今回の『〈政治〉の危機とアーレント』第二章「人間の条件と20世紀」を対象とした「読む会」はSkype通信で9名の参加者に恵まれました。
しかも、福島市の某所に集った4名は、そこのご子息らによるバイオリン&チェロの優雅な演奏で迎えられ、至福のプレリュードを過ごすことができました。写真は、お兄さんのチェロによるパブロ・カザルス風「鳥のうた」の演奏風景です。しゅんたろうくん・こうたろうくん、ありがとう!スパークリングワインも格別でした!(飲み会じゃないよ!)
というわけで、今回の「読む会」は前回の反省を踏まえてレジュメを短くまとめ、各人が本書の文章に即して自分の意見を述べ、議論しあえる時間を取れるようにしました。しかし、これはこれで本文の丁寧な読解を省くという点で、内容理解が断片的になってしまうという問題も生じます。ここは、参加者のご意見をお聞きしながら、さらに工夫を凝らさなくてはいけませんが、何事も「仮説実験」ですので、このものまま凸凹しながら進めることにしたいと思います。
さて、今回のレジュメは思い切って、かなり省略して二つの論点に集約しました。
一つは、アンドレ・マルローが描く清ジゾールとブーバー=ノイマンの生きざまの比較を通じて、「人間はどのような「条件」において悪魔か天使になるか」を問う点です。
もう一つは、「労働」という人間の条件を中心に、アーレントが影響を受けたシモーヌ・ヴェイユの議論をめぐって「奴隷的でない労働の第一条件」を問おうという点です。
まず、アンドレ・マルローが描く『人間の条件』では、国共合作において自己が引き裂かれる中国共産党員の姿が描かれますが、そこにおいて清ジゾールが「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、この光の中に散らばっているなんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語る場面があります。
そこに佐藤氏は「信じるにはあまりに残酷な現実を前にして、人はどのようにふるまうのか」という一つの姿を見出します。いわば、思考し続けることの困難、あるいは思考しない自由を求める姿が、そこに描かれているといっていいでしょう。
そして、この思いは、原発事故災害下で多くの被災者が経験したのではなかったでしょうか。
しかし、他方でカフカの恋人ミレナとともにソ連とナチスドイツの強制収容所を体験したブーバー=ノイマンは、「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができたといいます。
この二人の経験の違いに佐藤氏は注目し、「『考える』営みが個人的性格ではなく世界との関係において規定されてしまう問題」、そして「どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ない」ことを指摘しています。
続けて佐藤氏は、マルローが「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」と述べたように、サルトルが「自由」を、そしてカミュが「理性」を引き合いに、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死すべきもの」という人間の条件(勇気、自由、理性)そのものに向けられたという点に着目します。つまり、自由や理性のために死が肯定されたと言い換えてもよいのではないでしょうか。
そして、そこにおいて「思考の闘いから「政治」(行動)へ逃避しようとする実存主義にとって、「政治」の公的領域に接近できるのは「革命のとき」だけだったというわけです。
実は、これまで筆者はなぜアーレントが対ナチ・レジスタンスについて「思考から行動へ逃避した」という評価をしたのかよくわからなかったのですが、それがこの部分を読み終えて急に腑に落ちた気がしました。
これまで筆者は原発事故下での被災者からその経験を聞き取る中で、原発を容認してきた過去とそれに反対する現在の自分とが折り合わないという話をしばしば耳にしてきました。
放射線の汚染地域に残った選択を他者から責められることにしばしば傷つきながら、将来の不安と過去の選択のはざまで折り合いをつけられない人の苦しみを耳にしてきました。
