阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(3) 大蛇退治

2018-08-16 10:30:11 | 阿武山

 前回の冒頭部分に続いて陰徳太平記の「香川勝雄(カチヲ)、大蛇ヲ斬ル事」を読み進んでみよう。重要な部分は次々回以降論じる折にまた引用する予定なので面倒ならばざっと読み飛ばしていただきたい。

 前回の大蛇がいかなるものであったかの描写に続いて、八木城主の香川光景が家臣を集めて退治を請うたが、

「仕損ジテハ香川ノ家ノ耻辱ヲ致スベキト思ヒ誰進ミ出テ退治セント云フ者コソ無リケレ」

 と誰も名乗りを上げない。この陰徳太平記は江戸初期の儒学者の記述であって、戦国初期の小豪族の家中の価値観の通りであったかどうかはわからない。天文元年という設定を信じるならば、この時期の香川光景は佐東銀山城(武田山)の武田氏の重臣であった。しかしだからと言って毛利元就と対立していたかというとそうでもなく、元就が大内氏に接近するにつれて武田氏と毛利氏の関係も悪化したということらしい。元就が離反させたとされる熊谷氏と天文二年に戦って大敗を喫したことはあったものの、光景は毛利との和を主張していた。そしてその後主戦論の武田氏家臣との対立を経て香川氏は毛利氏に従属したようだ。八木城はもちろん銀山城に近く、可部や玖村にも城があって小心者の私だったらとても安眠できない環境に思える。相当な処世術がないと生き残れなかったのかもしれない。

(安佐北区真亀、恵下山城跡から八木城跡、阿武山方面を望む。戦国時代の太田川は八木城より西を流れていて、玖村の恵下山城と八木城は地続きであったと言われている)

 

 話を進めよう。主人公の香川勝雄はこの家臣の集まりに同席しておらず、伊勢神宮からの帰途この話を聞いてそのまま光景の館に馳せ参じたという。勝雄はこの時十八歳だったというがその風貌は、

「骨太ニシテ眼(マナコ)逆サマニ裂ケ、隆準(ハナタカ)ク、口廣ク頤(オトガイ)反(ソリ)テ頬髭(ホウヒゲ)荒々ト生(オヒ)」

とその辺の若者とは全然違うようだ。光景と対面した勝雄はもちろん大蛇退治を志願する。その中で、

「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)ハ正シク當國可愛川(エノカハ)上(カミ)ニシテ大蛇ヲ斬リ給シ先例モ候」

と、さすが毛利氏吉川氏をヨイショしている書物だけあってヤマタノオロチは可愛川説を採用している。勝雄の申し出に対して光景は三尺一寸の義元の太刀を与えた。そして二月下旬の夜、勝雄は阿武山を登っていく。ここは土石流との関連が疑われる箇所であるから引用してみよう。

「朧ノ春ノ月、俄カニ空掻キ曇リテ、山颪(オロ)シ烈シク吹キ落タルニ深谷隠レノ櫻花木ノ葉ト共ニハラ々々ト散乱シテ、時ナラヌ村雨一頻リ降リ来リ、巌(イハホ)崩レ岸裂(サケ)山鳴リ谷応(コタヘ)テ満山暗々然トシテ、物ノアヤメモ見モ分ズ、イト冷(スサ)マジカリケレバ、乗リタル馬モ進ミ兼、身振ヒシテ立テリケリ」

土石流を暗示していると言えるかどうか、普通に風雲急を告げるという描写にも思える。動かぬ馬を乗り捨てて進んで行くと、大蛇は眠っていた。

「イカニ鱗蟲ナレバトテ、一言ヲモカケズ斬ランハ寐首ヲ掻クニ等シト思ヒ、」

勝雄は名乗りを上げる。ここで「鱗蟲(りんちゅう)」とは生き物を四つに分けた時の魚と爬虫類の総称で、その属性は水であって土ではない。もし災害と蛇を結びつけるのではあれば、まずは水害だろうと思う。話を戻すと、勝雄は大蛇に火焔を吐かれながらも首を切り落とす。

「彼首始メニ落タル處ヲハ太刀ノブト云フ、?ニ飛ビ入リタル處ヲハ蛇王子ト號シテ今ニ至テ淵ヲナス、勝雄ガ太刀ヲ洗ヒシ池ヲハ太刀ノブ川トソ名付ケル」

ここで三つの地名が誕生して、三つ目が池なのに太刀ノブ川と言うのが気になる。蛇を倒して太刀を洗いその太刀が大きな力を持つというのは重要な所であって、川でなければならない理由があるのか、あるいは他所から持ってきた話を当てはめた名残と言えるかもしれない。続いて、太刀の奉納。

「彼ノ太刀ヲハ素戔嗚尊ノ鹿正(マサ)ニ斉シトテ所ノ八幡ニ奉納セリ」

そして、勝雄が大蛇の毒で両目を患ったこと、永禄十二年作州高田合戦で戦死したことが最後に記されている。今回は物語を読むに留め、次回は八木地区に伝わる伝承について書いたのちに次々回以降論じてみたいと思う。

 



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