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カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会

2017-12-26 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
今年最後の佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
途中からの参加もOKなので、その際にはメッセージをください。
第1回~第3回の様子はこちらをご覧ください

第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ
第3回の議論のまとめ


        
第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【会の趣旨】
この『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、来たる2月24日(土)に著者である佐藤和夫氏を福島へ招き、本書についてともに議論しながら、アーレントという思想家のアクチュアリティや現代世界の危機について語り合おうという目的で始まりました。
当初は5.6人の少人数で集まるイメージでしたが、広く声をかけたところ、あっという間に参加者が増え、2月の「著者と一緒に読む会」に関しては定員20名がすでに満席となってしまいました。
現在継続している「読む会」には13名が参加されています。
参加者も幅広く、福島市、いわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内にお住まいの方から、金沢市と和光市のように県外にお住まいの方もスカイプで参加されています。
年齢も30・40代を中心に20代から70代まで幅広く、職業も多種にわたっています。
その点で、哲学やアーレントなどまったく知らない市民が、佐藤和夫=アーレントを通じて現代世界の危機について学び合う場となっています。
毎回、カフェマスター(渡部)の方でレジュメを用意し、それを読み合わせながら、参加者同士でわからない部分や事例を挙げて自分の解釈を述べたり、ときにははみ出して現代社会の問題を語り合ったりするという、お気楽な場となっています。
毎回の読書会は、お仕事の都合や家事などで参加できない方もいらっしゃいますが、一章ごとに区切ることで途中からの参加者も、できるだけ参加しやすい形で進めていますので、関心をお持ちになられた方は、ブログよりお気軽にメッセージを下さい。

【開催日時】
 2017年12月27日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】
 第4章「労働・仕事・活動―マルクスと近代への批判」(p.131~p.168)
【参加条件】
 ⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送り下さい。
 ⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-11-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
思いつきで始めたスカイプによる『〈政治〉の危機とアーレント』読書会も3回目です。
このシリーズも回を重ねるごとに、ムスカばりに「読める!読めるぞ!!」という声と、
 
「相変わらずわからないね」
  
という二つの声を聴きながら、今回も9名によるスカイプ読書会が開催されました。

今回のテーマは「自分らしさ」と「私的所有」。
「政治」が織りなす「公的領域」の重要性を強調するアーレントには、ややもすると家庭や家事が織りなす「私的領域」、すなわちプライバシーの重要性を不当に貶めているという評価が長らくありましたが、むしろその「政治」が可能になるための条件としてのプライバシーの重要性を指摘したのが本書の特徴の一つです。
ここでのプライバシーとは、「自分らしくあること」が確保される領域を指すわけですが、しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を、無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまったことを指摘したことが重要になります。
これは、ヴェイユが『根をもつこと』で述べたように「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」という言葉とも符合しますし、その「自分らしさ」の根が奪われているとき、人々は全体主義への誘惑から自由になれないというのが、ここでの中心的な論点になります。

議論のなかでは、やはり自分らしさの所有という意味での財産と貨幣としての富の違いが、やはりよく分からないという質問が投げかけられました。
「自分らしさ」を所有するための財産とは何か?
たしかに、わかったようでわかりませんね。
それぞれ、具体例を模索します。
バブル時代にブランドが流行ったけれど、どんなにカネを費やして高価なモノで自分らしさを表そうとしても、それが消費的で空虚なものであるし、そうしたカネの価値で示せるものではないのが「財産」ではないか。
「家」は「財産」の典型だけれど、でも、現代の家はローンで何十年もカネに束縛されているし、失業なんかすればすぐにそれは剥奪される不安定性の上に所持されるものです。
すると、そのローンの返済のために働かざるを得ないし、けっきょくはカネの返済ためだけに働かざるを得ないというのが実態でしょう。
だから、労働と富の結びつきにおいてアーレントが人間の条件が切り崩される危機を指摘したことが、なんとなく見えてくるでしょう。
ある参加者は、私的所有は「家」だけでなく、作物の獲れる農地などもそうじゃないかと指摘されました。
その話を聞いた時、原発事故で農地を汚染された苦痛を訴える人々に対して、東京の弁護士たちが「汚染されていない食材はスーパーにいくらでも売っているじゃないか」と述べたというエピソードを思い出しました。
都市生活する人間にとって食材は商品でしかありません。
だから、食材はカネで購入すれば済む問題だろうというわけですが、自分の畑で獲った作物を食べる醍醐味を知る人々にとって、そんな理屈は論外でしょう。
そこには、まさにカネで交換不能な私的所有の意義が示されているように思われます。
また、別の薬剤店で働く参加者は、ただ医療機関に点数で指示された商品を手渡すだけの仕事に、どこか自分の思いが伝わらない感じがして、やりがいを得られないという話をしてくれました。
この働き方を「自分らしさ」という言葉で表現するならば、その唯一性を点数やカネによって等価交換されることへの疎外感といってもいいかもしれません。
その点、感情労働もシビアですよね。
感情こそ最も私的なものの一つですが、それをカネとの交換で切り売りすることは精神の荒廃や身体への暴力につながるでしょう。
まぁ、でも感情労働は微妙だよね、その感情のやり取りに生きがいを覚えることは教員やっていると経験するものでもある。そんな話も上がりました。

安心できないところで公共的な意見を求めるなんて、アンフェアだという話にもなりました。
なんのことはない。教員採用試験の欺瞞の話です。
不安定な講師業を続けてきた人間に対して、教育の在り方を問うなんて、出来レースもいいところだろうという話です。
けっきょく、そこは受験者の教員としての資質を問うといいながら、審査する側=支配する側の論理に従う範囲での意見を答えられるかを試すだけであって、そんな不安定な人間に自分の意見を語らせるというのは欺瞞もいいところだというわけです。

また、そんなにカネの論理に縛られて身動きできなくなる社会なら、いっそ逮捕されても借金は返さないよという人々が公然と現れ始めてもいいんじゃないか、という突っ込んだ問題提起もなされました。
みんなが公然とカネを返さなければ、この資本の論理だって少しは歯止めが利かないだろうか、というわけです。
公然と法を犯して権利の主張を表明する「市民的不服従」の経済版ですね。
面白い考え方だなと思いました。
けれど、資本と国家主権の強大さは、おそらくそれを潰しまくるでしょう。
それでも、予想不可能な「活動」としての返済拒否運動が生じれば、資本と主権を廃棄するのかも…
(柄谷行人風に言えば「交換様式D」が到来する!的な。)

さて、いったん議論を打ち切り、第3章「自分らしさ」と「私的所有」へ突入します。
まずは、私的所有の重大な盲点として、個人の自由は全ての市民に保障されているわけではないという点を確認します。
一般に「政治・経済」の授業では、選挙権の人口拡大は往々にして時代の進歩と解してきましたが、近年の民主国家とされる社会で生じているファナティックな排外主義をみれば、それに疑問を覚えざるをえません。
誤解を恐れずに言えば、納税額などによって制限されてきた選挙制度では、たしかに資本家階級による利権政治という面は否定できないものの、一方で余裕のある身分であるがゆえの公共性を担保していたのではないか、という評価も成り立ちうるのです。
というのも、アーレント流に解釈すれば、家や土地、仕事が保障されることなく、絶えざる生活の不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しいからです。
元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずですが、もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になり、それは既に反政治的なものが「政治」の主たる対象となってしまうという点で、「政治」の破壊をもたらすのです。

一方、国家や市場による私生活への侵害・監視はメディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲームなど多岐にわたり、今日、この「社会的なもの」に侵食されていないプライバシーなどほとんど皆無でしょう。
こうなると隠れ家として安心できる居場所としての「私的領域」は、もはや皆無かもしれません。
このような状況下で、「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代であるというのが、本書を貫く大きな主張の一つとなります。

この段階の議論では、不安と政治の問題に絡んで、学校という空間は「政治」の空間のような気がするという意見がまず出されました。
その方によれば、自分の学生時代を振り返ってみても、そこはすごく居心地がよく、自分の意見を自由に言えた場所だったそうです。
これは、けっこう重要な指摘だと思います。
アーレントにおいて学校は、まさに私的領域から公的領域へ橋渡しをする中間的な「社会的領域」ともいうべき場所だからです。
この参加者が言う自由に意見を言いつつ、居心地が良いというのは、政治のための発言の自由さと同時に、安心できる自分の居場所としての空間が確保されていることを意味するでしょう。
リアルな話としては、学校や大学の昼食時に自分の居場所がなく、トイレの中でお弁当を食べる生徒・学生がいるという現象です。
その事例を見ればわかるように、子どもたちにとって学校は必ずしも居心地のいい場所ではなく、ともすれば弱者を排除する力学が生じるところでもあります。
だから、アーレントは、子どもの世界は自分たちだけで自律させてはいけないといいます。
もし、子どもだけの世界になれば、いじめが起きる残酷な世界になることは現代日本社会でもいやというほど問題化しています。
だから、学校の世界は教師という権威が存在しなければいけないし、そこにおいてはいかに自由な発言が可能になろうとも、不平等な命令―服従の関係性が支配するわけです。
後者の部分は、まさに家政内での封建的な父親の存在を想い起させますが、まさにそうした平等性がない部分が私的領域に備わることをアーレントは論じます。
権威に基づく命令―服従があるがゆえに、生命・生活の保護が為されるというのは、あまり納得のいく話ではありませんが、むしろアーレントはその私的領域における支配形態を平等原理によって営まれる「政治」に適用することを批判的に論じています。
プラトンの政治思想にもそれが見いだされますが、戦前の日本だって臣民は天皇の赤子だったわけで、思いっきり家族的国家を体現していたことは明らかです。
 
さらに議論では、この話題でふれられた「平等主義」に関してもう少し明らかにしてほしいという質問が出されました。
アーレントにおいて平等は差異の平等を意味します。
つまり、「違い」があるがゆえに平等に扱う原理のことです。
これと対比させられるのが、「画一主義」です。
日本、とりわけ学校はこの二つを取り違えることが往々にして行われます。
これに関しては色々な例を挙げながら模索されました。
たとえば、体育で一律100回の腕立て伏せをやらせるのが画一主義で、その子の体力に応じて目標回数を変更するのが平等主義なのか。
そうともいえるでしょう。
でもそうすると、別の子から不満が出るのが世の学校の常です。
これに関して、今日まさに人事評価をしてきた方が、一律に評価などできん!と啖呵を切ってきたという話も挙げられました。
その人の実力や目標がそれぞれ異なるのに、それを一律に評価するなんて無理だ、というわけです。
あるいは、子育てと働き方の問題など典型にそれが現れるでしょう。
熊本市議が議場にもちこん事例は、規則に書かれているから一律ダメという論理は、まさに原則主義であり画一主義であろうというわけです。
ジェンダーの不平等を考慮すれば一律に切り捨てるのではなく、それぞれの状況に応じて平等性を常に測りなおすという点で、差異の平等とは常にフレキシブルに再検討を促す原理と言えるのではないでしょうか。
この話題は後程再浮上します。

第3章は、アーレントによる所有権の正当化と貨幣を導入したロック批判から、その私的所有権論を批判して共産主義を主張したマルクスをさらに批判し、最後に彼女のプライバシー私的所有の意味を明らかにする展開となります。
まずロック。
そもそも「所有」を意味するpropertyには「自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていましたが、自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生するというロックの私的所有論は、市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」という意味が抜け落ち、「物を所有する」という意味での「所有権」に限定されてしまったといいます。
さたに、近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつくとし、これが自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かったといいます。