そこには、県外の人びとから「福島県民はここまで理不尽な目にあいながら、なぜ声を上げないのか」と発破をかけられると、行動を起こさなければならないという焦燥感と、それができない自分の負い目に苛む声もありました。
いみじくもノーベル賞作家のアレクシエーヴィチも、福島を視察した後に「日本には人々が団結しあうという形での抵抗の文化がない」と評したものです。
この出来事になにがしかの負い目を抱く被災者は、そのような声を耳にすると、いち早く行動に移さなければならないという焦燥感に駆られるものですが、それは裏を返せば、この苦しみから解放されたいという心理的反応ともいえるでしょう。
しかし、そこには同時に、この出来事に対して腑に落ちないままに行動に移ることが、どこか自分自身を押しとどめている実態もあります。
行動に移れない自分は「勇気がない」だけなのだろうか、「自由」を放棄しているだけなのだろうか。
そんな思いももまた、それらの人々の言葉からは窺えたものです。何より、これらの経験は私自身のことでもあります。
アーレントは、『過去と未来のあいだ』で「思考」の経験についてカフカの寓話を引用しながら、過去と未来の両方から押し寄せる「力」に対して、「現在」という頼りない場に何とか踏ん張りながら、両者と闘わなければならない営みだといいます。
過去の自分の為した(為さなかった)負い目との折り合いのつかなさと、将来自分に何が起こるかわからないという不安とのせめぎあいの中で、この「原発事故」という出来事と和解することを目指しながら、「思考」の場に踏みとどまること。
これもまた「抵抗」の別の形なのではないか。そのような理解の仕方において、アーレントの「思考から行動への逃避」という文が腑に落ちたわけです。
しかし、この部分に対しては、少なからぬ反論が提起されました。反論というか、このアーレントの考え方には到底納得がいかないというものです。
その理由の一つは、まるで「思考」が「行動」よりも優れているといっているとしか聞こえないというものです。なるほど、このレジュメのまとめ方だけでは、そのように受け取られるでしょう。
なぜ、行動がだめなのか。「行動しながら思考できる」という参加者からは、思考/行動を区分する二項対立的なアーレントのとらえ方は納得ができないといいます。
「逃避」とは何事だ!というわけです。
これに対して、別の参加者は、デモに行ったりすると、それまで自分のなかだけで悶々としていたものが、仲間がいることで安心するという感じがしたという経験もあるから、「行動への逃避」という表現はわからないではない、という感想も出されましたが、違和感を示す方が趨勢でした。
正直なところ、これらの批判的感想に関しては、「え?ここに反応するの?」という驚きを覚えたものです。
これらの反応にどう捉えればよいでしょうか。
まずアーレントが「行為action」ではなく「行動behavior」としている点は無視できません。アーレントにおいて前者は「自由」に対応するのに対し、後者は「画一性」に対応する語です。つまり、動物的な反応において営まれるのが「行動」ですので、そこ点を考慮しなければならないでしょう。
このことを「浅慮」による「行動」と表現された方もいらっしゃいました。では、思考した上での行為はすぐれているのか?
これについて、別の参加者から「アーレントは思考した後にどうなると考えていたのか?」という質問を投げかけられました。アーレントにとって、「思考」は知識をもたらすわけでも、正しい答えや良い行動指針をもたらすものでもありません。
むしろ、思考する間、その人は世界から「ひきこもり」、外見上はじっと固まっているように見えます。
じゃあ、なぜ思考するのか。
アーレントは、ただこれまで「正しい」とか、「常識」と思い込んでいた事柄を解体してしまう営みを「思考」ととらえます。
したがって、「思考」とは何か行動指針を提示するものではなく、むしろその吟味を通じて解体してしまう営みなわけですので、彼女の定義上行動が同時に起こりうることはありません。
行為や行動を麻痺させるネガティヴな考え直しを迫るもの。それが思考です。
これを営んでいる間はつらい、というのは過酷な出来事を経験する中で、思考と止めてしまいたいという清ジゾールや原発事故の被災経験者の言葉からも理解できるのではないでしょうか。
