阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

転院調整

2021-04-28 20:04:13 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月20,21日のできごとです)

20日は弟が病院に行き、その時間私は銀行の用事を済ませた。帰って来るなり母が大変だと言うから驚いたが、父の具合が急変した訳ではなかった。弟からの速報で、明日からは面会禁止(実は20日付で面会禁止のリリースが出たのだが、この日は許してもらったようだ)、父は尿が出ず管を膀胱まで通して尿を出す「導尿」を数時間おきに看護師さんにやってもらってること、そして先生から話がしたいと言われて面会したところ、急性期の治療は終わったから23日の採血の結果が良ければ退院となる。しかし、歩けないし尿も出ないからリハビリ病院に転院したらどうかという提案だった。弟は家族と相談すると答えて既に病院を出たとのことだった。

前にも書いたように、一週間ベッドから離れられない間に歩けなくなってしまう事、感染者が増えて来ていたから面会禁止になってしまうこと、この二つは予想できていた。また、急性期の治療が終わったから転院と言われることはチューブが抜けた時点であり得ると思っていたし、患者支援のMさんの話にも出てきた。しかしそれが一気に来た上に、導尿が必要という新しい問題も加わって、頭の整理がつかない。導尿をネットで検索すると自己導尿といって患者本人がやる場合もあるようだ。しかし87歳の父にできるのか、家族がやることは可能なのか。弟が行った時に病室に来た看護師さんは、2、3回見てもらえばできると言ったそうだ。もっともこれは県病院の看護師さんは優秀であるからであって、実際はそう簡単ではないことが後でわかってくる。

転院となると本人の意向を確認して納得してもらわないといけない。2年前の転院では、転院先の病院に耳鼻科がなく、主治医の呼吸器内科の先生は「耳鼻科のことはわからん」と気管切開のカニューレに触ろうともせず、父と折り合いが悪かった。今回もざっと調べたところリハビリ病院で泌尿器科があるところは近場には無いように思われる。そのあたりのことを父と話したい。しかし面会禁止で父とは会えない。2年前は病室にレンタルの家庭用吸引器を持ち込んで看護師さんから吸痰を習った。けれども今回は病室に入れないのだから導尿を看護師さんから習うことはできない。退院か転院かという二択は、今の父の状態からすると転院しかないのだろう。それなら転院に向けて、父の意向を確認するプロセスはまず重要である。また、転院後の見通し、すなわち排尿障害の治療はできるのか、改善しない場合にどう自宅退院につなげるのか、この二点についてはっきりさせたいというのが一晩考えた結論だった。

翌21日、起床してPCあけてメールをチェックする手が思わず止まる。がんで闘病中のS子さんからのメールの一行目、本人ではなく娘さんが書いたもので、続きを読まなくても悪い知らせだとわかった。S子さんとは二十年来のサッカー仲間で、私が試合の時に出す横断幕を何枚も作ってくれた。サポーターというのは応援する人だけど、そのサポーターである私の背中を何度も押してくれたのがS子さんだった。このブログにもサッカーの記事で何度かその活躍ぶりを書いたことがある。一年前にがんがわかって、その後の闘病の力になれなかったことが悔やまれてならない。五十歳になったと聞いたのは最近のことだったのに。私というのは、いざという時に役に立つ男とはいえないようだ。「母と仲よくしてくださり、ありがとうございました」というメールの末文を見て、しばらく動けなかった。

今日は一日中S子さんの事を考えていたいのだけど、父の転院の話も解決しないといけない。9時になるのを待って病棟に電話をかけた。まず無理を承知で、父の意向を確認させてほしいと頼んでみた。看護師さんの答えは、今は面会できないとしか言えないと、これはルールだから仕方ない。そうなると、ここはやはりMさんを頼りたいと思う。Mさんに相談したいから電話をもらうように頼んだ。

