一班. 第17号 安佐郡 「太田川 三篠川」

大正元年 広島県小誌  「大田川 三田川 本川」

大正2年 高田郡誌  高田郡 「大田川 三篠川」

大正2年 広島案内記 : 附・広島附近名勝誌、厳島名勝案内、広島商工人名録  「三篠川の流城西の地に来りて、中島の一角にて東西に別たる、東なるを元安川と呼び西なるを本川又は猫屋川と称せり」

大正3年 広島県統計書. 大正3年1編  広島県 「太田川 三篠川」


大正10年 広島県史. 第1編  広島県編 「大田川 三篠川」

大正14年 広島市統計年表. 大正14年  広島市編 「太田川(白島→江波吉島)」

昭和3年 官報. 1928年11月21日  太田川に河川法施行

昭和5年 最新広島市街地番入地図 : 附・市内及近郊名所案内  「太田川(相生橋)本川・元安川」

昭和7年 本校郷土教育と郷土読本  「大田川」


ここまで目を通して下さる方はあまりいらっしゃらないとは思うが、以下は太田川本流を三篠川と呼んでいた(今でも基町と別院の間を流れる太田川を三篠川と呼ぶ方はいらっしゃるのだけど)用例を。この他、「校歌 三篠」で検索すると結構出てくるが、校歌の中の三篠川は修道や国泰寺の応援歌のように本川に限らず、そして広島二中の校歌に出てくるところをみるとデルタ河口付近までを含んでいるように思われる。

大正6年序 昭和3年追記 自慢白島年中行事  
「また舟にのりて二またとかいへる所より、みさゝ河にさし下す
   人の世にたとへてそ見る棹さしてのほれはやかて下す河舟
三篠川といひけるは、大田本流の一名なり」

「広島の町始とかや、その時分白島の地名を箱島といひしが、其頃よりあやまりて白島といふなり、其誤といふは一本木。九軒町両白島を見わたせば、二方に三篠川流たり、西南堀をほりしかば、箱の角のごとくみえたり、此故に箱島と名つけしとなり、」

「此の間、或は杏坪と国泰寺に遊びて精進料理を味ひ、或は王香等と舟を泛べて三篠川に遊び」

「杏坪辞職の後は、一子采真の白島の邸に在り、尋いで真鴨に移り、其舎を三休亭と名づけ、時としては舟を三篠川に浮べ、時としては歩を牛山園に移し」

「あはれ三篠川の流れ。肱山の嵐。我顔を覚え居るやと。問はんとすれば。兀げて虎に似たりし肱山も。今は肥えて緑の衣に包まる。」

大正8年 三篠商工案内 
「東境を為す三篠川は、廣島市内を流るゝ各支流と、舟行容易なるを以て、」

大正年間 広島長寿園ヨリ三篠川ヲ望ム(絵葉書)

大正年間 広島三篠川清流〔別院裏〕(絵葉書)

大正年間 広島名所図絵 三篠川の清流(絵葉書)

大正年間 広島三篠川〔字寺裏〕(絵葉書)

これはどのあたりなのか、お城の石垣が写っている。

「昭和十八年 デルタ ガンギ」