このロックに代表される近代の私的所有論に対してマルクスは、「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という割には、働けば働くほど労働疎外と貧困化を招くのはなぜかと問います。
その答えとしてマルクスは、労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!と結論し、すべての物を共有する共産主義へ向かうことを論じます。
しかし、このマルクスの「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない、とアーレントは批判します。
つまり、個人と類の同一視こそがマルクスに対するアーレントの批判ということになります。

では、アーレントの「私的所有」とは何か?
一言で言えば、それは「自分らしさのためのプライバシー」ということになります。
すなわち、一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたく、それをお互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険があるというわけです。
そして、一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的領域」・「財産」・「私的所有」が確保されなければならないのです。
おもしろいのは、「財産」と「富」の区別の事例として、「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪を挙げている点です。
参加者それぞれに「自分らしくいられる居場所はどこか?」と聞いたところ、自宅のトイレや布団のなか、風呂が挙げられました。
おそらく、そこは個々人の五感によって形成された秩序空間ではないでしょうか。
いくら毎日帝国ホテルに泊まってシーツを取り換えられていても、やっぱりしばらく洗濯もしていない布団のにおいに落ち着いたりするものです。
書棚なんて、他人がいじったらそれだけで秩序が乱された気持ちになります。
慣れ親しんだ空間というのは、個々人の感覚の相違によって生じる「癖」の集合体といえるかもしれません。
ゴミ屋敷といわれんばかりの乱雑な部屋であっても、そこには巣のような居心地の良さがあるわけで、それがプライバシーの空間ということなのでしょう。

一人ひとりの「違い」を前提にするかしないか。
学校では建前上「個性尊重」を言いますが、同時に画一主義の服装頭髪指導を継続してきました。
このダブルバインドをどう考えるべきか。
それを、けっきょくは秩序の範囲内で認める自由と表現した人がいました。
90年代にやたらと「個性」を尊重する教育が推進されましたが、おそらくそれはこれまでの護送船団方式では立ち行かなくなった経済の論理と符合していて、ネオリベラリズム的な自由主義という意味での「個性尊重」という経済の論理が背景にあると思われます。

公的空間で政治が為されるための条件としての私的領域・プライバシーの確保が、一人ひとりの違いを十分に育てることにつながるという点では、「サバルタン的公共圏」という領域も思い出します。
これはフェミニズム政治哲学者ナンシー・フレイザーの用語ですが、ここでの「サバルタン的」とはLGBTや難民のような、公的空間において言葉を奪われた人々が形成する「対抗的公共圏」といわれる領域です。
世界から疎外された人々がどのように物語や言葉を紡ぎだすのか、という問題はユダヤ人として社会から追放された経験を持つアーレント自身の大きな課題でした。
同じような境遇にある疎外されたもの同士が集う安心した領域を「サバルタン的公共圏」というならば、それは公的/私的領域の閾にあるものともいえるでしょう。
家族の問題がシビアだとされる日本社会においても、こうしたプライバシー領域を補完する新たな領域の生成は意義深いことだと思いますし、そこでの政治性が課題として問われることでしょう。

しかし、サバルタンという用語は、もともとスピヴァックの用語であり、そこでは自らの疎外や迫害を自らの言葉で語りえない人々のことを指しています。
それは何かの強制力によって表現の自由が抑圧されているという意味ではなく、そもそも語る言葉をもってない人々のことですが、それに対してアーレントはどのように論じるのか、という質問が投げかけられました。
いわば、抑圧されている側がその苦しみを訴えるためには、抑圧している側の言語で語らざるを得ないのだけれど、そこにはすでに言葉そのものが抑圧の構造によって規定されているため、訴える側の本意は伝わらないという問題です。
いくら、知識人が代弁しようとしても、その知識人の言葉そのものがすでに抑圧者の言葉を奪っているという構造を、スピヴァックは見抜いたわけです。
発達障害を持つ人々が、周囲の世界になじめず、それを言語化できないままに疎外される事例から、その問題を指摘する発言が参加者の中から上がりましたが、率直に言って、アーレントはこうした言葉をもてな人びとに対しては解決策を提示できていないと思います。
その点で、彼女は知識人の側に類するとも言えますが、しかし、それよりもむしろ、アーレントが言葉のもつ力を信じ切っていたというべきなのかもしれません。 
しかし、こうした言葉を奪われた人々が、「蜂起」という選択をしないのだろうかとの指摘も挙げられました。
言葉をもてないがゆえに放棄し、立ち上がる人々がいるのではないか。
とても興味深い指摘ですが、おそらくアーレントであるならば、その言葉を抜きにした闘争や暴力蜂起こそが脅威であるとみなしたのではないかと思います。
それはある種のルソー主義とも言えますが、その話は赤城智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」の論考を思い出します。
不安定な立場に置かれた若者の「希望は戦争」という言葉は、そのまま「暴力蜂起」と結びついているようにも思われるからです。
しかし、先に発達障害の問題に触れた参加者からは、そもそもそうした立ち上がることに関心を向けることからも疎外されている若者のことを問題にしたいのだとの指摘がありました。
同じ不安定で言葉を奪われていようとも、そこにはやはりある種の位相の違いがあるようです。

今回も予定していた90分内の時間でスムースに終えることができました。
ただ、スムースに終えることが、十分な理解や思考を深められたこととは別問題です。
皆さんの手ごたえはどうだったのか、カフェマスターとしては気にかかることです。
印象深かったのは、ある参加者がこうして読書会で一緒に読んでいると、佐藤和夫を介してアーレントの言いたいことがよくわかる、と思っているんだけれど、いざこの場を離れて読み直すと「はて?」という地点に戻ってしまうという感想です。
読書会そのものが「政治」の場であり、そこから離れて独りの「思考」という場になったとき、何か雲散霧消してしまっているというのは、アーレントを読む経験としては、何かとても本質的なことを衝いているように思われました。(文:渡部 純)>

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会の案内

2017-11-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
回を重ねるごとに盛り上がりを見せている(?)佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
第1回・第2回の様子はこちらをご覧ください
第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ

          

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【開催日時】2017年11月30日(木)20:00~21:00
【読み合わせ箇所】第3章「自分らしさと私的所有」(p.105~p.130)
「プライヴァシー」を「自分らしさ」を確保する居場所と捉え、それが切り崩されることの危機を論じています。【参加条件】
⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送りください。
⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。


【参加者によるこれまでの感想】

◎読書会は 「絶滅危惧種」だという話がありましたが、その通りだと思います。話が通じないことおびただしいから、もどかしいし、まどろっこしいし、なんだよー、とも思うことも多い。そして、「人間性」の違いからもう無理!って思うこともある(過去の経験)。
でも、間違いなく、私の思考はそういうところで巡り会った 「他者の言説」によって構成されています。
テキストを読むことも、映画を観ることも、芝居を見ることも、美術展にいくことも他者と出会うという意味では同じようなもの、に一見思えるのだけれど、実はかなり違うんですよね。
生身の他者のチョイスを、 「他者の肯定」を肯定する、という経験がそこにはある。ここでの肯定はとりあえず否定といっても同じことだ。
いわゆる同好の士が集まったサロン、とはちょっと違う話になるよね。アーレントは、実は自分の中でそれをやってるような気もする。
ここから先は國分功一郎氏の「二者」と 「多数」の問題にもなってくる。
ワクワクです。また次回を楽しみにしています。
◎(スカイプ通信という方法について)「生身の他者」と出会う、というのは読書会の重要な側面だとは思います。併用するといいんじゃないすかね。
◎対面の読書会とは違った雰囲気、言葉を浴びている感じです。確かに対面のよさもありますが、併用することで回数が重ねられますし、対面したときがどう変化するのか?が楽しみですけどね。
◎パウ・カザルス(1876年12月29日 - 1973年10月22日。スペイン・カタルーニャに生まれたチェロ奏者で、チェロ演奏の今日を築いた。指揮者、作曲家としても活動した)の「鳥の歌」。きょうここで聴けるとは!まったくの驚きで、いきなり感無量。カザルスの一徹な悲願を新たにした(彼の鳥は今も「ピース、ピース!」と歌い続けているから)。弟君の思いっきりの良い(やんちゃな!)「コレルリの主題による変奏曲(クライスラー)」ともども、兄弟による歓迎演奏あまりにも素敵で、心の中で「よき哉!よき哉!!」と興奮しつつ堪能させていただきました。
 さて「条件」という単語の多義性(大きくは下記A&B)の波に浮いたり沈んだりしながら……

 A:普段はもっぱら「求めるとき/求められるとき」に、「飲ませたり/飲んだり」するもの、というような意味で用いてきた「条件」

 B:あったり(起きたり)/なかったり(起きなかったり)するモノ/コトの因果を来す要因(観察して解明する背景要件・環境状況)を指して用いる「条件」

 取り急ぎ直感で読む、というか直感が感知するものについての表明・表現を思考錯誤している気分です。

・いわば「過渡期の絶え間ない連続」でありつづける生の現場における人間の「とりあえず(仮説・仮定)の生き方」のあらわれについてのハンナ・アーレントの観察洞察と論証の試み?……として理解しようとしています。
・分かりにくい、難しいということがしばしば口にされますが、ふと「アーレントの所感・所信」でしかないものを読みながら、つい「解答や提案」を求めてしまうからムズカシイのではないのかーーと思いはじめています(?)。
・「科学(主義?)」に由来する「永遠の過程性」という「逃避のブラックホール」が時折見え隠れします。

・愉快な仲間たちの個性のほとばしりがしずまり、理解未然の胸襟を開き合ったまま沈思黙考 ——— ひたすら理解しようとするところに訪れた沈黙のえもいわれぬ深さを味わった(共有しあった)瞬間がありましたね。振り返ると、信頼の海に糸を垂らす釣り人の幸福感に包まれたとでもいいたくなるような充足感があったことに気づきます。読書会の醍醐味の一つ?

 というわけで、このあともナニが起きるかわからないゾ!という希望を弾けさせた第2回読書会だったと思います! ありがとうございました。
 いよいよアブラが乗ってきたカンジの「まとめ」の力作にも感謝。ここまで書いてあったかなと思うほどよくわかります。次も楽しみです!

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-11-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第3回の『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が一週間後に迫ってまいりました。
レジュメをまとめましたのでアップさせていただきます。
今回は「第3章」の読解をメインにしていますが、前回読み飛ばした「第2章3節」も大きく関わりますので、そこでの議論も含めてまとめてあります。
今回からご参加いただくこともできますので、ご関心のある方はスカイプを設定していただいた上で、ブログメッセージよりご連絡下さい。



「自分らしさ」と「私的所有」(報告担当:渡部 純)

1.私的所有=自分らしさのためのプライバシー(第2章3節)
(1)公的領域で活動できるための私的領域の意味づけの重要さ
 労働からの解放はありえないが、「自分らしくあること」の追求が人間の基本的な条件として求められる〔90〕
 ⇒しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまった!