そしたらすぐに電話が鳴ったが、Mさんではなくて呼吸器内科の主治医の先生からだった。昨日弟に説明されたことをもう一度私にも話して下さった。排尿障害については前から飲んでいる前立腺肥大の薬を増量して様子を見ていること、膿胸は落ち着いて来たから抗生剤の点滴を飲み薬に切り替えるというのが新しい情報だった。そして父は何を言っても「おしっこが出ない」としか書かないと。そればかり気になるのか先生の言う事が聞こえてないのか、先生も困っていらっしゃる様子だった。そのあと私が知りたかった転院後の見通しの話があった。今は面会禁止で県病院の看護師が導尿を家族に指導することはできない。転院先ではそのチャンスがあるかもしれない。排尿障害が改善しない場合は、転院先から泌尿器科のある病院に通えるようにお願いしておく、とのことだった。その上で、転院調整を依頼しても良いかと聞かれた。今の時点では自宅退院という選択肢は無いのだから、お願いしますと答えた。先生はこの泌尿器科への通院について転院先にしっかり伝えて下さっていた。ありがたいことだった。これで2年前のようなトラブルは回避できそうだ。そうなると、あとは本人が転院に納得してくれるかどうかが重要だ。

Mさんからの電話はお昼ごろだった。まず父に会って話していたから電話が遅れたと言われた。そして、転院については本人もそれで良いと書いたそうだ。おしっこが出たら家に帰りたい、とも書いたそうだ。これで前に進める。Mさんにお願いしたのは正解だった。父に会って意向を確認してくれと頼むつもりであったが、頼む前にやって下さった。Mさんは「お父様は何でも自分で決めて来られたから」と言った。これは2年前の事がMさんのPCに残っていたのだろうが、ここがまさに重要なプロセスであって、さすがプロの仕事だった。Mさんは他にも、あまり食べようとしない理由とか、色々聞いてくださった。2年前のように鼻から栄養入れるかと聞いたら、父は嫌そうな顔をしたそうだ。

そしてMさんは今後の見通しについて、本人または家族が導尿をやるのは難しいのではないかと言われた。二、三回見ればできると弟が看護師さんから聞いて来たと言ったら笑っていた。尿道を傷つけたり、感染症のリスクがあるようで、慣れが必要だと言われた。排尿障害が改善されない場合はカテーテルを入れたままにする留置バルーンになるかもしれないと言われた。これは上記主治医の説明には出てこなかった用語だ。管がついたままの退院は父はもちろん嫌がるだろう。しかしこれまでも、Mさんから聞いた話はあとで生きてきた。前立腺肥大症の薬が効いて尿が出るようになるのが一番だけど、Mさんが泌尿器科の先生に聞いた話では、尿が出ない原因は不明だという。これも病院では泌尿器科の先生には会えなかったから貴重な情報だった。すると改善の見込みもあまり期待できないかもしれない。留置バルーンでの退院も頭に入れておかなければならないと思った。

転院となると、患者支援でも転院担当の方にお願いすることになって、Mさんにお世話になるのはここまでということになる。うちは父しか運転しない事をMさんご存知だから、バス1本で行けるO病院をあげて下さったのもありがたいことだった。Mさんは5月から外来に異動になるとおっしゃっていた。父の場合は難しい手術はもう無理だろうから県病院に入院はこれが最後かもしれないが、事情をよく分かって下さっているMさんが病棟にいらっしゃらないのは残念なことだ。2年前から三度の入院で大病院にもかかわらず細かい事まで道筋を示していただいて、しかも今回は面会禁止で思うように情報が得られない中で知りたいことを教えてくださったのは本当にありがたいことだった。電話では不十分だったから、また改めてお礼を言いたいと思った。

翌22日、転院担当のKさんから電話があって、O病院にお願いしてみて、またダメだったら他を考えるとのことだった。そして23日の午後、まず先生から電話があった。O病院に転院するにあたって、延命治療の方針について先方に伝えなければならないとのことだった。延命治療は望まないつもりであった。しかし話を聞いてみると、延命治療の定義が、私が考えていたのとは違っていた。延命治療というと、回復改善が期待できなくても生命だけを維持する治療だと思っていた。しかし今回の説明では、父のような高齢者で基礎疾患がある者が人工呼吸器を使うことが延命治療という文脈だった。転院先で容体が急変しても人工呼吸器は使わないという同意を求められた、と私は理解した。しかし、母は、父の様子がわからないことで精神状態が少し良くないこともあって、延命治療という言葉を受け付けず、首を縦に振らなかった。私も、父の容体が急変したら即延命治療というのは違和感があった。それで、回復の可能性があれば治療はしてほしいと伝えた上で、それだと転院に支障が出るのか聞いてみた。この問いは意外だったのか先生は転院担当に聞いてみると言われた。すぐに電話があって、その線で転院を進めると言われた。電話を切ったらすぐに転院担当Kさんから電話があって、転院は27日11時O病院着と伝えられた。延命治療について記入する欄があったのだろうぐらいにこの時は考えていた。しかし、O病院の先生から、27日再びこの話を聞くことになる。

