阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

膿胸

2021-04-17 10:41:53 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、主に4月15日から16日のできごとです)

14日は弟が造影剤CT検査の同意書にサインして検査はその日のうちに行われると聞いてきた。翌15日は母が病院へ。母は昨日の検査の結果を聞くために先生に会いたいという。病棟の看護師さんに希望を伝えるように言ったのだが、ここで母が暴走、直接呼吸器科を訪ねて行ったそうだ。2年前は面会制限もなくて病室にいる時間が長く、先生に会うチャンスも割とあった。しかし今は15分の面会時間のうちに先生が回診にいらっしゃる確率は低い。母も今の病状がつかめなくて不安だったのだろう。しかし、そうだとしても母の行動はルール違反で当然門前払い、病棟で言ったら先生は救急対応していらっしゃって後で電話するとのことだった。病院では怒られなかったそうだから一応私から説教しておいたが、二度とやらないでほしいもんだ。

したがって、夕刻かかってきた先生からの電話の冒頭で母の行動をまずお詫びしなければならなかった。そして、先生からのお話は、造影剤CTの結果では見てわかる悪性腫瘍は認められなかった。来週結果が出る組織検査で悪性となれば肺またはその付近の癌ということになるが、出なかったとしても癌でないとは言い切れない。出なくても癌かもしれないと言われる。ということは胸水の原因として、がん性胸膜炎を一番に疑っていらっしゃるようだ。それから高熱の原因は膿胸(のうきょう)といって、肺の外に膿がたまっていることが考えられるとのことで、どういう種類の菌が悪さしているか調べて対処するとのことだった。また、胸水はここまでに2リットル出て、チューブで取れないところにまだ少したまっている、チューブは近々抜くかもしれないと言われた。それで明日胸水か膿かを注射器で抜く処置をするからまた同意書にサインしてほしいと言われた。理解できない言葉もあって、○○だったらリスクをさけて△△はやらない、と言われたのは意味がわからなかった。また、血流感染という言葉が出てきて、あとで調べても関連が理解できなかった。最後に先生が何か質問は、と言われてもわからない事が多すぎて質問できないパターン。肺炎ではないのか聞いてみたが、今のところ肺炎とは考えにくいとのことだった。

翌16日は私が病院に行く番だった。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて面会申請書のあと同意書にサインした。あとで控えを読んでもよく理解できない処置だった。病室に行くと、父は口を開けて寝ていた。起こすのもアレだから持ってきたタオル等を納めて、窓から阿武山の写真を撮った。



そしたら看護師さん来て点滴を替える作業の途中で父はやっと目を覚ました。私に向けてまっすぐには起き上がれないというジェスチャーをする。一週間チューブがついたままで、足も弱っているだろうし柵をつかまないと体も起こせない。そして熱があって苦しそうに見える。どうも、よくない方向に向かってるのではないかという不安がよぎる。しかし先生はバイタル的には落ち着いていると言われるのだから今はそれを信じるしかない。昨日の先生の言葉、もうすぐチューブは抜けると父に伝える。しかし今日は金曜日だから、あと2日、月曜まで我慢と言っておいた。しかし実際には、この日の午後チューブを取ってもらったようだ。

父の経過が思わしくない上に、この日は残念ながらナースステーションにMさんの姿は見当たらず、どんよりモードの帰り道となった。何もしたくない気分ではあったが前回の関連であと一冊読んでおきたい本があり、今日も県立図書館まで歩いた。昼食は広電本社前電停近くの一味でラーメンセット。




美味しいラーメンであったが、今の私には多すぎた。父のこともあって、全然食欲がわいてこない。なんとか食べ切ったが、次からはラーメンだけにしよう。

図書館で借りようと思った本は予想以上に重く、関係箇所をコピーにとどめた。これで一本記事が書けるはずなので、次回久しぶりに貞国のジャンルで書いてみたい。外へ出て、前から気になっている天光堂という和菓子屋の前に店員さんが椅子を出して座っている。なんとなく入りにくい店だったので、この機会に寄ってみた。丁寧に説明していただいたのにバラで3つしか買わなくて申し訳なかった。水曜金曜の14時までやってますと聞いて、ここはお店ではなく工場であることに気づいた。曜日限定の工場直販だったようだ。普段は入りにくいはずだ。