(2)生命としての人間は「大地」という条件によって根源的に制約されているが、この条件は変容可能である〔93〕
 ⇒もっとも恐るべきは、この地球の中で自分が、ここだけは誰にも侵入されずに自分の場所(世界の内部に私的に保持された場所)をもつことができるという、いわば根本的な人間の条件が奪われること
 ⇒近代資本主義は労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富」であるかのように混同されるに至った。
 ⇒大地に根をもつことで可能になる「自分らしさ」の「所有」とは正反対のものであ

(3)ヴェイユの『根をもつこと』-「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」〔94〕
 ⇒自分の根が奪われているとき 人々は全体主義への誘惑から自由になれない〔95〕

2.「自分らしさ」と「私的所有」(第3章)
(1)はじめに
①私的所有の重大な盲点…個人の自由は全ての市民に保障されているわけではない!
 ⇒生活のための家や土地が保障されることなく、絶えざる不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しい
 ⇒元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずなのだが…〔107〕
 ⇒もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になるが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである
②今日のプライバシー問題…国家や市場による私生活への侵害・監視
 ⇒メディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲーム、
 ⇒この市場世界で生き残るために強制される精神的隷属と身体的虐待の問題
 ⇒今日の「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代である(外国人の排外主義とリーダー待望論)

(2)ロックの所有権の正当化と貨幣の導入
①property…「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていた
②ロックの所有権論
 ⇒自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生する〔114-115〕
 ⇒市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」の保障はブルジョワ市民階層を分析対象とした社会科学の主要な関心となりえなかった。
 ⇒「物を所有する」という意味は「物をもつ」という意味に限定されてしまった
③ロックの貨幣論
 ⇒近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつく
 ⇒「財産の蓄積を持続し拡大する」ものとして貨幣を正当化したが、これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向 かった。

(3)マルクスの私的所有批判
①マルクスの近代経済学批判
 ⇒「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という考え方への批判から始まる。〔117〕
 ⇒「物をたくさん所有することが豊かだ」という考え方が労働疎外と貧困化を招く
 ⇒人間の豊かさは、人間が労働生産の過程で主体的に自然に働きかけながら、自己が対象化され豊かな人間環境が形成される「文明化作用」によって実現する〔118〕
 ⇒しかし、現実は労働者が富を生産すればするほど…それだけ貧しくなる。なぜか?
②マルクスの答え〔119〕
 ⇒労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!
 ⇒すべての物を共有する共産主義へ
③マルクスの問題点
 ⇒「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」。人間は社会的諸関係のアンサンブルである。
 ⇒マルクス:私的所有の積極的な廃止の後に立ち現れるユートピア的な調和的人間
 ⇒アーレント:マルクスは「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない。
 ⇒個人と類の同一視こそがマルクスとアーレントの対立点である

(4)アーレントの「私的所有」=「自分らしさのためのプライバシー」
①アーレントの私的所有観〔122〕
 ⇒一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたい
 ⇒一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点
②アーレントの「公的」概念
 ⇒「公的に表れるものはすべて、誰にでも見られ聞かれたりする」
 ⇒世界とは、他者によって見聞きされる中で生じてくる
 ⇒人間が互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険がある〔123〕
③一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために
 ⇒一人ひとりの違いを十分に育てるための場所の確保(「私的」領域・財産・所有の確保)
 ⇒それを通じて自分のかけがえのなさが表明されること
 ⇒その表明を互いに認め合う空間の保障
④「私的」所有・財産の意義
 ⇒人間が公的領域で自由平等にコミュニケーションできる条件を成り立たせるもの
⑤ロック以降の近代思想のすり替え
 ⇒もともと「私的所有」は自分の生活に必要なものを思い通りにできることだった
 ⇒貨幣の正当化によって「万人が共有している世界に入る」可能性をもちこんだ
⑥私的所有・財産と富の区別
 ⇒「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪〔124-125〕
⑦私的領域の意義(まとめ)〔126-128〕
 ⇒自分らしい暮らし方を通じて自分を保つというのは人間の根本的な在り方であり人間の条件である。
 ⇒マルクスの議論は労賃。資本・地代の対立が人類経堂のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている
 ⇒「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保証されている
 ⇒「根こぎ」の状態の蔓延こそが全体主義運動に組織化されていく



第二回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-11-09 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


今回の『〈政治〉の危機とアーレント』第二章「人間の条件と20世紀」を対象とした「読む会」はSkype通信で9名の参加者に恵まれました。
しかも、福島市の某所に集った4名は、そこのご子息らによるバイオリン&チェロの優雅な演奏で迎えられ、至福のプレリュードを過ごすことができました。写真は、お兄さんのチェロによるパブロ・カザルス風「鳥のうた」の演奏風景です。しゅんたろうくん・こうたろうくん、ありがとう!スパークリングワインも格別でした!(飲み会じゃないよ!)
というわけで、今回の「読む会」は前回の反省を踏まえてレジュメを短くまとめ、各人が本書の文章に即して自分の意見を述べ、議論しあえる時間を取れるようにしました。しかし、これはこれで本文の丁寧な読解を省くという点で、内容理解が断片的になってしまうという問題も生じます。ここは、参加者のご意見をお聞きしながら、さらに工夫を凝らさなくてはいけませんが、何事も「仮説実験」ですので、このものまま凸凹しながら進めることにしたいと思います。

さて、今回のレジュメは思い切って、かなり省略して二つの論点に集約しました。
一つは、アンドレ・マルローが描く清ジゾールとブーバー=ノイマンの生きざまの比較を通じて、「人間はどのような「条件」において悪魔か天使になるか」を問う点です。
もう一つは、「労働」という人間の条件を中心に、アーレントが影響を受けたシモーヌ・ヴェイユの議論をめぐって「奴隷的でない労働の第一条件」を問おうという点です。

まず、アンドレ・マルローが描く『人間の条件』では、国共合作において自己が引き裂かれる中国共産党員の姿が描かれますが、そこにおいて清ジゾールが「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、この光の中に散らばっているなんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語る場面があります。
そこに佐藤氏は「信じるにはあまりに残酷な現実を前にして、人はどのようにふるまうのか」という一つの姿を見出します。いわば、思考し続けることの困難、あるいは思考しない自由を求める姿が、そこに描かれているといっていいでしょう。
そして、この思いは、原発事故災害下で多くの被災者が経験したのではなかったでしょうか。
しかし、他方でカフカの恋人ミレナとともにソ連とナチスドイツの強制収容所を体験したブーバー=ノイマンは、「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができたといいます。
この二人の経験の違いに佐藤氏は注目し、「『考える』営みが個人的性格ではなく世界との関係において規定されてしまう問題」、そして「どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ない」ことを指摘しています。

続けて佐藤氏は、マルローが「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」と述べたように、サルトルが「自由」を、そしてカミュが「理性」を引き合いに、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死すべきもの」という人間の条件(勇気、自由、理性)そのものに向けられたという点に着目します。つまり、自由や理性のために死が肯定されたと言い換えてもよいのではないでしょうか。
そして、そこにおいて「思考の闘いから「政治」(行動)へ逃避しようとする実存主義にとって、「政治」の公的領域に接近できるのは「革命のとき」だけだったというわけです。

実は、これまで筆者はなぜアーレントが対ナチ・レジスタンスについて「思考から行動へ逃避した」という評価をしたのかよくわからなかったのですが、それがこの部分を読み終えて急に腑に落ちた気がしました。
これまで筆者は原発事故下での被災者からその経験を聞き取る中で、原発を容認してきた過去とそれに反対する現在の自分とが折り合わないという話をしばしば耳にしてきました。
放射線の汚染地域に残った選択を他者から責められることにしばしば傷つきながら、将来の不安と過去の選択のはざまで折り合いをつけられない人の苦しみを耳にしてきました。
そこには、県外の人びとから「福島県民はここまで理不尽な目にあいながら、なぜ声を上げないのか」と発破をかけられると、行動を起こさなければならないという焦燥感と、それができない自分の負い目に苛む声もありました。
いみじくもノーベル賞作家のアレクシエーヴィチも、福島を視察した後に「日本には人々が団結しあうという形での抵抗の文化がない」と評したものです。
この出来事になにがしかの負い目を抱く被災者は、そのような声を耳にすると、いち早く行動に移さなければならないという焦燥感に駆られるものですが、それは裏を返せば、この苦しみから解放されたいという心理的反応ともいえるでしょう。
しかし、そこには同時に、この出来事に対して腑に落ちないままに行動に移ることが、どこか自分自身を押しとどめている実態もあります。
行動に移れない自分は「勇気がない」だけなのだろうか、「自由」を放棄しているだけなのだろうか。
そんな思いももまた、それらの人々の言葉からは窺えたものです。何より、これらの経験は私自身のことでもあります。

アーレントは、『過去と未来のあいだ』で「思考」の経験についてカフカの寓話を引用しながら、過去と未来の両方から押し寄せる「力」に対して、「現在」という頼りない場に何とか踏ん張りながら、両者と闘わなければならない営みだといいます。
過去の自分の為した(為さなかった)負い目との折り合いのつかなさと、将来自分に何が起こるかわからないという不安とのせめぎあいの中で、この「原発事故」という出来事と和解することを目指しながら、「思考」の場に踏みとどまること。
これもまた「抵抗」の別の形なのではないか。そのような理解の仕方において、アーレントの「思考から行動への逃避」という文が腑に落ちたわけです。

しかし、この部分に対しては、少なからぬ反論が提起されました。反論というか、このアーレントの考え方には到底納得がいかないというものです。
その理由の一つは、まるで「思考」が「行動」よりも優れているといっているとしか聞こえないというものです。なるほど、このレジュメのまとめ方だけでは、そのように受け取られるでしょう。
なぜ、行動がだめなのか。「行動しながら思考できる」という参加者からは、思考/行動を区分する二項対立的なアーレントのとらえ方は納得ができないといいます。
「逃避」とは何事だ!というわけです。
これに対して、別の参加者は、デモに行ったりすると、それまで自分のなかだけで悶々としていたものが、仲間がいることで安心するという感じがしたという経験もあるから、「行動への逃避」という表現はわからないではない、という感想も出されましたが、違和感を示す方が趨勢でした。

正直なところ、これらの批判的感想に関しては、「え?ここに反応するの?」という驚きを覚えたものです。
これらの反応にどう捉えればよいでしょうか。
まずアーレントが「行為action」ではなく「行動behavior」としている点は無視できません。アーレントにおいて前者は「自由」に対応するのに対し、後者は「画一性」に対応する語です。つまり、動物的な反応において営まれるのが「行動」ですので、そこ点を考慮しなければならないでしょう。
このことを「浅慮」による「行動」と表現された方もいらっしゃいました。では、思考した上での行為はすぐれているのか?
これについて、別の参加者から「アーレントは思考した後にどうなると考えていたのか?」という質問を投げかけられました。アーレントにとって、「思考」は知識をもたらすわけでも、正しい答えや良い行動指針をもたらすものでもありません。
むしろ、思考する間、その人は世界から「ひきこもり」、外見上はじっと固まっているように見えます。
じゃあ、なぜ思考するのか。
アーレントは、ただこれまで「正しい」とか、「常識」と思い込んでいた事柄を解体してしまう営みを「思考」ととらえます。
したがって、「思考」とは何か行動指針を提示するものではなく、むしろその吟味を通じて解体してしまう営みなわけですので、彼女の定義上行動が同時に起こりうることはありません。
行為や行動を麻痺させるネガティヴな考え直しを迫るもの。それが思考です。
これを営んでいる間はつらい、というのは過酷な出来事を経験する中で、思考と止めてしまいたいという清ジゾールや原発事故の被災経験者の言葉からも理解できるのではないでしょうか。
そこに踏みとどまれずに、行動に移ったのが、実存主義的な傾向性をもったレジスタンスではなかったか。
もちろん、そのすべてではないにせよ。