O病院は昔は老人病院みたいな印象で近所の方でもO病院で息を引き取った知り合いは何人かいらっしゃる。しかし、最近はそうではないと聞いている。もちろん行ってみないとわからないが、とにかく転院が決まったのを前向きに捉えるしかない。




排尿障害

2021-04-28 20:02:37 | 父の闘病
(父の入院の続き、4月19日のできごとです)

19日は私が病院に行く番、前回から中二日ということになる。いつもと同じ11時過ぎに病棟に着いて父の病室に入るとちょうど看護師さんが来ていて、まずは熱のことを聞いたら、高熱ではないが上がったり下がったり、でもかなり落ち着いて来たとのことで、今日からリハビリをやってもらう。それから尿の出が悪いから今日泌尿器科を予約して受診することになっているとのことだった。熱が落ち着いてリハビリも始まると聞いて嬉しかった。そのせいもあって、おしっこの事はそんなに大変な事だとは思っていなかった。父は「苦しいのにリハビリしてどうするんじゃ」とボードに書いた。まだ、息苦しさや肋骨脇腹の傷みを感じるようだった。しかし、文句を言うようになっただけ回復していると考えることにしよう。ともかく自宅退院のためには、少しでも歩けるようになってほしい。最初はベッドの上での運動だからと看護師さんにも言われてた。

ひとつ父に言っておかなければならない事があって、それは広島でもコロナが増えて来たから、いつ面会禁止になってもおかしくない状況であること、近々会えなくなるかもしれんよと言っておいた。そしたら父は、「タオルがようけ要る」と前と全く同じ事を書いた。

父の足が入院中に弱って歩けなくなってしまうことは私にも予想がついていて、入院の翌日には患者支援のMさんに相談してある。面会禁止も頭の中にあり、実際翌20日付で面会禁止となった。しかしこの後、想定外の事が次々に起きて私の頭脳では対処できなくなってしまう。それは次回に譲るとして、ともかく今日の所は熱も下がって父が元気そうに見えたから、すっきりした気持ちで病院をあとにした。

今日は月曜で図書館はお休み、横川へ出て昼食はランメンギョウザセット。3日前は精神的に落ち込んでいてラーメンセットに苦戦したけれど、今日はいつものペースで腹におさまった。



ランメンはごらんのように黄色い麺で(麺を引っ張り出して写真を撮ったもので食べかけではありません)、ランメンは卵麺のことだと思われる。子供の頃は国道54号線沿いの祇園のあたりだろうか、新幹線の形をした店舗があって、食べたことは無かったが祖父の家に行く時など車内からいつも眺めていた。中学高校時代はバスセンターのお店に何度も行った。その頃は焼肉屋のわかめスープの中に黄色い麵が入ったような感じの塩ランメンが基本であった。胡椒をたくさんかけるとうまかった。麺は今より細かったかな。ランメンにまつわる高校時代の青春の思い出は、改めて書くことにしよう。

そのあと大学からの十年間を京都で過ごして再び広島に戻ってきたら、センター街のランメンは250円の低価格で餃子を頼んでもワンコイン、これもよくお世話になった。しかし味は十代の頃とは変わっていて、広島ではスタンダードなとんこつ醤油がベース。したがってランメンと厨房に通したら昔は塩ランメンだったのが醤油ランメンに変わっていた。麺は少し太くなったが、昔の黄色い感じは薄れたように記憶している。

このセンター街のお店は野球がマツダスタジアムに移る頃に閉めてしまって、そのあと西原にお店ができて何度か行った。しかしこれも閉店となって、ここ数年はランメンを食べられなかったが、今年になって横川の「餃子家 龍」という餃子居酒屋のランチメニューとして復活した。元々ランメンのお店は餃子の皮を作っている老舗食品会社の経営だ。今日は5年ぶりぐらいだろうか、久しぶりのランメンだった。スープは250円時代と同じとんこつ醤油、麺の黄色さは昔のように強くなったと感じた。麺とスープは変わってしまったけれど、私にとって青春の味であることに変わりはない。