そこに踏みとどまれずに、行動に移ったのが、実存主義的な傾向性をもったレジスタンスではなかったか。
もちろん、そのすべてではないにせよ。
それでも、やっぱり「現実との和解」というフレーズが納得がいかないという参加者の声もありました。
本書では言及されていませんが、これは「理解」のことだという点を触れました。アーレントは「理解と政治」というエッセイの中で、「現実との和解」を「理解」という営みで説明しています。
「出来事」の「意味」を探求し続ける「理解」は、ほとんど終わりのない営みなのですが、それは彼女にとって「全体主義」という前代未聞の出来事と闘う上で欠かせないものでした。
「理解」はどこか「思考」に近い感じもしますが、「思考」が「思い込み」を解体する営みであるのに対し、むしろ「理解」は破壊された「世界との和解」を目指す点で、やはり別の営みでしょう。
人は、どこか前代未聞の出来事と言いつつ、それまでにつくられてきた概念を用いることで、なんとかそれへの対処法などを模索します。
しかし、そもそも未曽有とか前代未聞の出来事に対して、従来の概念では対応できるものではありません。
それまでの「帝国主義」という概念で「全体主義」に対処しようとしても、対応策を踏み間違えるだけです。
それは「原発事故」という出来事に対して、従来の「公害」という概念では不十分な対応に終わってしまうということです。
そこにおいてこそ、「思考」や「理解」の営みが意味を持つのではないでしょうか。
しかし、これは苦しい闘いです。
そもそもなかったものを、新しい概念で名指そうという営みは格闘以外の何ものでもありません。
ならば、いっそ従来の抵抗の仕方で対処しようした方が、なにほどか自分がそれに役立ったという思いに浸れるかもしれません。
しかし、出来事と自分のあいだに違和感や齟齬を覚える人々は、一足飛びに行動へ移れません。
その人間的な意味を見出す余地が、この部分にはあるのではないでしょうか。
したがって、ここでアーレントは「思考」が「行動」の優位にあるといっているわけでも、「思考」すれば正しい「行動」がとれるといいたいわけではないということだと思います。
自分と出来事とのあいだにある齟齬との和解を目指す精神の営みが殺されない人間の条件とは何か、と問うているのではないでしょうか。
いわば、抵抗=暴力的蜂起を促したサルトルとは別の仕方があったのではないか。
その意味で、今まさに「抵抗」という概念そのものが問われているのかもしれません。
もっとも、沖縄の人々あたりにはいつまでもたゆたっている場合じゃねぇだろと突っ込まれそうですが。
しかしながら、やはり皆さん、この部分は消化不良の感があったようなので、ここはぜひ著者と語る会において、ぜひ佐藤氏へ疑問を投げ込んでもらいたいと思います。
もう一点。
こうした「思考」という精神の居場所が殺されずに済む為には、ブーバー=ノイマンがミレナという悲惨な現実を共有し、語り合えたパートナーという意味での他者が存在したということが、大きな「条件」であったという点は、「人間の条件」の重要な要素として確認しておく必要があるでしょう。
というわけで、後半は第二の論点、すなわち「労働」の問題に移ります。
ここは皆さん、体験的に理解が進みやすいところであったかなと思います。
労働の過酷さの本質は、まさにヴェイユ=アーレントの指摘の通りで異論はありませんでした。
ただし、果たしてそう単純に労働には喜びや自由をないと言い切っていいのだろうか、という疑問が出されました。
いくら労働といっても、やりがいがあったり達成感があったりすれば、誰でも喜びを感じます。
すると、一概に奴隷的な労働と労働一般を一緒くたにして良いのだろうかという疑問が生まれるのは当然です。
アーレントは概念を厳密に規定するがゆえに、「それは言いすぎじゃない」と思われる個所はいくらでもありますが、その典型的な例が「労働」概念に現れているともいえます。
アーレントの言う労働は賃労働じゃないの。だから、それは近代的な意味での労働概念だよね。
確かに、そうとも言いたくなりますが、彼女はあくまで古代ギリシアからその概念をもってきているわけなので、時代限定的なものではないはずです。
それでも、身近な経験でいえば、職場の同僚関係がうまくいっていれば、毎日が楽しくなるという意味では、円滑な「人間関係」が形成される労働環境であれば奴隷的ではなくなるのではないかという意見も出されます。