それでも、やっぱり「現実との和解」というフレーズが納得がいかないという参加者の声もありました。
本書では言及されていませんが、これは「理解」のことだという点を触れました。アーレントは「理解と政治」というエッセイの中で、「現実との和解」を「理解」という営みで説明しています。
「出来事」の「意味」を探求し続ける「理解」は、ほとんど終わりのない営みなのですが、それは彼女にとって「全体主義」という前代未聞の出来事と闘う上で欠かせないものでした。
「理解」はどこか「思考」に近い感じもしますが、「思考」が「思い込み」を解体する営みであるのに対し、むしろ「理解」は破壊された「世界との和解」を目指す点で、やはり別の営みでしょう。
人は、どこか前代未聞の出来事と言いつつ、それまでにつくられてきた概念を用いることで、なんとかそれへの対処法などを模索します。
しかし、そもそも未曽有とか前代未聞の出来事に対して、従来の概念では対応できるものではありません。
それまでの「帝国主義」という概念で「全体主義」に対処しようとしても、対応策を踏み間違えるだけです。
それは「原発事故」という出来事に対して、従来の「公害」という概念では不十分な対応に終わってしまうということです。
そこにおいてこそ、「思考」や「理解」の営みが意味を持つのではないでしょうか。
しかし、これは苦しい闘いです。
そもそもなかったものを、新しい概念で名指そうという営みは格闘以外の何ものでもありません。
ならば、いっそ従来の抵抗の仕方で対処しようした方が、なにほどか自分がそれに役立ったという思いに浸れるかもしれません。
しかし、出来事と自分のあいだに違和感や齟齬を覚える人々は、一足飛びに行動へ移れません。
その人間的な意味を見出す余地が、この部分にはあるのではないでしょうか。

したがって、ここでアーレントは「思考」が「行動」の優位にあるといっているわけでも、「思考」すれば正しい「行動」がとれるといいたいわけではないということだと思います。
自分と出来事とのあいだにある齟齬との和解を目指す精神の営みが殺されない人間の条件とは何か、と問うているのではないでしょうか。
いわば、抵抗=暴力的蜂起を促したサルトルとは別の仕方があったのではないか。
その意味で、今まさに「抵抗」という概念そのものが問われているのかもしれません。
もっとも、沖縄の人々あたりにはいつまでもたゆたっている場合じゃねぇだろと突っ込まれそうですが。
しかしながら、やはり皆さん、この部分は消化不良の感があったようなので、ここはぜひ著者と語る会において、ぜひ佐藤氏へ疑問を投げ込んでもらいたいと思います。
もう一点。
こうした「思考」という精神の居場所が殺されずに済む為には、ブーバー=ノイマンがミレナという悲惨な現実を共有し、語り合えたパートナーという意味での他者が存在したということが、大きな「条件」であったという点は、「人間の条件」の重要な要素として確認しておく必要があるでしょう。

というわけで、後半は第二の論点、すなわち「労働」の問題に移ります。
ここは皆さん、体験的に理解が進みやすいところであったかなと思います。
労働の過酷さの本質は、まさにヴェイユ=アーレントの指摘の通りで異論はありませんでした。
ただし、果たしてそう単純に労働には喜びや自由をないと言い切っていいのだろうか、という疑問が出されました。
いくら労働といっても、やりがいがあったり達成感があったりすれば、誰でも喜びを感じます。
すると、一概に奴隷的な労働と労働一般を一緒くたにして良いのだろうかという疑問が生まれるのは当然です。
アーレントは概念を厳密に規定するがゆえに、「それは言いすぎじゃない」と思われる個所はいくらでもありますが、その典型的な例が「労働」概念に現れているともいえます。
アーレントの言う労働は賃労働じゃないの。だから、それは近代的な意味での労働概念だよね。
確かに、そうとも言いたくなりますが、彼女はあくまで古代ギリシアからその概念をもってきているわけなので、時代限定的なものではないはずです。

それでも、身近な経験でいえば、職場の同僚関係がうまくいっていれば、毎日が楽しくなるという意味では、円滑な「人間関係」が形成される労働環境であれば奴隷的ではなくなるのではないかという意見も出されます。
また、職種にとらわれずにフレキシブルに職場異動することで、会社全体の動きをつかむことができることは労働する上でも自由や存在感を得られるという意見も出されます。
むしろ、そこにおいて人事聴取などで若手から「自分は何の役に立っているのか」という質問が多く出されることは、そのことと大きく関連していることだといいます。
職場において自分が何の仕事をしているのかわからないというのは、マルクスの「労働疎外」でも指摘されることですが、こうしたいわば自主管理や協同管理システムが自由な労働と結びつくのはないかというのは、空想社会主義者と揶揄された社会主義者たちの思想にもありました。
スペシャリストではなくジェネラリスト。
こうした労働環境の構築は、依然欠かせない課題であることは否めないでしょう。

しかし、そうであるにもかかわらず、アーレントがヴェイユから読みとった、労働と自由の相容れなさをどう考えるべきか。
アーレントのマルクス批判の要点の一つは、最終的に資本主義が解体し共産社会が実現されれば、労働のないユートピアが到来するとした点に向けられています。
アーレント=ヴェイユにとっては生命の必然性から人間が解放されない以上、それに対応する「労働」からも人間は解放されないどころか、それをなくしてしまうことは、「人間の条件」そのものを破棄してしまいかねないことになります。
言い換えれば、それを失ってしまっては、まさに人間であることをやめてしまいかねない、ということになるでしょう。
そうではなく、人間は「労働」という条件から解放されえない以上、その在り方をどうしていくべきかを試行錯誤しつつも、「活動」や「仕事」という領域をいかに確保していけるか。
とりわけ、「自由」に対応する「活動」や「政治」の公的領域を失いかけている近代人は、それを自覚しようぜっていうことではないでしょうか。

したがって、生命の必然性に支配される「労働」にそれとは対極にある「自由」を結びつけちゃうのは、「自由」そのものを失っちゃうよと、「人間の条件」の概念区分の混同の危うさを指摘しているのが、この章の骨子なのでしょう。
おそらく、その背景には「労働すれば自由になれる」という標語がアウシュビッツ収容所の門に示されたことと無関係ではないでしょう。
働けば自由になれるという観念は、どこか経済的自立こそが自由の実現という形になっても流通していますよね。
もちろん、それは大事。だけれど、「自由」はそれとは別にあるものだよ。それを間違えないようにしようね、ということなのでしょう。
たしかに、労働環境の改善によって「労働の自由」あるいは「自由な労働」というのは実現されるかもしれません。
しかし、アーレントが問題にしたいのは、極限の状況になったとき、労働の必然性がその暴力をあらわにするということではないでしょうか。

これは、本書でたびたび指摘されることですが、高度経済成長のように経済的豊かさが充実しているところでは、なかなか見えにくい労働の暴力性を指摘しているのでしょう。
いくら、自由裁量や自主管理の経営形態がとられれば、いくぶんか労働の強制が軽減されるかもしれないけれど、結局その条件そのものは廃棄できない。
逆に、経済成長が見込めない現実の社会を見れば、雇用形態から労働形態まで、労働弱者に対する絶望的な抑圧が法改正によって進められています。
そこにおいて、「そんな労働が嫌ならどうぞ働いてもらわなくて結構。ほかに働きたい人はいくらでもいます」という暗黙のメッセージを発し、「働かなければ生きていけない」という必然性の論理でもって自由を束縛します。
そこにおいて、生存の限界状況があらわになったところに剥き出しの暴力を発現するわけです。

アーレントはいつでもそうですが、おそらく最悪の状況になったときの人間性が「人間の条件」によって、いかに左右されるかをつきつめて論じようとします。
一見、そんな無茶苦茶なと思うこともしばしばありますが、しかしまさに「〈政治〉の危機」において、それがあらわになるものでしょう。
それが本書を貫くアーレント解釈の中心にあるように思われます。
しかし、しかしです!もしかすると、その条件の重要性に気づいた時には、既に世界は取り返しようのない危機に陥っているときなのかもしれないのです!(文:渡部 純)

第2回・第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会のご案内

2017-10-31 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
第1回の様子はこちらをご覧ください
第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・議論のまとめ
スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送りください。




第2回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会 ⇒ レジュメ
【開催日時】2017年11月8日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】第2章「『人間の条件』と20世紀」
   第1節「『人間の条件という言葉とアンドレ・マルロー」(p.63~p.76)
   第2節「シモーヌ・ヴェイユ『労働の条件』と『人間の条件』」(p.76~p.89)
※第3節『「人間の条件」の中での「私的所有」=「自分らしさのためのプライヴァシー」は第3回と合わせます。

人間は「〇〇である」と本質的に規定されるものではなく、「条件づけられた存在である」という『人間の条件』のタイトルの意味を考える内容となっています。とりわけ、「労働」という人間の条件を考えることは、「過労死」が深刻化している日本社会において重要です。

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【開催日時】2017年11月30日(木)20:00~21:00
【読み合わせ箇所】第3章「自分らしさと私的所有」(p.105~p.130)

「プライヴァシー」を「自分らしさ」を確保する居場所と捉え、それが切り崩されることの危機を論じています。

第2回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-10-31 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が終わったばかりのような気がしますが、第2回のレジュメをアップします。
初回のレジュメは本の内容に忠実にまとめてしまったので、かえって細かい話の解説に拘泥してしまいました。
その結果、話題がアーレント読解に終始し、具体的な社会問題や生き方を問う議論が少なくなってしまったという反省点がありました。
そこで、今回は思い切ってレジュメの内容を短くし、次の二つの論点に絞り、各人で思い思いそのことについて具体的に考えてきてもらいながら対話に参加していただきたいと思います。

⓵人間が思考できる条件/思考停止してしまう条件とは何か?
⓶奴隷的ではない労働の条件とは何か?

今回、読み合わせる第2章は、人間は「〇〇である」と本質的に規定されるものではなく、「条件づけられた存在である」という議論から、その条件を吟味しようという『人間の条件』のタイトルの意味を考える内容となっています。
話の流れから、今回は第1節「『人間の条件という言葉とアンドレ・マルロー」(p.63~p.76)と第2節「シモーヌ・ヴェイユ『労働の条件』と『人間の条件』」(p.76~p.89)までの読み合わせに区切りたいと思います。(カフェマスター・渡部 純)


佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』第2章 『人間の条件』と20世紀

1.『人間の条件』という言葉をめぐって―アンドレ・マルローとブーバー=ノイマン
(1)哲学が「人間とは何か?」と本質を問うてきたことへの異議
⇒人間は環境や制約(条件)との関係の中でしか存在しえない

(2)信じるにはあまりに残酷な現実を前にして、人はどのようにふるまうのか?[p.70]
●マルロー『人間の条件』の清ジゾール
「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、この光の中に散らばっているなんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」[p.70]
●ブーバー=ノイマン
「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができた
⇒「考える」営みが個人的性格ではなく世界との関係において規定されてしまう問題
⇒どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ない
⇒人間がどのような「条件」において悪魔か天使になるかが問われなければならない

(3) 実存主義への批判
●「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」(マルロー)
⇒「革命」が社会的政治的条件にではなく、人間の条件そのものに向けられた[p.65]
●「思考」の闘いから「政治」(行動)へ逃避しようとする実存主義にとって公的領域に接近できるのは「革命のとき」だけだった[p.75]

2.労働の条件と人間の条件―シモーヌ・ヴェイユ
(1)アーレントがマルクスの労働観を批判する上でヴェイユは決定的な影響を与えた
●労働と生命の必要から最終的に解放されるという希望は、マルクス主義のユートピア的空想[p.77]
⇒「朝は狩りをし、午後には魚釣りをし、夕べには家畜を育て、夕食後には批判をする」
⇒この空想は労働運動の原動力となるが、反「人間の条件」的な「民衆のアヘン」なのだ!