話が大きくそれてしまった。とにかくこの日は、父の熱が落ち着いてリハビリも始まるとのことで、早期退院もあるかもしれないと希望を持って家路についた。翌日から難しい問題が次々出てくるのだけど、もちろんこの時は知るよしもなかった。


岩国の栗木軒貞国

2021-04-28 19:52:51 | 栗本軒貞国
コロナ禍につき鉄道バスを乗り継いで県立図書館に行くのは自粛していたのだけど、父が県病院に入院中に病院の帰りに二度ほど寄る機会があった。しかし閲覧室での滞在時間を短くとの注意書きもあり、じっくり調べ物という訳にもいかない。岩国の栗木軒貞国について、書籍検索で出てきた二つの書物を確認するに留めた。私が今まで調べて来た広島の貞国は栗本軒、一文字違いのそっくりさんの登場である。

貞国のことを書くのは久しぶりであるから、貞国の名前について簡単におさらいしておこう。広島の貞国は商売の屋号は苫屋弥三兵衛といい、広島城下の水主町で苫の商いをしていたという。狂歌においては桃縁斎芥河貞佐の門下で、貞佐晩年の一門の歌集には葵という名前で入集している。天明九年までには柳門の貞の字を許され福井貞国を名乗る。したがって貞国は狂歌における号であり「ていこく」と音読みすると思われる。本名はわからない。寛政期までは柳縁斎貞国、寛政八年までには堂上歌人の芝山持豊卿より軒号をたまわり栗本軒貞国となる。また掛軸等の印を読むと「福井道化」という号もあったことがわかっている。そして複数の史料から天保四年(1833)に没したと思われる。

これをふまえて、今度は岩国の栗木軒貞国について、「岩国郷土誌稿」から「岩国の狂歌」の一部を引用してみよう。

中にも栗木軒貞国はその優なる者で岩国地方の泰斗とまで称せられ同地方にては雅号に栗の字、貞の字を附するものゝ多いのはこの人の狂歌名の何れかを授つたものといわれる。
 その出身地は不明なれども愛宕牛野谷に住み同地で歿したと称せられる。この人単に狂歌ばかりではなく茶道、華道、築園何れにも達しわけて華道では雅号を松花斎福井である。道化と称し源氏流で天保の頃の人である。

狂歌の号も本が木になっただけの違いであるが、他にも福井、道化も共通している。これをどう考えるのか。広島の貞国の弟子とは考えにくいネーミングではある。広島の貞国は大野村の狂歌連中の師匠も務めていて、大野と岩国はそう遠くないから接点があったのかどうか、今のところ手がかりは見つけられない。引用箇所の前段には栗木軒貞風という明治の人も出てくる。また、引用のあとの記述で玖珂の栗陰軒貞六の「柳門第四世」を川柳が得意と書いてあるのは誤解で、狂歌で柳門といえば由縁斎貞柳の門下である。図書館の司書さんはまず通史を読みなさいとおっしゃるのだけれど、幅広く書いてあるので狂歌のようなマイナーな項目では誤りも散見される。これは仕方のないことだろう。それにしても、貞六は広島の貞国の後をつぐ柳門四世を名乗っていた訳で、岩国の貞国は普通に考えると目障りな存在だったはずだが、玖珂と岩国でトラブルにはならなかったのだろうか。

次に「由宇町史」から豊川屋敷の項目の冒頭を引用。

豊川屋敷
三国屋旅館に現存する庭園は、天保七年(一八三六)のころ、岩国の人で花道・茶道・狂歌の宗匠栗木軒貞国という者によって築造されたものと伝えられており、ついで藩主の旅舎に充てるため建てられた三重楼とともに、豊川氏の全盛時代を物語るもので、泉石・用材は善美を尽くしたものであったというが、建物は明治になって解体され、今は庭園ばかりがその名残をとどめている。

とあって、天保七年は広島の貞国の没後である。そして検索してもこの庭園はネットには出てこない。三国屋旅館は鈴木三重吉も滞在した宿のようだが、現存しないのだろうか。

どうやら岩国、玖珂、由宇に行って図書館や歴史資料館みたいな所を訪ねてみないと先には進めないようだ。まだ、どんな狂歌を詠んだのかもわからない。ワクチン接種を終えたら、一度行ってみたいものだ。来年のことかもしれないけれど。