タイトルの沼高郡というのは明治三十一年(1898)、沼田郡と高宮郡が合併した地域の新しい郡名として政府提出の法律案に記載された名称であった。沼田郡というのは今の安佐南区に加えて、明治三十一年の時点では楠木町や三篠町なども含まれ、明治十一年に広島区ができるまでは広島デルタの大半も沼田郡であった。一方の高宮郡は今の安佐北区から白木を除き、福木を加えた地域だった。
さてこの明治三十一年の法案は修正案が出されて沼高郡は実現しない。衆議院委員会会議録. 第12回帝国議会を見てみよう。
「広島県下郡廃置法律案(政府提出)委員会会議録
(中略)
委員佐々木君 左ノ意見ヲ述フ
広島県備後国三次郡及三谿郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三次郡ヲ置クトアリ此
ノ三次郡ヲ改メテ双三郡ト称セムコトヲ望ム蓋シ双三郡ト名クルハ両郡ノ
名称ヲ併存シ郡内住民ノ意思ニ適スルヲ以テナリ
委員山蔭君 左ノ意見ヲ述フ
広島県安芸国沼田郡及高宮郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ沼高郡ヲ置クトアリ此
ノ沼高郡ヲ改メテ安佐郡ト称センコトヲ望ム
(後略)」
(旧字体は改めました)
この修正案は起立者多数で可決され、新たに双三郡と安佐郡が誕生することになり、沼高郡は幻に終わった。ここで、双三郡については理由が簡単に書いてある。三次郡に決まったのでは三谿郡の住民が面白くないということだろうか。これは合併の時にはよくある話かもしれない。一方の安佐郡については理由が書いてない。地元のことでもあるし、少し考えてみよう。
風土記撰進の詔によって安芸の国には八郡、すなわち安芸、佐伯、山県、高田、高宮、沼田(ぬた)、賀茂、豊田が置かれた。当時の佐伯郡は太田川の西側、今の安佐南区から大竹市までかなり広い範囲だったようだ。それで鎌倉時代までに佐伯郡は佐西郡と佐東郡に分割され、安芸郡も安北郡と安南郡に分かれた。その一方で、高宮郡と沼田郡は廃されてそれぞれ高田郡と豊田郡に併合されて八郡というのは変わってなかったようだ。
それが江戸時代の寛文四年(1664)、郡名復古の動きが出て、風土記の時代の八郡の名前に戻される。佐西郡は佐伯郡、安南郡は安芸郡に戻ったが、佐東郡、安北郡には廃止されていた沼田郡、高宮郡があてられた。沼田は読みを変えてヌマタとなったけれど、古代は別の場所に存在した郡名に置き換えられた訳だ。もし私がその時代に生きていたら、あまり面白いことではなかったような気がするが、当時の人の感想を見つけることはできなかった。
時代は安佐郡誕生後に下るが、小鷹狩元凱著「広島蒙求」にはこの郡名復古について批判的な記述があり、
「土地の入替りたるは其頃の有司深くかうかへざる誤りにて、」
とある。安芸国の郡名の変遷表を拝借しておこう。
このようないきさつから、借りてきた郡名から一字ずつというのは面白いことではなくて、その前の佐東郡、安北郡から一字ずつというのが地元の意見だったのではないかと想像できる。元は安芸の安と佐伯の佐ということだけど。
これで沼田と高宮という郡名は消えてしまったが、沼田の方は昭和の大合併で沼田町として復活する。これも対等合併時の綱引きの結果昔の郡名を引っ張り出して来たものだろうか。一つ前の佐東郡も佐東町として復活している。一方の高宮郡は、高田郡に昔からの高宮という地名があることから消滅した高宮郡内に復活することはなかったけれど、私が住んでいる高陽地区の高陽とは高宮郡の南部という意味のネーミングで、一文字だけ痕跡を残している。
ここまで書いてきて一つ残念なのは寛文四年の郡名復古は何を見れば書いてあるのか、元は誰の意向なのかよくわからないことだ。広島県立公文書館の年表には、
「この年,広島藩,幕命により,領内の郡名を佐西→佐伯・佐東→沼田・安南→安芸・安北→ 高宮・三吉→三次と古に復す〔玄徳公済美録 35〕」
とある。しかしこの史料は閲覧不可のようだ。幕府側の史料はないものか、ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。地元の地名については、あと二つ三つ書いておきたい。お役所仕事で地名が揺れたケースは他にも多いようだ。