(2)「労働」という人間の条件から解放されることはない
●どれほど「労働」のなかに「仕事」の積極的面が含まれていようと、生産力が上がり消費水準が上がろうとも、「労働」の要素が消えるわけではない。[p.81]
●「労働する動物」という人間観が「政治的な動物」という人間観をないがしろにする

(3)ヴェイユの労働観
●労働者…「根無し草」=工場においては厳密な生産労働の時間管理の中で自分の自由は奪われ、自分で働き方を決められる余地は与えられない(労働疎外)[p.84]
⇒上司の指示の前に「結局のところ自分は命令に服しているのだという心にくり返し言い聞かせる」
⇒考えてもその根本条件が変わらないならば、その苦しみやその条件を考えないことだ[p.85]
⇒労働は合目的性ではなく、必然性に支配されている[p.87]
⇒「生き残るためには稼がなければならない」…永遠のくり返し運動の奴隷状態

(4)ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一条件」
●労働時間の短縮よりも労働者と工場全体の機能・機械との関係、作業中の時間の流れ方を変える
⇒労働者が仕事の過程の主人公となる[p.85]
●奴隷的労働条件からの救済手段[p.89]
⇒美の経験、神に源泉をもつ宗教…詩、祭の参加、フランスを無料で自由に旅行できる喜びの保障

『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編②

2017-10-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook上での議論第二弾です。


【いけだ】
いよいよ明後日ですね。楽しみです。がんばって読んでいるのですが、果して読むことができるのか少々不安になってきました。どうやったら読むことができるのか?
ここは思い切って、まずは素朴な疑問を投げてみようと思いまして。ものすごく初歩的な質問だと思うのですが質問させて下さい。

①P7 後ろから4行目「④以前にはヒューマニストの抽象的…実体になって」について
・「ヒューマニストの抽象的指導原理にすぎなかった『人類』」の定義しについて詳しく知りたいです。
・その「『人類』が現実に存在する実体に」なった、何を表現しているのでしょうか?いきなり出現してきているように感じます。

②P41 3~5行目「『支配・被支配…「政治以前」的なものであるのだ」について
3行目の「政治」と4行目の「政治」は別の意味ですか?整理したいです。

③P41 7行目「政治はだんじて生命、生活のためにあるのではない」とありますが…先を読めば出てくるのかもしれませんが、アーレントのいう政治は何のためにあるのですか?生命や生活について「自由・平等な次元で自由に語り合い、活動し合うこと」もあるのではないかと・・?

④P44 9行目「一定の政治体で…社会的なるものに次第に変わってゆく」について
「社会的なるもの」の定義が知りたいです?

⑤P54 8~9行目「『私的所有』…いわゆる『福祉国家』である」について
ここで言っている『福祉国家』は、現在の北欧などの福祉国家のことではなく、経済から切り離された政治が行われている状態で成り立っている国家を想定しているのですか?
そして、
P54 7行目~11行目 したがって~その意味するところは、私的所有の自由を守るのは政治の権力と経済的権力の分離であり~
私的所有の自由とは?またここでいう政治とはアーレントがいう政治ではなく、現在一般的に言われる政治と解釈するのが素直ですか?
そうなると、私的所有の自由を守る⇒政治と経済が分離している⇒経済に対して一切の政治的関与をやめる⇒ハイエク?となって福祉国家と結びつかないような気がします。

少しずつ読み進めているのですが、「自分らしく暮らせるための安定した基盤」について分からなくなってきました。
自由ってなんだろう?この辺りをじっくり聞きたいです。


【じゅん】
⓵について
これは文字通り「人類皆兄弟」的な理念としての「人類」ではないでしょうか。
ベートーベンの「歓喜の歌」なんかがその典型でしょうし、啓蒙主義時代のカントの「世界市民」なんて言う考え方もそれに当てはまるでしょう。
つまり、理念としての人類をヒューマニストたちは掲げて平和とか自由の実現を夢想してきたわけですが、今日のグローバリズムにおいて、実際に国境を人類がまたいで出会うようになったら、平和どころか欲望むき出しの植民地主義的経済や排外主義とか、具体的な人類の出会いはなんかめちゃくちゃですわ、って感じではないでしょうか。

⓶・⓷について
3・4行目の「政治」は同じで意味でしょう。
「」付はアーレントにおける「政治」という意味で統一されていると思います。
近代政治学での政治概念は生活保障や安全保障のための「統治」を意味しますが、アーレントにとってこれは政治以前の私的領域、つまり家事や家政に属する営みなんですね。
「政治」はこれとは区別されておりまして、生活保障や生命維持のための安全保障に関する営みではないのです。
生活の必要にかかわるものは、人間の生物としての欲求に関わるもので、全ての人間に関わる問題ですが、そうであるがゆえに、アーレントは個性など無くなってしまうと見ます。
政治は、個性を際立たせる空間なので、食欲や睡眠欲など人間の画一的な動物的部分を議論の対象にするところではない、というわけです。
ここはアーレントが批判される最も重要なポイントですが、まぁ、何度も議論になるでしょう。
くり返すと、アーレントの「政治」は人間がお互いの差異を際立たせることができる営みです。
オリンピックの競技空間が典型例で挙げられますが、まぁそれに限らないでしょう。
祭りや演劇なんかで主役を張ったり、議論のなかでもナイスな発言とか、そういうのも入るでしょうね。
「お見事!」とか、「音羽屋!」みたいな、称賛を得るためにお互いが競い合う闘技空間だ、なんていったりします。
もちろん合意を目指す目指す必要もあるのですが、アーレントの場合それは二の次に位置付けれがちです。
合意のためお政治は手段化されちゃうから違うそうです。
あくまで、話し合いやパフォーマンスがそれ自体で目的とされるような営みです。利害が関わってはダメ。
年金の心配とか生命維持に関わるのもダメ。
じゃあ、何?って色々な具体例を考えると楽しくなるかもしれません。

⓸の「社会的なるもの」について
これは、はっきり言って漠然としていてかなりわかりにくい概念です。
が、頑張って説明すると、アーレントの「政治」は人と人とが直接話し合ったり協力し合える営みですから、自ずとそれが実現する範囲というのは一定の限界があるように思われます。
ところが、大衆社会のように、人の数が無数に膨大化すれば、人と人のコミュニケーションは不可能になりますよね。
大衆社会では一人一人が孤独化するといわれますが、そうした人々の言論活動が不可能なほどに人口が増えると、効率化のためにお互いにコミュニケーションをもたずに済む領域が拡大します。
この文脈では、とりあえずそのような人々が孤立した無数の集団状態を社会状態が成立した領域といってよいと思います。
そこにおいては、人々は個性的に行為するどころか、無意識のうちに画一的な行動パターンをとるようになります(これは社会学者D.リースマンの「孤独の群衆」という研究で明らかにされました)。
言い方は悪いですが、そこにおいて人間はマス(群衆)という点で、虫や動物と変わらない行動パターンをとるわけです。
チャップリンは「モダンタイムス」の冒頭で、ヒツジの蓄群がいつのまにか地下鉄入り口から出てくる無言のサラリーマンにかさえ合わせているシーンでもって、そのことを秀逸に表現しています。
社会科学の統計方法は、その蓄群かしたという人間集団の傾向を明らかにする点で意味を成すわけですが、アーレントは社会科学的思考に批判的なわけです。
ま、社会科学の方法が悪いというよりも、社会科学がそうした人間のユニークネスに関係のないところに関心を向けることにアーレントは不満をもったのでしょう。

⓹「福祉国家」について
本文では「」がついているので、現実の福祉国家というよりは、私的所有の自由を守るための政治の権力と経済の権力を分離する構成体という、理論的な意味で使われていると思われます。
現実の北欧の福祉国家は、それこそ政治と経済(成長)の結合によって構成されているので、アーレント的な意味でいう「福祉国家」とはやはりずれるといわざるを得ないでしょう。
その続きの疑問については、なかなか複雑なところがありますにね。
アーレントによれば、私的所有の切り崩しは政治と経済が結合した資本主義の進展とともに進んだわけですから、少なくとも政治は経済と切り分けるとともに、経済権力の暴走に歯止めをかける役割を果たさなければならないことになります。
そこでの政治は、いちおう利害関係から切り離して判断する営みという点では、アーレント的な意味での「政治」に当たるとも言えます。
ただし、私有財産を確保するためになされる政治は、アーレントの「政治」概念とずれるじゃないか、とも言えそうです。
ただ、アーレントの場合はいつでもそうですが、概念同士を截然と区別しながらも、相互に浸透しあうところもないわけじゃないので、その辺はまぁ、適当に…と言ったら怒られるんでしょうけれど。
少なくとも、ハイエクのように経済の論理の自由に任せて政治は関わらないという意味での切り離しではないでしょう。
政治は生命の必然性を目的にしないことに存在意義=自由があるわけですから、むしろそこを保守することによって、結果的に経済の論理を政治に侵入させることに歯止めをかける営みとして、「政治」を再生しようという思惑が、アーレントにはあると思われます。

【いけだ】
今夜の読書会はお疲れ様でした。質問その1です。
自宅で繰り返し議論となるのが、アーレントのいう「政治」には役割りがあるのか?です。
アーレントが言う「政治」と「社会」で考えると、僕らのいう政治は「社会」のことであるので、小さい子がいるけど働きたい、この場合は保育園が必要、そうなると保育園を整備が必要。これは僕らのいう政治の役割だと思います。個人では限界があることをみんなで支えるのは政治の役割だと、これらも政治以前、社会の役割となると、「政治」の役割ってなんだろうと迷子になりました。
P37 8行目アーレントが~それが人間のあり方に深刻な変容をもたらすとアーレントは考えていたのである。人間のあり方へ影響を与えることが「政治」の役割と考えると、僕らのいう政治の役割はどこが担うのか?
あれこれ考えてしまいますね。

【しまぬき】
私も同じことを感じました。でもこの 「政治」はどこか魅力的でもあります。

【じゅん】
アーレントの場合、政治そのものが目的だと言っちゃうから、何かのための役割、つまり手段としての政治っていう議論はしないですね。
けれど、それは僕らの時代にはとっても想像しにくいことですね。
じゃ、古代ギリシアにそんなものあったのかよ、と言いたくなるけれど、アーレントは常にそうですが、けっして抽象的な哲学議論はせずに、必ず歴史の出来事にその概念の手掛かりを求める。
彼女には言葉というものが経験に基礎づいているという信念があると思います。
けれど、それは、いわゆる社会科学的なエヴィデンスを見つけるという仕方ではなくて、なんというか、彼女の理念形みたいなものが歴史の出来事の瞬間に垣間見えたものを、牽強付会といってもいいくらい強引に結びつける。
逆もしかりで、彼女が批判しなくちゃいけないものは、たとえごく一部触れているだけでもコテンパンにつついちゃう。
彼女のルソー論なんか、ひどいなぁと思うくらいです。まぁ、書かれたものだけを批判の手がかりとする人文学的手法ってそういうもんだといわれりゃそうなんだけれどね。