また、職種にとらわれずにフレキシブルに職場異動することで、会社全体の動きをつかむことができることは労働する上でも自由や存在感を得られるという意見も出されます。
むしろ、そこにおいて人事聴取などで若手から「自分は何の役に立っているのか」という質問が多く出されることは、そのことと大きく関連していることだといいます。
職場において自分が何の仕事をしているのかわからないというのは、マルクスの「労働疎外」でも指摘されることですが、こうしたいわば自主管理や協同管理システムが自由な労働と結びつくのはないかというのは、空想社会主義者と揶揄された社会主義者たちの思想にもありました。
スペシャリストではなくジェネラリスト。
こうした労働環境の構築は、依然欠かせない課題であることは否めないでしょう。
しかし、そうであるにもかかわらず、アーレントがヴェイユから読みとった、労働と自由の相容れなさをどう考えるべきか。
アーレントのマルクス批判の要点の一つは、最終的に資本主義が解体し共産社会が実現されれば、労働のないユートピアが到来するとした点に向けられています。
アーレント=ヴェイユにとっては生命の必然性から人間が解放されない以上、それに対応する「労働」からも人間は解放されないどころか、それをなくしてしまうことは、「人間の条件」そのものを破棄してしまいかねないことになります。
言い換えれば、それを失ってしまっては、まさに人間であることをやめてしまいかねない、ということになるでしょう。
そうではなく、人間は「労働」という条件から解放されえない以上、その在り方をどうしていくべきかを試行錯誤しつつも、「活動」や「仕事」という領域をいかに確保していけるか。
とりわけ、「自由」に対応する「活動」や「政治」の公的領域を失いかけている近代人は、それを自覚しようぜっていうことではないでしょうか。
したがって、生命の必然性に支配される「労働」にそれとは対極にある「自由」を結びつけちゃうのは、「自由」そのものを失っちゃうよと、「人間の条件」の概念区分の混同の危うさを指摘しているのが、この章の骨子なのでしょう。
おそらく、その背景には「労働すれば自由になれる」という標語がアウシュビッツ収容所の門に示されたことと無関係ではないでしょう。
働けば自由になれるという観念は、どこか経済的自立こそが自由の実現という形になっても流通していますよね。
もちろん、それは大事。だけれど、「自由」はそれとは別にあるものだよ。それを間違えないようにしようね、ということなのでしょう。
たしかに、労働環境の改善によって「労働の自由」あるいは「自由な労働」というのは実現されるかもしれません。
しかし、アーレントが問題にしたいのは、極限の状況になったとき、労働の必然性がその暴力をあらわにするということではないでしょうか。
これは、本書でたびたび指摘されることですが、高度経済成長のように経済的豊かさが充実しているところでは、なかなか見えにくい労働の暴力性を指摘しているのでしょう。
いくら、自由裁量や自主管理の経営形態がとられれば、いくぶんか労働の強制が軽減されるかもしれないけれど、結局その条件そのものは廃棄できない。
逆に、経済成長が見込めない現実の社会を見れば、雇用形態から労働形態まで、労働弱者に対する絶望的な抑圧が法改正によって進められています。
そこにおいて、「そんな労働が嫌ならどうぞ働いてもらわなくて結構。ほかに働きたい人はいくらでもいます」という暗黙のメッセージを発し、「働かなければ生きていけない」という必然性の論理でもって自由を束縛します。
そこにおいて、生存の限界状況があらわになったところに剥き出しの暴力を発現するわけです。
アーレントはいつでもそうですが、おそらく最悪の状況になったときの人間性が「人間の条件」によって、いかに左右されるかをつきつめて論じようとします。
一見、そんな無茶苦茶なと思うこともしばしばありますが、しかしまさに「〈政治〉の危機」において、それがあらわになるものでしょう。
それが本書を貫くアーレント解釈の中心にあるように思われます。
しかし、しかしです!もしかすると、その条件の重要性に気づいた時には、既に世界は取り返しようのない危機に陥っているときなのかもしれないのです!(文:渡部 純)