阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

丸派とのかかわり

2020-03-02 15:26:06 | 栗本軒貞国
 「狂歌」で書籍検索して出てきた本をざっと目を通していたところ、「京攝狂歌師名簿」に、柳縁斎貞卯の名前を見つけた。貞卯については先日広島市立中央図書館のスクラップブックの記事でその存在を知ったのだけれど、文献で名前を見たのは初めてだった。「京攝狂歌師名簿」は都花園御代丸の原稿を書写したもので、名簿は玉雲斎貞右(混沌軒国丸=丸派の祖)を筆頭に丸派を重視した構成になっている。名簿のあと、巻末の附録、浪花都鳥社年表に貞卯の記述があった。

一、明治三十四年
  九月、御代丸著の「狂歌獨稽古」上中下三巻及「丸派系譜」を発
  刊す。廣島の柳縁齋貞卯立机、我社これを補助す。


立机(りっき、又はりゅうき、りゅうぎ)をネットで引くと、「宗匠立机ともいう。俳諧の宗匠となること。 」とあり、書籍検索でも「立机を披露した」のような用例が出てくる。この年表中でも宗匠という呼称を用い、また「三名立机して別に桃園者を創設す」という用例があり、師匠として独立、みたいなニュアンスだろうか。そしてそれを我社すなわち都鳥社が補助したとある。しかしここで問題なのは、上述の記事によると貞卯は明治32年没となっていて、没後に立机の披露というのは考えにくい。記事と年表の年代がどちらも正しいとすれば、明治32年に没した貞卯の後継として、またすぐに貞卯を名乗った人がいたということだろうか。いや、年代がどちらか少し間違っていたと考えるのは、記事に出てきた貞卯の立机にしては遅すぎる。別人と考えるのが妥当だろうか。

ここで注目されるのは、丸派の流れをくむ御代丸と広島の柳門との交流である。栗本軒貞国の時代に他派との交流があったかどうか、私はまだ見つけられていない。その前、「狂歌桃のなかれ」には京都の二松庵万英、大坂では紫笛、試枝、また鉄丸という丸派と思われる名前もある。もしかすると、上方との交流も細々と続いていたのかもしれない。貞国の辞世狂歌碑を京都の門人360人が建てたという尚古の記述は今のところ信じがたいものであるけれど、これも丸派などから志が寄せられた可能性はあるのかもしれない。なお、辞世狂歌碑が建てられた時期は不明であるが、歌碑背面に「筆史 長尾惟孝」 とある人物は文政十年の厳島神社の算額にも名前が見えることから、天保四年の貞国の没後それほど時期をおかずに建てられたと思われる。

 ここで丸派(がんぱ)について簡単に書いておこう。ネットで丸派を引くと、「天明年中(1781‐89)には門人1500人を擁し,永田貞柳没後の大坂狂歌界を栗柯亭木端(りつかていぼくたん)の栗派と二分した。 」と出てくる。

 栗派の木端は自ら柳門二世を名乗っている。同じ貞柳の高弟の芥川貞佐が自ら柳門二世を名乗ったかどうか、私はまだ貞佐が柳門二世と署名した文書を見ていない。貞佐は諸芸に通じた天才肌で、狂歌も着眼点が独特で鬼才、奇人の類であって、あまり肩書には執着しなかったのかもしれない。その貞佐の広島における後継者の栗本軒貞国は柳門正統第三世と署名した文書を残している。一方、同じ貞佐の弟子でも丸派の祖の貞右は、柳門三世とは名乗っていないようである。寛政二年(1790) 刊、「狂歌玉雲集」の序文には、

「それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」 

とある。玉雲翁とは、貞柳の師の信海のことで、貞柳の門人の狂歌のことを玉雲流と呼んでいる。落首を詠むと和歌三神の御神罰を蒙ると書かれている誓約書の冒頭には「玉雲流狂歌誓約」とある(大野町誌、五日市町誌)。丸派の貞右は、この序文で玉雲流の四世を宣言していると思われる。柳門という言葉を使わなかったのは、木端への遠慮なのか、柳門であれば木端は二世なのに貞右は三世となるからか、「やんことなきおほん方より」 玉雲斎の号をいただいたことにより、こっちで行こうと思ったのか。貞国の「狂歌家の風」の序文でも先師貞佐とのかかわりよりも栗本軒という号を得たことに重点を置いて書いているから、貞右も玉雲斎の号を得たことが重要だったのかもしれない。

次に、貞国が柳門伝統の「貞」の一字を弟子に許可した「ゆるしふみ」を見ていただこう。これは五日市町誌に写真があったものを、改行などをできるだけ忠実に写してみたものだ。 





ここで貞国は「先師桃翁にかはり奉りて」、貞の字を許すと書いている。前述の玉雲流狂歌誓約でも、「栗本軒福井貞国 尊師」の前に、「桃縁斎芥川貞佐翁 尊霊前」とあり、このような文書には貞佐の名が必要だったことがわかる。また「狂歌桃のなかれ」の跋文には、

  星流舎先生狂歌をこのみ近里
  遠郷の風人より消息の端に
  かいつけ来ぬる歌及ひ社中の
  詠をあつめ壱冊となし桃の流れと
  名つけけるもりうもんをこひし
  ふことのなれは宜なりけらし

とあって、柳門を恋い慕って「桃の流れ」と名づけたとある。桃縁斎貞佐イコール柳門であって、貞佐没後の寛政年間、桃のなかれの時代においては、芸備の柳門は失われてしまったようにも読み取れる書き方である。狂歌桃のなかれの中で貞国は「芸陽柳縁斎師」として登場するけれども、広島地区の師匠に過ぎず、貞佐の後継者という位置づけでは無いように思われ、貞国が柳門三世を名乗るのは栗本軒の号を得て狂歌家の風を出版した後のことではないかと考えられる。そして、貞国の門下で柳門四世を名乗ったのは、広島の梅縁斎貞風と周防の栗陰軒貞六の二人で、このあたりのいきさつもよくわかっていない。もともと貞柳の時代から、後継を指名して一人が継ぐというシステムではなかったのかもしれない。

話がそれてしまったけれど、今回の貞卯の記述を見つけたことにより、貞卯に同名の後継者がいた可能性があることがわかった。また貞国一門と丸派の交流も探っていく必要があるのだろう。そして、貞国についても、まだどこかに何か書いてある可能性はあるということだろう。探し続けていきたい。




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