大田南畝(蜀山人)の生没年は1749~1823となっていて、一方、私が調べている栗本軒貞国は没年齢に二説あることから、1747又は1754~1833となり、どちらが年上かは確定できないが同時代人であることは間違いない。しかし二人の経歴を比べてみると、南畝は幕臣で天明期から大ブームを起こした江戸狂歌の第一人者であり、一方の貞国は町人で上方狂歌の柳門三世を名乗ってはいるが地方の一狂歌師とずいぶん差がある。私が良く行く図書館でも南畝の全集は二十巻、一方貞国の歌集は狂歌家の風が入っている近世上方狂歌叢書の一冊だけとなっている。また、南畝が天明期を代表する文化人と評されるのに対し、貞国は広島の化政文化を担ったと言われることが多く活躍した時期もずれている。もっともこれは文化史の枠に二人を当てはめた時にそう言われるだけであって、南畝は化政期の著作も多く残しており、貞国も現在私が読むことができる範囲内では、その代表作の多くは寛政期のものである。
という訳で、私がひねくれ者だからだろうか、この江戸の巨人の著作はこれまで後回しにしてきたのだけど、ネットに大田南畝の寿老人の歌の情報があり、爺様の掛け軸の解読のためにも読んでみた方が良さそうだ。貞国とは同年代であるから、時代の背景や語彙の用例でも参考になることが多いのではないかとは思う。しかし、全集を順に読んでいくのは性に合わない。目についたところから、今回はタイトルの「寸紙不遺(すんしふい)」からいくつか拾ってみたい。
この寸紙不遺は南畝のスクラップ帳のようなもので、内容も狂歌俳諧のみならず、広告、暦、社寺のお札、本の表紙、種々の刷りもの等、多岐にわたっている。南畝の著作以外も多いけれど、南畝の趣味が十分に反映されていると思う。
まず目についたのが、「藝州厳島社頭之圖」という刷り物。狂歌家の風の舌先の回で論じた場所は、「舌嵜」となっている。これは私にとっては発見であって、さっそく舌先の記事に追記しておいた。南畝は長崎奉行所の任から江戸に帰る途中、文化二年に厳島神社を参拝したと小春紀行に見える。この小春紀行には広島城下を通過した折の記述もあり、別の機会に引用してみたい。
次は歌舞伎役者のなぞかけ。これは左端に折り目があることから本の一頁を貼り付けたように見える。なぞかけの部分を書き出してみよう。
中村冨十郎とかけて
うきゑののぞきととく
心はおくぶかう見へます
嵐金妻とかけて
風くるまととく
心はあたるほとよふまはります
「うきゑののぞき」は、「のぞきからくり」とか「のぞき眼鏡」とか言われる大道芸。一例をあげておくと、絵本御伽品鏡に「のぞき」の挿絵と貞柳の歌がある。歌は、
のそきをば見るは若輩らしけれと女中の笠の内そ目がゆく
となっていて、子供が絵を覗いている場面が描かれている。話はそれるが、絵本御伽品鏡の次頁の「はみかきや」は面白そうな題材なので興味のある方は絵を見ていただきたい。歌は、
歯を磨(みがく)薬買(かふ)人多けれと心の 耵(あか)は知らぬからなり
と読める。動物はネズミの歯に替えてくれだろうか。
話を寸紙不遺に戻して、次は色と欲を天秤にかけた絵に狂歌が添えてある。これも刷り物のようだ。歌は、
色と欲持(もち)くらぶればおなしことどちらても身をほろぼすである
いろを好む心にかえて道しれる人をしたはゞ人となるべし
とある。「である」は今と同じ用法だろうか。一文字ずつ明瞭に書いてあって他に読みようがない。
最後に鸚鵡の絵に添えた文を引用してみよう。
「夫鸚鵡は南天竺新羅国の鳥也、名は海内に聞ると虽(いへとも)日本へ渡る事稀なれば其鳥を見る人なし依て今日本に壱羽の鸚鵡を乞(こひ)移て人々に見せしむるものならし、此鳥よく物まねをなす譬木魚の音うぐひすの聲からすの声がつてんがつてんおじぎなどよふにまかせまねする事実に耳目を驚かす奇々妙々の鳥也
身の尺壱尺五寸
頭にときの色あり
此鳥の因縁(いはれ)長けれは爰(こゝ)もらしぬ今日本に只一羽の鳥なれは見る人はなしのたねとなし給はらん事を乞(こひ)ねがひ候なり」
昔のオウムはガッテンガッテンを覚えさせられたようだ。これもスクラップ帳という性格からすると南畝の文章ではないのかもしれない。以上脈絡のない引用で何の意味があるんだと言われたら困るのだけど、こんな調子でやっていきたい。