そのあと、もう一つの事件。帰りの芸備線に乗っていたら携帯がブルブル震えた。家との連絡用に通話のみのガラケーを持ってはいるけれど、携帯から家にかける事がほとんどで、かかってくることはめったに無い。悪い知らせかもしれないと思って車内ではあるけれど通話ボタンを押した。そしたら病棟からであったが、若い看護師さんの「小林さんの携帯でよろしかったですかぁ」と呑気に語尾を上げた口調から、急変では無いとわかった。用件は、紙おむつを使いたいからプランに加入してくれというものだった。体を起こすのも難儀だから、ポータブル便器に座らせるのも大変ということだろうか。是非もないことで、明日申込書を書くと答えて電話を切った。チューブが近々抜けそうという以外はあまり良い話のなかった昨日今日であった。



小康状態

2021-04-17 10:30:45 | 父の闘病
(父の入院の話の続き、4月13日のできごとです)

前回から中三日、13日は私が県病院に行くことになった。父がしんどい時にできるだけ行きたいと母は言う。母も85歳であるからあまり無理をしてほしくないのだけれど、コロナの感染者数は広島でも徐々に増加していて、いつまで面会できるかわからない。母の希望をいれて、この三日間は母が二日、弟が一日様子を見に行った。前回私には父は相当弱っているように見えた。ところが母と弟は、そんなことは無い、結構元気だったと言う。兄貴は悲観的過ぎると弟は言い、母と弟は自分の見たいものしか見ていないと私は思う。これはまあ、足して2で割ったぐらいが正しいのかもしれない。

4日前と同じ時間のバスだったが、雨で大学病院入口のあたりから渋滞、次の出汐1丁目でたくさん降りた。歩ける人は大学病院まで歩いた方が早いということだろうか。県病院着は10分以上遅れた。

父は確かに4日前よりは元気そうに見えた。ボードに「食事を半分食べた」と書いた。4日前はちょっと手を付けただけだったから、食べられるようになったと伝えたかったのだろう。チューブから出た胸水も少なくなっていて、本人はもうすぐチューブが抜けて退院できると思っているのかもしれないが、そう簡単にはいかないだろう。いや、母や弟は違うと言うかもしれないが。退屈しているだろうと週刊誌を差し入れたが父はあまり興味を示さず、「タオルがようけ要る」と書いた。わかったと答える。前回は先生の説明、昼食、レントゲン撮影と行事が続いてけっこう長く病室にいたけれど、今日は何もないから15分程度と決まっている面会時間を守りたいと思う。そのことを父にも言って病室を離れた。

デイルームの横の、携帯電話はここでお使いくださいと書かれたボードのところで母に報告していたら、ナースステーションから患者支援のMさんが近づいてくるのが見えて慌てて電話を終わらせる。昨日、ケアマネさんに連絡を取っていただいたようだ。まずは父の食事の話で、家でもたんぱく質が取れないことを話す。父はミンチ料理とか豆腐みたいなものが嫌いで、肉や魚の原型を留めたものを食べていたが、嚙む力も衰えて難しくなってきた。卵料理もあまり好きではないし、処方されている栄養補助飲料にもたんぱく質は入っていない(入ったものは甘くて飲めないと父が嫌がった)。納豆は少し食べる。Mさんからは、今はたんぱく質の入った補助剤も出ている事、豆乳をうまく使う事などを提案してもらった。Mさんは母が胃ろうを嫌がっていることを覚えていた。あるいはMさんがいつも持ち歩いているノートPCにメモが残っていたのかもしれない。母の主張は多分にデマを含んでいると考えられるのでここには書けないが、とにかく胃ろうはいけないと2年前Mさんにも力説したようだ。

