今日は8月20日。安佐北区安佐南区で77人の方が亡くなられた土砂災害から4年ということになる。もし、この災害がなかったとしたら、阿武山の大蛇退治や八木の伝承に興味を持つこともなかったかもしれない。災害の教訓を噛みしめつつ書き進んで行きたい。
(安佐南区八木、下八木バス停付近の可部線の踏切から阿武山を望む)
今回は八木の伝承や陰徳太平記に見られる大蛇退治と土石流の関連を考えてみる。前々回も書いたが、災害直後の谷筋に土砂がたまった阿武山の姿をみると、蛇が落ちるという表現はそのものズバリに思えて、蛇落地の三文字を見た時はこれは土石流だと思った。ところが調べて行くうちに蛇落地を戦国時代まで遡るのは難しく、あとで上楽地あるいは補陀落をもじって誰かが呼び始めたのではないかという心証が強くなった。蛇王池の集落を古くからそう呼んでいた可能性は残る。しかし、八木の伝承には土石流そのものが伝わっていない。今のところ、蛇落地をすぐに土石流に結び付けるのは難しい。
陰徳太平記の大蛇退治はどうであろうか。2015年6月12日にRCCテレビで放送された災害を特集した番組の中で、陰徳太平記の記述と土石流との関連を指摘する専門家のコメントが紹介された。もっとも積極的に肯定なのか、テレビ局の人に聞かれたからそう答えたのか判断は難しかった。もう一度その箇所を引用してみよう。大蛇を退治すべく勝雄が阿武山を登っていく場面だ。
「朧ノ春ノ月、俄カニ空掻キ曇リテ、山颪(オロ)シ烈シク吹キ落タルニ深谷隠レノ櫻花木ノ葉ト共ニハラ々々ト散乱シテ、時ナラヌ村雨一頻リ降リ来リ、巌(イハホ)崩レ岸裂(サケ)山鳴リ谷応(コタヘ)テ満山暗々然トシテ、物ノアヤメモ見モ分ズ、イト冷(スサ)マジカリケレバ、乗リタル馬モ進ミ兼、身振ヒシテ立テリケリ」
確かに雨が降って地が崩れるという描写は土石流を思わせる。しかし私は、蛇落地の時に安易に土石流と考えてしまった反省?から、ここは懐疑的であった。単に魔物が現れる前の風雲急を告げる場面にすぎないかもしれないではないかと思った。
ところが去年、2017年4月19日の中国新聞に、「大蛇伝説」土石流の証し、という見出しで、山口大の調査によると過去の土石流の地層は放射性炭素年代測定法により1450~1520年頃という記事が出た。陰徳太平記の大蛇退治は天文元年、1532年という設定であるから、その直前に土石流が発生という有力な証拠が出てきたわけだ。その調査結果がネットにあったのでリンクを張っておく。
平成 26 年 8 月広島土砂災害地域に残る土砂災害伝説と過去の被災履歴(リンクはpdfファイル)
「これらを総合すると,天文元年(1532 年)に土石流 災害が発生し,それが後に武勇伝として伝えられてい った可能性が高いと考えられる」と書いてある。また、地形について、「芸藩通志には,慶長 12 年(1607 年)の大洪水で太 田川の流路が変わったと記されているが,蛇王池伝説 に記される天文元年(1532 年)は蛇王池の碑の近くを 太田川が流れていたと考えられる」とある。これは地理が苦手な私がしばしば忘れてしまいがちなことだ。それから私はこの表の見方がよくわからない。16世紀の土石流は八木緑井地区ではなく可部東地区の測定結果と読めるのだけど、どうなんだろうか。
それはともかくとして、先祖の功績を誇張しているとはいえ仮にも歴史を綴っている書物が、百年前の土石流を蛇退治として記述する意図がよくわからない。ヤマタノオロチも水害や土石流を暗示していると言われるが、太古でなくて江戸時代初期であってもこのような災害を魔物にポンと変換できるものだろうかという疑問は残る。
その一方で、もう一度大蛇退治の書き出しに注目してみると、ここでは「天文元年ノ春、」という架空の暦で物語が始まっている。享禄から天文への改元は七月二十九日であり、天文元年に春はなかった。郷土史の記述でもこれを誤りとして大蛇退治は享禄五年と書き換えているものもある。しかしこの陰徳太平記においては、天文年間前後のことは連続的に綴られており、これは普通間違えないのではないかとも思う。もし意図的だとすると、天文元年の春という架空の日付をあえて用いる心理はどのようなものであったろうか。あるいは、多分にフィクションを含んでいるよという暗示だったかもしれない。そうであれば、土石流を蛇退治にという創作もありだろうか、いやそれでも百年前だと誤魔化せないような気もするけれど。
もうひとつ気になったのは、今見つからないのだけど、複数回の土石流の痕跡があったという別の記事も記憶に残っている。江戸時代、観音様が地上に降ろされた頃に土石流はなかったのだろうか、この地域の土石流は何年に一度ぐらいの頻度であったのか、気になるところだ。
次回は大蛇退治のもうひとつのポイント、太刀について考えてみたいと思う。