で、話を戻すと、政治の役割をあえていえば、共同の中で個々人を光り輝くものにすること、ではないでしょうか。
保育園設置の行動が非政治的なのではなく、もしその運動なり活動なりに取り組む過程で、たとえば「池ちゃんってこういう人なんだ~、へぇ~、意外~」と、他者が称賛したり感嘆したりする瞬間、それを出現させる営みが「政治」なのかなと思います。
黒澤明の映画「生きる」って、まさにそうだと思います。
凡庸で仕事に意欲も興味も何もない主人公の市役所課長が、末期の胃がんを自覚した瞬間に、それまで無関心だった住民からの要望である公園設置に同僚を巻き込みながら(協同に?)奔走します。
公園設置なんて、お役所としてはなんという仕事でもないといえばそうだけれど、その奔走に彼の「誰」性が突然際立って、住民たちが彼の葬式で泣いたりする。
さらに、お役所仕事をテキトーにやり過ごしていた同僚たちが、彼の生きざまを見て、一瞬だけれど公共に尽くす仕事人としてのプライドを取り戻す。
こうやって、彼の行為actionが、人と人との関係の網の目に「予期せぬ」actionを無限に連鎖させていく。
これを出現させるのがアーレントの政治なのでしょう。
なので、政治の役割は、というより誰かの個性が共同の内に際立つ運動そのものが「政治」なのだ、というこです。
まぁ、要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。

【マッケ】
<要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。>とかいうので共通理解があるようですが、私にとっては何のこと?
参加させてもらったグループでは今までの研究会、対話の中で、共通認識となっていることでも、私にとっては初めてのことで、何のことやら分からない。さらに、アーレントの独自の言葉の使い方、公共と社会の区別なども難しくしている理由です。
この研究会はアーレントの考え方、生き方を知ることが目的化せずに、あくまでもこれが手段であってほしいわけです。
現実の問題とどう関係して、私たちの生きる指針になっているかを議論してほしいです。

【じゅん】
失礼しました。
「祭りごと」は「政(まつりごと)」、すなわち政治の語源だということです。
和光市での読書会の差異に、佐藤和夫さんご自身がそのような例を挙げられたわけですが、これはいけださんにしか通じない話ですので、この会の参加者全員が共有しているものではありません。
長野県諏訪の御柱祭などは縄文時代にルーツがある祭とされますが、数年に一度のあの大祭のために人々が日々の生活を生き、協働で成し遂げることが千年単位で脈々と受け継がれているのはものすごいことですが、本来、祭とはそのような日常生活から解放され、人々が結集してある種の不思議な「力」を生み出すわけですが、それが「政治」であり、その不思議な結集力をアーレントは「権力」と名づけたと思われます。
(ちなみに、この「権力」も通常の暴力を独占した国家権力という意味とは異なるアーレント独特の概念です。)
そのように考えると、「祭り」は、それ自体が目的で、何かのために手段化される営みの事例として理解しやすいのではないでしょうか。
(神事のためとかいろいろタテマエがあるかもしれませんが、それ自体が目的となって人が集う活動であるという点では、むしろ理解しやすい例かと思いますが)。
しかもそれは、労苦以上の快楽をもたらす祝祭性が伴います。
現代ではそのような目的それ自体となる活動は、なかなか存在しませんが、アーレントの挑戦はその再発見を試みているととらえてはどうでしょう。
マッケさんご自身が実践されてきた研究会や対話の会の経験から理解をすることはできないでしょうか。
そうした目的それ自体になる活動が、今の社会のなかにはなかなか見つけにくいし、ほとんどの活動は何かの手段になっている。

この読書会が、アーレントを通じて生き方を現代社会の問題を考えるということを目的としているという点は、おっしゃる通り共有されていると思います
もし、それが伝わらなかったとすれば、それは私の力不足ですので、大いにご批判下さい。
むしろ、そこへの不満は具体的にどんどん出していただいて、この会全体で進めながら修正していければいいと思っています。
この本自体が「アーレントを読んだことがないけれど、読んでみようと気になる大学院生レベル」を対象として書かれたということですから、ある程度の専門用語を抜きに語ることは難しいかもしれませんが、そこはお互いに誤読を恐れずに言葉を言い換えながら挑戦してもらうしかないです。
そ私は現代社会の問題を意識して皆さんの問いに答えているつもりですが、それがわかりにくさをなおもたらしているのであれば、どこがどのようにわかりにくいのか、遠慮なく書いていただけないでしょうか。
アーレントの概念や言葉遣いがわかりにくいというのはそのとおりですが、そこは我慢してある程度辛抱していただけると、その過程から現代社会の問題を読み解いていくことは十分可能だというのは、僕自身がこうした哲学を読みだした経験からいえることです。
もちろん、次回はできる限り皆さんの議論が現代社会に結びつくように展開させましょう。

【しまぬき】
オープンな形で専門書(もしくはそれに準じたもの)を読むときには、それなりの準備や共通ルールの整備、などがあった方がいいのかもしれませんね。
空中戦ネイティブとしては反省すべきところです(マッケさん済みませぬ)。
ただ、この空中戦っていうのは、素人(だって読んだのは『エルサレムのアイヒマン』途中までぐらい)が、思いついたままにことばを垂れ流しているだけです(ライブ感は半端なかったですが)。
読書会を終えたらアーレントを以前より間違いなく読めるようになっていて、大きな効用を感じました。当然ながら誤読や曲解、勘違いを含めての話ですけれど。
論理的に理解できたとは少しも思いません。
分からなさの有り様が分かってきた、ということかな。
それは言葉をたくさん撃ち込まないと輪郭が見えてこない 「多動系+ 自閉系」のなせる仕儀、でもあります。
マッケさんの切り口から見るとアーレントの世界観ってどうみえるのだろう、というのにとても興味があります。

『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編①

2017-10-29 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第一回『〈政治〉の危機とアーレント』読書会では、Facebook上でも議論が交わされました。
以下、その記録もアップしておきます。


【マッケ】
マッケです。アーレントの本、43ページ最後の方
「科学的とされた経済学、心理学、統計学といった学問の在り方が、彼女にとって全体として批判の対象となる。」とあります。
「人間の条件」の最後の方に科学のことがまとめて書いてあったようです。
この本は、まだ手元にはありませんので、おたずねします。
科学と言えば、基礎になるのが自然科学、とくに物理学です。
これに対しては批判はあったのでしょうか。
相対性理論も、量子論まで、研究の対象になったかどうか分かりませんが・・・・。
経済学、心理学、統計学などは、権力側に都合のいい理論ができやすい分野だと思います。

【じゅん】
アーレントには科学批判があります。
1958年に書かれた『人間の条件』の冒頭は、スプートニクショックと試験管ベイビーのエピソードがから始まりますが、科学の進歩、というよりも科学者の欲望はまさに人間の条件そのものを根本から変更させかねない時代に入ったということを批判的に検討することが、この本の主題の一つです。
科学や仮設実験授業に取り組まれてこられたマッケさんや良心的な理系の方には、にわかに受け入れがたい論理ですが、僕なりにごくごく単純にその要素を説明すると、二点あげられます。

一つは、言語の問題にかかわります。
人間が語り合うことは、まさにそれぞれの経験がユニーク(個別的)であり、その言語化もまたそれぞれ異なるがゆえに、対話が必要となります。
しかし、科学では2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。
科学は因果論的に原因―結果を考える思考方法は可能ですが、そもそも「それに何の意味があるのか」ということは示せません。
いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられないということです。

この点で、科学的思考が人と人とが語らうという意味での「政治」の危機と結びついたというのが、アーレントの科学批判の根本にあります。
だから、科学者に政治的判断をゆだねることは危険だといいます。
なぜなら、彼らはそもそも「意味」について語り合う「言語」をもっていないというのが、アーレントの科学者に対する見方だからです。
「言語」は哲学にとって重要なテーマですから、これを単純に説明すると誤解が生じますが、あえていえば、理系の研究者と話していると、彼らがデータと法則の正誤の確認からはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正だという点に理系研究の根幹があることが示されます。
これは水俣問題に取り組んだ科学者の言説にも示されているのですが、それはまたの機会に。

もう一つは、アーレントは原子爆弾の登場ととも に、近代科学とは異なる次元に入った現代科学が、よりいっそう「政治」の危機をもたらしてしまったことを批判する点です。
アーレントにとって「政治」は、人と人とが語り合う根本的な人間的営みを意味し、これは「人として生きる」ということとほぼ同義です。
つまり、アーレントにとっては人と人とが語り合えない状況は、人間として生きるに値しない世界なのだ、というわけです。
近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は分析しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有しているというのです。
核は「政治」の営みどころか、人類の自殺や滅亡を可能にさせますからね。

加えていえば、現代科学は人間の活動(行為)しか持ちえなかった「予測不可能性」と「不可逆性」を「自然」にもちこむことによって、それまではある程度人間に制御可能だった科学技術を、その枠から超出させてしてしまったことに、「人間の条件」の危機を最大化させたといいます。
アーレント流にいえば、宇宙にしか存在しなかった核エネルギーを地上に持ち込んでしまったことで、それがどのような結果をもたらすか予測不可能になり、いったんそれによってもたらされたものは不可逆なものをもたらしてしまうということです。
これも原発事故を考えれば容易に理解できます。
放射線被ばくの健康被害の評価は科学者の間でも一定しないという意味では「予測不可能」だし、廃炉や放射性廃棄物の処分に関してはいまだ結論が見えません。
それどころか、この問題が人類が存在しているのかどうかわからない数万年単位で議論されざるを得ないという点では、もはや「不可逆的」な状況がもたらされたというのは否めないでしょう。という意味では、もはや人間の能力では、御しえないものを地上に持ち込んでしまったという問題です。

ただし、アーレントはこの「活動」の「予測不可能性」と「不可逆性」は、逆悦的ですが人間が自然法則に縛られない自由であることの証でもあるといいます。
しかし、科学を模倣する社会科学は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を無視し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない点に彼女は批判の矛先を向けます。
ベルリンの壁崩壊などがその例であるように、歴史は突然予測不可能なものとして動きます 。
しかし、社会科学はそこに関心を示しません。
社会科学は「なぜそれが起こったのか」ということを後付けで因果論的(科学的)に説明することに関心を向けるだけで、それを引き起こす予測不可能な人間の自由に関心を示さないわけです。
もちろん、戦争や貧困の原因を探る社会科学の方法の有効性は否定できません、しかし、アーレントが問いたいことは、その方法が同時に過度に精密化した結果(経済学の数学化!)、人間の自由そのものをなきものにしたという点にあるのでしょう。

【マッケ】
マッケです。
ていねいな回答ありがとうございます。文章の初めから、ひっかかりを感じます。
<2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。>
2+2=4
これは数学的表現であり、科学的表現ではありません。
というのは、きわめて抽象化した表現だからです。
よく、文系の人は、無条件、絶対的に、この式が成り立つと考えがちです。
誰もが疑いようのない事実として、この例を出します。
これは純粋数学上、つまり現実のすべてを捨象して<理想化>して考えた場合に当てはまるだけです。
ひとつひとつ具体的に考えるのが科学です。
①お金の場合→2円+2円=4円(貨幣価値)
②お金の重さの場合は1円玉は1gですが、
 現実には、すり減っていたり汚れがついたりで、4gより重かったり、軽かったりします。
③鉛筆1本といっても、長い物と、短い物があり、2本といっても新品の1.5本に当たる場合があります。
④水50ccとアルコール50ccを混ぜるとおよそ98ccにしかなりません。
 大豆1升と米1升は2升より少なくなります。大豆のすき間に米が入ることで、水とアルコールの場合を推測できます。
仮説実験授業では、これらのことについて選択肢を選んで予想を立て、大いに議論します。
科学的認識は社会的なもので、ひとりよがりでは認められず世界中の科学者が対話し、社会的認識になったところで真理と言えるのです。
<意味論>については、科学者はそれぞれが、人生観、世界観をもっており、それぞれの科学哲学だったり、さまざまな哲学、宗教をもっていたりするので、
そのことについて、どう意味づけるかも、それぞれのような気がするのですが・・・・
先ずはこのことについて、私が的外れなことを述べているのか、お伺いします。