次に、前回相談した足が弱っていることについて。チューブがとれるまでベッドを離れられない状態だから、退院時には歩けなくなっていることも十分考えられる。転院してリハビリして帰ったらどうかという提案だった。2年前の転院には良い思い出が無いので父は嫌がるだろうと言っておいた。しかし、この時点でこういう話を聞けたのはありがたいことで、楽観論の母や弟にも頭の片隅に入れておいてほしい事だった。実際、10日後にはこの方向で動き出すことになる。

それから、ケアマネさんから父がまだ運転して通院していることを聞いて、Mさん「運転するなって言ったのに」と怒っていた。首を傾けて「運転」の二文字を忌まわしいことのように低いトーンで区切って言ってプンプン怒っている様子もまた素敵で・・・いや、これは私が言っても聞かないから、2年前の退院の日に私がMさんに頼んで運転しないように言ってもらったのだった。良い作戦だと思ったのだが、父は私のようにMさんにメロメロではないから効き目がなかった。父が退院してから2年の間にも大勢の患者さんを担当されてきたはずだが、他にこんなことを頼む人はいないのかMさんはっきりと覚えていた。それで私のことも覚えていて下さったのだから、あながち作戦失敗とはいえない。

またお話を聞いてもらったことのお礼をMさんに言って、「いいえ」と抑揚をつけた返事にまたドキドキしながら外へ出ると小雨模様。前回は苦しそうな父の様子にどんよりしながら帰ったのだけど、今日は父も少し元気そうだったし順番が病室のあとでMさんだったから気分が違う。雨だと花粉フリーでもあるし、図書館まで歩くことにした。途中、附属学校電停近くのつけ麺屋で昼食にした。病院に行くバスから眺めて気になっていたお店だ。広島つけ麺というのは私が子供の頃には無かったもので、実は一度も食べたことがなく、つけ麺というとハウスのつけ麺(袋ラーメン)しか知らない。一度食べてみることにした。小さなアクリル板で仕切られたカウンターに座って、定番つけ麺というのを頼んだ。辛さを選べと言われたが、見当がつかない。最初なら4にしときますかと店員さんに言われて、30段階の4番目、あまり辛くない方を選んだ。





正直にいえば、あまり旨味を感じなかった。もっと辛くするか、カツオつけ麺というのがあったからそちらにした方が良かったのか、ベストの選択ではなかったようだ。再チャレンジするかどうかは、気が向いたら、ということにしておこう。

そのあと歩いて御幸橋を渡る。お天気は悪いけれど、河口方向を一枚。




渡り切ったところにある原爆の説明板にあったのは教科書などで何度も見たことがある広島市民にはおなじみの写真だ。




県立図書館では閲覧室での滞在時間を短くするようにとの注意書きがあり、素早く一冊借りて帰った。これについては別の記事に書いてみたい。そのあと広電本社前電停から横川経由で帰宅した。

この日まで父は順調に回復しているように見えたのだけど、翌14日の朝、主治医である呼吸器内科の先生から電話があり、13日夕刻から38℃の熱が出て採血したら炎症の値が高く、抗生剤を点滴投与しているという。また、胸水を検査に出したところ、まだ確定ではないが癌細胞らしきものが見つかったとのことで、ついては造影剤CT検査をしたいから同意書にサインしてほしいと。先生は、父とは意思疎通がしにくいとおっしゃる。父は耳が遠くて声も出ないから、確かに会話には時間がかかる。しかしまだ判断力を無くしてはいないから時間をかければできると思うのだけど、今コロナ病棟のある病院の呼吸器の先生は大変だから、これは仕方ないのだろう。バイタル的には落ち着いていると言われたが、高熱はしばらく続いて、家族の緊張は再び高まった。13日まで、つかの間の小康状態であった。