阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

十月の風

2019-11-02 13:17:39 | 父の闘病
父は先月七日に県病院を退院した。民間病院への転院をはさんで半年以上の入院生活だった。二月の入院で声帯ポリープの切除、悪性であったため一ヶ月あけて三月下旬再入院、放射線治療を行ってGW明けには退院できるはずであった。初期のがんであり、放射線治療で9割治るという説明だった。ところが放射線治療の合併症で声帯に癒着が生じて五月中旬に気管切開となり、のどに装着したカニューレから痰を取ってもらう日々が続いた。そして入院90日となった6月下旬安佐南区の病院に転院、一ヶ月後に県病院に戻って声帯の癒着をレーザー切除して、経過をみて気管切開を閉じるという予定だった。

しかし県病院に戻った翌日、七月下旬の手術で声帯に新たな腫瘍が見つかり、主治医から咽頭摘出の手術を提案された。父は86歳の高齢ということもあり、がんの再発や転移のスピードは比較的遅いのではないかと思っていただけにショックだった。これ以上手術を重ねるのは酷ではないかと思い、手術せず放置したらどうなるか聞こうとしたその前に、「他に方法がないならお願いします」と父が筆談ボードに書いた。

全身麻酔の手術は今年だけで3度目、そのたびに麻酔科の先生の話は厳しさを増して、今回は脳こうそくのリスクについて父に背を向けて私だけに説明があった。八月末の手術は4時間半に及び、二週間後の検査でも食道に漏れはなく、九月中旬口から食事がとれるようになり十月七日の退院となった。

退院してまず、父は楽しみにしていたビールを口にした。しかし体が受け付けなかったようで二日でやめてしまった。食事も入院中食べたいと言っていた天ぷらや脂っこい肉料理はあまり食べない。以前は見向きもしなかった白身魚は食べるようになった。それとおかゆとひきわり納豆を少量、カロリーが足りないから栄養補助の缶も飲んでいる。

飲み食いの楽しみはなくなったように見える父ではあるけれど、もう一つの楽しみである家庭菜園には元気に立てるようになった。主治医の先生に気管孔から虫が入ったら肺炎になると言われたせいで喉をしっかりガードして、季節外れの黄砂にも気を遣いながら腰を下ろして庭を眺めている。気管切開になった時、がんが再発した時も父がもう一度野菜作りできるようにと退院に向けて気持ちを切り替えてきただけに、父が畑に出ている時間が我が家にとっては一番心が安らぐ時間と言ってもいいだろう。

しかし、庭に出るようになると、肥料や苗や種を買いに行きたいと、父は再び運転するようになってしまった。前にも「父と運転」と題して書いたように、もう運転はやめてもらいたいと思っている。今は運転していてもいつ気管孔から痰が出てくるかわからない。長い入院で体力も落ちている。私が言っても聞かないから先生、病棟の看護師さん、そして退院支援の看護師さんにも退院前に念を押してもらっていた。しかし誰が言っても聞かない。咽頭摘出は障がい者3級、吸痰など必要なことから要介護もついた。しかしそれでも父は運転をやめない。それに油断していると一人でホームセンターや農協に行ってしまう。三日前も運転のことで口論のあと、一人で筆談ボード持って運転して玉ねぎの苗を買ってきた。それ以後一人では行かせないようにしているが、一緒に乗って行くと、車庫入れ、特に屋内の駐車場みたいなところでは急に暗くなるからだろうか、危うさを感じる。言えば喧嘩になる。訪問看護ステーションの所長さんは鍵を隠せと言われるが、そしたら大暴れだろう。もはや、人を傷つけることなく駐車場での物損事故で終わりになるよう祈るしかない。

週に一度来てもらっている訪問看護の看護師さんには、気管孔のケアと洗髪をお願いしている。気管孔は喉のわりと上の方に開いていて、水が入らないように洗髪するのは我々には中々難しい。昨日も来ていただいて、その看護師さんと家庭菜園の話になって、父がふとボードに「外に出ると空気がうまい」と書いた。ハッとした。家族にはこんなことは言わない。食事は何を食べさせてもうまいと言わないのに、空気がうまいとは。父が入院していた八階の病室は温度差も埃もなく、それに比べてこのあたりは盆地で朝晩の温度差もあり、畑の砂ぼこりや虫、そして冷たい空気が直接気管孔から肺に入るのを、神経質な父はいつも心配している。それに、咽頭摘出により気管は分離されて口や鼻は食道にしかつながっていない。鼻を息が通ることはなくなって先日好物のマツタケをいただいても残念ながら香りがわからなかったという。のどの気管孔から空気を吸い込んで、空気がうまいとはいかなる感覚なのか、私には理解しにくい面もある。しかしそれでも、父が庭で幸せを感じているならば、半年間頑張った甲斐があったというものだ。これから寒くなったらどうなるか、運転の事、食事のカロリーのこと、色々不安は多いのだけど、今は私も、父がうまいと言った秋の空気を心静かに味わっていたいものだ。


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