【じゅん】
たぶん、お互いに前提としていることが相当違うので、少しずつどこに齟齬があるのか、理解を近づけていくほかありませんが、さしあたりマッケさんが「数学的表現」と「科学的表現」は違うということを確認で行きました。以下、それに対応する文を引用することでどこにずれがあるの示していきます。

アーレント『人間の条件』プロローグ・13頁
「科学によって作り出された状況は政治的な意味を持っている。言論の問題が関わっている場合にはいつでも、問題は本性上、政治的となるからである。というのも言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。
私たちの文化的態度を現段階の科学的成果に適応させなくてはならないという忠告がいつも繰り返される。しかし、この忠告に従うなら、私たちは言論がもはや意味をもたないような生活様式をきわめて熱心に取り入れることになるだろう。なぜなら、今日、科学は数学的シンボルの「言語」を取り入れざるを得なくなっているが、この「言語」はもともとは語られる言葉の省略記号として意味を持っていたものの、いまでは言論に決して翻訳しなおすとのできない記述を内容としているからである。だから、科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明であろう。
……
科学者の政治的判断を信じない方が賢明なのは、科学は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである。人々が行い、知り、経験するものはなんであれ、それらについて語られる限りにおいて有意味である。
……
この世界に住み、活動する多数者としての人間が経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからに他ならない。」


科学的認識が多数の科学者同士の議論によって真理証明を志向することは事実ですが、その論証過程で高度に記号化による法則が持ちられることは事実でしょう。(試しにウィキペディアの「万有引力の法則」をのぞいてみましたが、そこでもやはり記号によって記述されています)

この科学言語の意味については、岡本達明とともに『水俣病の科学』を書いた西村肇が「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)で端的にこう書いています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これが自然科学の教育を受けていなければ、理解が難しい事実を指摘したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといい ます。それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。
西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。

それについて西村は、「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識です。実験の際の生まの観察結果、生まのデータ、写真などです。これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。

そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。
事実の真偽を論争することは科学者でもありえますが、「意見」はおそらく「人それぞれ」だから無意味だということでしょう。

実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは福島においても生じたのではなかったでしょうか。
科学的事実であれば、「意見」を排した「実体知識」をすり合わせていけば、真理に到達するのに、余計な「意味 」を介入させることに科学者が我慢できない姿がそこには示されています。

だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」と言っています。
アーレントにとって「言語」や「言葉」は個々人のかけがえのなさや多様性に基づいています。
個々人の経験が多様であるからこそ、他者に理解されがたいからこそ、言葉は必要とされるのであり、対話が必要とされるにもかかわらず、科学者たちの世界にはそれが余計モノとされていることを、この西村の論考は如実に示していると思います。
それゆえに、核分裂の科学論争はあり得ますが、核分裂の武器使 用に関する政治的判断に関わる議論は科学者たちには無理だということを、アーレントは見抜いていました。
「政治」とは、「意見」の多様性が織りなす世界での活動ですから。

これが板倉さんの科学のとらえ方と異なるものなのかもしれませんが、しかし西村のそれは一般的であるように思われます。
もう少し言えば、板倉さんは科学の市民化を目指すのに対して、科学一般の論理はやはり科学者の官僚化に大きな力を発揮していく点を、アーレントは冷徹に見抜いていたように思われます。

【マッケ】
マッケです。先にいただいた文への感想です。

<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>
科学にかかわっている者はそれぞれ死の意味について考えていると思います。
「死の意味」とはどういうことでしょうか。
科学者は原子論で考えると、人間は最後は灰や気体になって終わる、と考えてはだめなのか。
よく天国にいる死者にむかって言葉をかけますが、
その人が、死者は天国で生き返るとは思ってはいないと思います。
「靖国で会おう」といういう死生観を植え付けようしたことは特攻隊というとんでもないテロをやりやすくしたものです。

どういうふうに考えれば、死の意味を考えたことになるのか、それが分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<日常的にも対話を不必要とする科学的思考が政治の危機と結びついた>
実験室に閉じこもり、物を相手に格闘していると世間にうとくなる、ということなのでしょうね。
これは科学者というより<専門バカ>と言った方がいいのでは。
これでは重要な発見もなしえません。
プロジェクトチームでいつも対話をして、学会で対話しなければ研究は進みません。
科学的思考が対話を不必要と考えるということは、
逆に芸術系の人は<科学的思考>が不必要ということになりでしょうか。
音楽などは、楽器の科学、音響学の発達があったから芸術としての音楽が発展した。

哲学のない科学的思考はホンモノでないと思います。
哲学の基盤を持たない科学者は二流、三流になる、と思っているので、
科学者一般がダメと決めつけるのはどうかと思いますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼らは、データと法則の正誤が確認できれば十分であり、そこからはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正なのです。>
これは数学についても言えることで、公式の深い意味を理解し、公式を自分で導くことができず、公式を当てはめて問題が解ければよい、
という実用主義(単に道具として考える)の人はそうかもしれません。
微分積分学は立派な哲学です。
ギリシャの哲学者は芸術家でもあり数学者、科学者であった人もあり、
まさに理想形でしたが、個別科学が進化して以来、専門バカが増えました。
だからこそ、学際的研究が叫ばれていて、研究者は少なくとも、もうひとつ副専門をもつべきだと言われています。
総合大学なら、学部を越えた交流が必要になってきます。

受けた教育、自分の勉強の仕方がまずいのですね。
数学にしても、科学にしても、芸術でも<歴史的に学ぶ>ということが哲学を身につけることになります。
科学の発展過程を学ぶと、自分のミクロな研究からマクロに見ることができるようになり<世界観の形成>をすることができます。

<近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は批判しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有している>
「近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩す」とはどういうことでしょうか。
現代科学の行き過ぎた所、倫理観の重要性は認めますが、近代科学はそうでないと思います。
迷信や悪い意味での宗教、言い伝え、偏見、非科学がもたらした弊害を近代科学はうちやびったことを一方で認めないと、
神風を信じて戦争することになるようなことになるわけです。
戦争の愚かさを見抜けなかったのは科学力がなかったことも大きいわけです。
日本の精神論、根性論は、見事にアメリカの科学技術、合理性に打ち負かされたわけです。

<社会科学の科学性は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を破棄し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない>
「科学とは何か」を考えることが非常に重要だと思います。その当時の社会科学が科学たりえていなかったのではないか。
板倉氏が「数量的に見る歴史」を提唱したのは画期的で、つい最近のことです。
社会科学といっても、実は学問の段階にとどまっていて、<科学>とは言えないものではないか。
科学とは、対象に対して、目的意識を明確にし、想像力をたくましくして大胆な予想・仮説を立て、それをいろいろな方法で検証する「仮説実験的認識」が非常に重要です。
アーレントの時代の社会科学の未発達がその科学性に疑いを持たせてしまったのではないかと思います。
現在でさえも、社会科学が真の科学になっているのか、それも分からないのでは?

【じゅん】
目下ゼミの準備にてんてこまいです。
加えて、論点が拡散してしまい答えるのが難しくなっています。
とりあえず、<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>について。

A.医科学的に死の判定基準は定まっていますが、なぜ人は死ななければならないのかという問いに科学は答えられないということです。

医学上の判定基準は死の3徴候のように、数値などを用いて死を客観的に判定できます。
それが科学の役割だと思います。
しかし、死をどのように迎えるかは科学には判定できないと思います。
本人や家族がどのように死を迎えるかは、その人たちの死生観、つまり意味づけではないでしょうか。
誕生に関して言えば、科学は胎児が障害をもって生まれる確率を提示できますが、それが幸か不幸かを決めつけることはできないでしょう。
そのような価値に関わる思考と科学的思考は分けて考えるべきではないかという点で、科学は死の意味に答えられないと、ひとまず言えるのではないでしょうか。

くり返しますが、そうであるからこそ(客観的に一致しないがゆえに)、それぞれの意味を他者と話し合う必要があるのだと思います。
死んだらただのモノになると思う人もいれば、天国に行くと思う人もいます。
死後の世界を科学が客観的に証明できない以上、その死生観はそれぞれでしょう。
カントは、そのことを因果論的にとらえる悟性(数学、経験科学はここでは区別しながらもこのカテゴリーに入ります)と区別して、証明できない問いを考える「理性」としました。不死、神、自由は因果論的に証明できないと考えたわけです。
その意味で科学者が様々な死生観をもつことは当然のことですが、それと科学的に死を判定(認識、評価)することは別です。
「靖国出会おう」という死生観を国家が植えつけることはあってはならないとは思いますが、それは科学認識とは別の位相、つまり意味や価値に関わる問題ですから、科学的に誤っていると判定すべきものではないでしょう。
できることがあるとすれば、なぜ自分と相反する考え方をもつのか、それぞれの考え方に至る背景や理由などを語らいながら、「理解」を深めていくことではないでしょうか。
もし、その思想に問題のあるのだとすれば、なぜそういえるのかは科学的思考とは別に政治的倫理的思考の対象だと思います。
戦後の社会科学は戦争を二度と起こさないために進んできたことは評価していますが、戦争が起きた原因を明確にすることと、なぜ戦争を起こしてはならないのかを意味づけることは別の作業だと思っています。
意味や価値づけをしないままに、科学的手法を用いるのが官僚的であというのは、ご指摘の通りだと思います。
僕は、単純に科学を原因―結果の因果関係を明らかにする学と認識しています。
科学者に哲学は必要かもしれませんが、それはいわゆる科学的方法や思考と区別されるものではないでしょうか。

【マッケ】
科学が記号を使うことに懸念があるようですが、科学より数学がより以上に記号を使います。日本語の漢字は記号ではありませんか。音楽の音符も記号です。その音符もどんな楽器でどのように演奏するかによって全然変わります。
あらゆる分野で記号が使われますが、人間の作り出した、すぐれた文化だと思います。
その記号を内容のないものにするか、豊かなものにするかは、使う人の教養の豊かさによって決まると思っています。記号はとてもシンプルですが、その背景にはとても多くの概念が集約されています。
最もシンプルな<1>という数字を<数>としてみた場合と<量>として見た場合は全然違います。
数は、非連続(分離量)であり、量は<連続量>なのです。連続量には<無限>の概念がつきまといます。
無限は宇宙の世界までつながり、夢とロマンを語ることに結びついて楽しくなります。数は<数えるもの>であり、量は<測るもの>です。
測る作業には誤差がつきものです。また測った量をどう解釈するか。
例えば、0.0001を影響のあるものと見なすか、ほとんど影響のないものと見なすか。
それは時と場合によって異なります。これを科学では<程度の問題>と言って、とても重要な問題です。
自分の体重を量るとき、0.0001Kgはほとんど無いもと見ますし、有害物質の場合は無視できなくなります。放射能を考える時、危険と見るか、ほぼ大丈夫と見るかは、条件の中で考え、絶対的に硬直的に考えるのでなく、相対的に柔軟に考えるのが<程度の問題>です。
また、見る角度、自分の立ち位置を変えてみるという<相対性原理>はとても重要だと思います。見方を変えることで、今まで見えなかった世界が見えてきます。
「発想の転換」「パラダイムシフト」は科学の歴史の中で重要な役割を果たしてきました。

【ねもち】
結局、科学ってなんなのでしょうか?
科学=哲学なのでしょうか?
科学を細分化する意味はあるのでしょうか?人文、社会、自然、この一般類型に意味はあるのでしょうか?
科学の一般的な辞書的定義はただしいのでしょうか?

