栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は雑の部から一首、
城西甲斐村さいか谷のほとりを通りけるに
死刑の者を捨る処なりけれは
命かけの勝負と山を打みれは気もすころくのさいか谷かな
まずは、「城西甲斐村さいか谷」とはどこだろうか。甲斐村で検索すると、伊勢亀山藩の鈴鹿郡にかつて甲斐村が存在したようだ。しかし、単に「城西」とあるからには貞国のなじみの土地、この城は広島城と考えるのが自然だろう。すると、城西にあるのは甲斐村ではなく己斐村だろうか。ところが己斐村の古地図を見ても、さいか谷は見つからない。しばらく放置していたのだけど、先日「廣島軍津浦輪物語」に、己斐の音楽学校の隣の山が新山で、その北の谷が才ケ谷という記述を見つけた。漢字がわかったら地図から探すのは簡単で、己斐橋の少し上流、ノートルダム清心中学校・高等学校の西隣の谷筋が才ケ谷だった。死刑の者を捨てる所という先入観から、人里離れた山奥ばかり探していたのが敗因だったようで、実際は太田川に近い場所だった。広島市のホームページの己斐の歴史めぐりにあるパンフレット(pdfファイル)にも、大正、昭和、平成の地図それぞれに才ケ谷がのっている。平成の地図だと清心の校舎の真上に才ケ谷の文字があるように見える。芸藩通志など江戸時代の地図に無いのは、積極的に書くべき地名ではなかったのか、一種のタブーということもあったのだろうか。
己斐が甲斐になっていたことについても考えておこう。秋長夜話には、
「己斐村は峡(カヒ)村なるへし、峡は山間なり、此地両山の間にはさまる故にかく名つくるなるへし、甲斐国も峡国なり」
しかしこれは推測の域を出ず、実際に己斐を峡と呼んだ例は見つけられない。甲斐村になってしまったのは狂歌家の風を出版するときに版元などが間違えたか、あるいは場所の性格上わざと違う村名にしたということもあるのだろうか。
才ケ谷の漢字がわかったところで検索してみると、「切支丹風土記 近畿・中国編」の中にあるHubert Cieslik著「芸備の切支丹」に記述があった。
「古老の伝によれば、己斐の才ヶ谷(国道己斐橋をわたり、川と鉄道線路に沿ってある小路を数町行った己斐山の麓)でその昔キリスト教徒が焚殺されたという。」
驚いたことに、これによると谷を分け入ったところではなく、川沿いの平地である。この場所には今はキリシタン殉教之碑が建てられていて、その説明板には、
「附近に刑場のあつたこの地に碑石を建立する」
とある。この己斐の刑場は文献にあまり登場せず、河原にあったという刑場も含めて才ケ谷と呼んだのかどうか、はっきりしない。上記「芸備の切支丹」を読むと、福島正則公も浅野公も幕命によりやむを得ず弾圧という側面があったようだ。また、築城からそれほど年月を経ていない広島城下に他国から集まって来た人々の中に改宗者が多く、元々の広島の住人に改宗者は少なかったとある。それは広島城下には色々な宗派のお寺があるけれど、一歩離れると浄土真宗安芸門徒一色という土地柄からも容易に想像できる。ちょうど四百年前の1619年、浅野公につき従って紀州からやって来た人々、また福島正則の家臣で浅野家に召し抱えられた武士の中にもキリシタンへの改宗者がいたと思われる。芸藩にとっても、才ケ谷はあまり触れたくない歴史だったのかもしれない。
さて、ここで貞国の歌を見てみよう。貞国の時代には、広島のキリシタンはすでに根絶ということになっていたと思われる。しかしこのような悲しい歴史があり、刑場があり、谷に死刑の者を捨てたという場所、そこで詠む歌としては「命がけの勝負」とか「すごろくのさい」とか、現代なら炎上しそうな歌だ。死刑は死を免れない運命なのに「命かけの勝負」という感覚もよくわからない。江戸時代への違和感といえば、近松の「堀川波鼓」、江戸番の間に不義密通のあった妻を刺し殺し、公儀に敵討ちの届け出をしてから見事相手の男を討ち果たす、というお話を若い頃に読んで何じゃこりゃあと憤った事を思い出した。今調べたら女敵討ちといって、もし放置するならば武士の面目が立たないと書いてあるけれども、それでもこのお話をすんなりと受け入れて鑑賞する心情にはなれない。話を貞国の歌に戻すと、この才ケ谷をすごろくの賽の目と詠み飛ばすところが狂歌の狂歌たる所以なのだろうとは思う。また、「山を打みれば」というからには、上記殉教碑があるところからは近すぎて、川の上の舟か、あるいは対岸から眺めたのだろうかと考えて、己斐橋歩道橋を渡り切った東詰から写真を撮ってみた。
死刑の者を捨てた場所はさすがに女子高を越えて谷筋を登ったところではないかと想像するけれど、あるいはこれも現代人の感覚であって、刑場の近くの竹やぶにでも捨てていて貞国もその場所に立ってこの歌を詠んだということもあり得るのだろうか。どうもこの手の話は怖がりの私には向いてないようだ。せっかくそこまで行ったのなら谷筋を歩いてみればいいのにと言われても、まっぴらご免である。
江戸時代の刑罰施設というページに、各地の刑場について詳述してある。その中に、
「さて、残る一つの重罪人の処刑が執行された己斐村の処刑場であるが、竹ヶ鼻や樽ヶ鼻のような詳しい記録やレポートが入手できていない。」
とある。すると貞国の歌は、狂歌であるからこそ、当時はタブーであった可能性もある才ケ谷を正面から詠むことができたとも言える。この詞書と歌は、案外史料としても貴重なのかもしれない。