【マッケ】
じゅんさんはゼミに集中してください。
ねもちさんから質問がありましたので。
<科>とは病院の○○科のごとく、個別という意味です。全体をいっぺんに見られないから個別に分けて見るというわけです。
「分ければ分かる」という発想です。しかし、絶えず<総合>という作業をしていかないと専門バカにおちいります。
かつてすべてを語った哲学者アリスとテレスをガリレオは、落下の法則の説明で打ち負かした。
大きな風船も針一本で破裂させるのと同じ事です。科学の方法の根幹は「大胆な発想で仮説を立て、観察事実、過去のデータ、実験、論証、時間的経過などで、仮説が正しいかかどうか裏付けをとり、真理にせまっていく」ことだと思っています。
科学は個別具体的な問題を対象にし、哲学は全体的抽象的にとらえると言う点で違いますが、個別の問題を考える時、その人の持つ哲学が発想の原点になり、また逆に個別の問題を極めて原理をつかんだ時にそれを自分の哲学を豊かにし、深化できると思っています。
もともと科学は自然科学が先に発展しました。
その方法論を社会、人間に対象を広げていきつつあります。
もともと大きな対象を細分化したのではなく、細分化したところから、総合化しようとしているのだと思います。

第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・議論のまとめ

2017-10-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回目の佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が終わりました。
スカイプでの言論カフェはすでに実践済ですが、複数人による通信がどこまで可能なのか、今回はその可能性が問われました。
結果的には、スカイプでの議論の参加は6か所(福島市2・郡山市・いわき市・和光市・金沢市)でつながり、合計10名による空間を超えた言論カフェが実現しました。
その中には議論には参加せずに、対話を聞くだけの参加という方もいらっしゃいましたが、平日の夜にこれだけの方の参加が実現できたというのは、実験としては大成功なのではないでしょうか。

さて、肝心の中身ですが、渡部が準備したレジュメに沿って、各自の疑問やコメントをいただきながら1時間30分の読書会が進められました。
前もって言えば、議論の時間をもう少し取りたかったところ、レジュメが細かすぎた感があり、内容理解に時間がとられすぎたかなという反省がありますが、参加者の皆様はどのようにお感じになられたでしょうか?

まず、アーレント独特の「公的なるもの」「社会的なるもの」、「私的なるもの」というキーワードについて質問が挙げられました。
ふつう、「公的なもの」は「社会的なもの」とされるのだと思うけれど、そこに何の違いがあるのか。
まずアーレントにおいて「私的なもの」とは、生命や生活の維持・保護に関わるものを指し、それは家庭や家事といった領域でなされるものだった、と古代ギリシアにさかのぼって論じます。
これは、生命の必要(必然性)にかかわるもので、生物としての人間にとっては生きる以上、決して解放されることのないものです。
そして、そうであるがゆえに、自由とは相いれない営みになります。
したがいまして、「公的なもの」というのは、その生命の必要性から解放された、古代ギリシアにあったとされるアゴラ的空間で営まわれる自由な対話活動などを指します。
これが、すなわちアーレントの言う「政治」にあたります。
古代ギリシアでは、生命維持や生活の保持に関わる家事・育児全般は女性や奴隷にまかせておいて、それから解放された「政治」営みが「公的なるもの」です。
ここを指して、何だアーレントの自由なんて父権的で貴族的な自由じゃないか、という批判は常に付きまとうのですが、そこに拘泥すると彼女の言いたかったことが見えにくくなるので、とりあえずおいておきます。

しかし、アーレントはこの公私の区別が、近代の国民国家の登場によって破壊されたといいます
「私的なもの」、つまり生命の必要性に関わるものが政治の主題になってしまったことで自由の公的な領域が壊されてしまったというわけです。
そして、この境界を壊したものが「社会的なるもの」です。
僕らの社会生活を考えてみれば、年金から国民健康保険、保育園設置など、生命維持やと生活保障に関わることを担うのは政治の役割だというのが常識ですよね。
ところが、これがアーレントにとっては「政治」の自由を破壊するものだという。
なぜか?

これを考える上では、なぜ国家が国民の健康管理から生命維持に関与するのかを考えてみるといいと思います。
すなわち、国民国家の安全保障のためには健康な兵士が必要となります。
また、国家の財政基盤維持のためには産業の成長が必要であり、それに従事する健康な国民も必要になります。
さらには、これらの国家の(健康)方針に主体的に協力するような従順な国民が必要であり、愛国心をもつような国民教育を行う必要もあるでしょう。
学校教育における健康維持教育はこれらの延長線上にあるわけです。
これはフランスの思想家フーコーの議論ですけれど、こうした国民国家を維持するためには、国民は健康でなければならないという国家の意志がはたらくわけです。
この健康思想は優生思想にまでいきつき、働けない人間は無用な存在だと、ナチスが障害者安楽死政策を行ったことは歴史的事実として記憶しておく必要がありますし、それを受けて引き起こされたのが相模原事件だということも忘れるわけにはいかないでしょう。
日本でもハンセン病患者の強制堕胎や断種政策が人権侵害だと裁判で認められたのは、つい最近のことですよね。
アーレント自身はそこまで議論したわけではありませんが、国民全体の生命・健康管理を国家が担うという思想は、いきつくところまでいくと、国民のなかでの優劣を選別し、殺されても当たり前だという国家主権という暴力を保護するはずの国民にふるうことを正当化してしまうことの問題性は考慮しておく必要があるでしょう。
ちなみに、こうした国家の国民健康管理と同時に、国民全体のために廃棄できる権力を、現代思想では「生権力」と呼んでいます。
まぁ、国民の生活保障とう政治の目的には、同時にいつでも国家全体のために個々の生命が犠牲(廃棄)に供される思想が孕んでいることには気づいておく必要があるでしょうね。

話を戻しますと、「社会的なるもの」というのは、本来、私的領域でなされていた生命維持や生活保障の問題を社会全体で解決させようとするものだととらえてよいのだと思います。
佐藤和夫さんは、そこに「市場の原理」を例に挙げたりもしています。
今日の市場原理は国家とは異なりますが、なるほど生活に必要なものの交換がなされていた「市場(いちば)」が、今日ではグローバル化したことで、その「生命の必然性」を全世界的な経済活動の目的にしてしまっていますからね。
畢竟、政治の目的はこの経済のグローバリゼーションにどう乗っかるかを決める営みだと思われています。
こうなると、アーレントがいう「政治」はないも同然です。

それにしても、やはり生命の維持や生活の保障を、なぜ政治の問題にしてはいけないのか、容易に腑には落ちないでしょう。
このことを考えることがこの読書会の最大の目的になりますね。

このことに関して、アーレントのいう「社会」とは、社会主義国家の「社会」ともいえるんじゃないか、という意見が出されました。
なるほど、社会主義国家においてはまさに国民の生命生活の保障を至上命題にしていたはずですからね。
そうとも言えるかもしれません。

議論はアーレントの科学批判という点にも疑問が差し向けられます。
「仮説実験教室」という教育実践に30年取り組まれてきた方からは、社会科学的に物事の真理に迫ろうとすれば、仮説を立て、それについて議論し、問題の原因を突き止め真理に至るというプロセスが、どうして反「政治」的なのかという疑問が出されました。
さらに、金融企業に勤める方からも、職業上、そのようなことは理解できるという意見が出されます。
経済学が社会科学の模範例だとされるのは、なるほどその補足性や規則性が一定程度確保されるからでしょう。
けれど、たぶんアーレントは「政治」において法則性や真理を排除しようとします。
もし、それを前提とすれば、まさに話し合う必要がないわけです。
いやいや、真理探究のためには科学だろうが社会科学だろうが、仮説を検証するための対話のプロセスは必要なはずだ。
そもそも、自然科学の真理と社会科学の真理は別だろう。
こうした反論も出されました。
たしかに両者の真理は別物だといえます。
けれど、問題は「真理」を前提に話し合うことは、最終的に個々人の「意見」は邪魔になるはずでしょう。
西洋の哲学史において個々人の偏見ともいうべき「意見」は「真理」の対極にあるとされてきました。
しかし、アーレントは、この「真理」を政治にもちこむことが、プラトンの哲人政治などと結実してしまい、個々人の判断は蔑ろにされてしまう政治に転じてしまったとみるわけです。
ただ、この議論は延々と尽きないので、ここは、ぜひ佐藤和夫さんをお招きしたときに議論したい点ですね。

また、これに関しては多数決は本来の民主主義ではないという意見も出されました。
アーレントは民主政を危険視しています。
それは独裁の暴政が単なる多数者の暴政に転じるからです。
ナチスの政治をユダヤ人として身をもって経験した恐怖がそこにあるのでしょう。
でも、民主主義って、話し合いを基本として決めるもので、多数決なんてただの技術的な問題じゃないか。
その通りだと思います。
しかし、問題は話し合いで解決できる範囲とはどのようなレベルでしょう?
国民全体で話し合うことは不可能です。それゆえ多数決方式の選挙制度が導入されるわけですが、アーレントはおそらく現実的に話し合いができる範囲において「政治」は可能になると考えていたのではないか。
それをタウンミーティングというアメリカ独特の政治文化に見出し、それが下から連合していく細かい連邦制を構想していたと思うのです。
なので、本来の民主主義は話し合いによってなされるというのは、その通りだと思いますが、その本質だけを述べただけでは、話し合いの意義が見失われるように思うのです。
問題は、その話し合いが不可能なレベルで政治を実行しようとするときに、多数派の暴政が現実化するという問題を考えよう、ということなのだと思うのです。
ちなみに、アーレントにおいてはそれは共和政であり、多数性の暴走に法的な歯止めをかける仕組みを考えていたという点では、今日の立憲主義のような政治体制が望ましいと考えていたようですね。

さて、今回の議論でやはり、もっとも議論の焦点になったのは、アーレントの「政治」ってそもそも何?なぜそれが「自由」なの?実際にどんな例を考えればいいの?という点でした。
これに関しては、二週間前に和光市でおこなれた読書会の際に、佐藤さん自身が「政事=祭りごと」と語り、「祭り」の祝祭性を例示したことが挙げられました。
これには、一同ピンと来るようでピンと来ないという感触があったようです。
それは、「非日常的」であるがゆえに「日常」では経験できない。
しかも、そのとき、佐藤さんは「この自由は経験できたものしかわからない」と発言されました。
これはアーレントも同じ事述べています。
フランスの対ナチレジスタンスが、その活動の最中にはお互いに「自由」を経験したにもかかわらず、終戦後、それを言語化できずにその政治の自由という「宝」を後世に伝えられなかったということを問題にしています。
その点で、「政治」の自由は言語化も難しいものということができますが、しかし、ではそもそも経験したものにしかわからない「政治」や「自由」なんて、どんな意味があるのか、という点が議論の俎上に上がりました。
これもまた、著者を招いた時に議論したい点ですね。

もちろん、これ以外にも議論になったことはありますが、私には手に余る(というか記憶に残っていない)ものなので、参加された方からご自分の問題意識や発言をコメントに随時アップしていただければ助かります。

アーレントが経験したヴァイマール期の政治的危機の時代が、今日の日本の政治・経済的危機に重なるという点では、参加者一同ものすごく納得がいったようです。
そのような「政治」の危機において、果たしてアーレントを読む意味は何か。
参加者のお一人は、アーレントの「政治」や「自由」って、実はよくわからないんだけれど、社会や政治が危機になると常に召還される思想という点では、ものすごく人々を惹きつける何かがあるのは間違いないといいます。
さらに議論を深めていきましょう!(文:渡部純)