フィラノヴァの聖トマ大司教 St. Thomas de Villanova Ep. 記念日 9月 22日
この聖人は西暦488年スペイン、カステリア州の一小都市ヴィラノヴァに生まれた。両親は別にこれという財産もない人々であったが、共に信仰厚く慈善心に富み己の窮乏も顧みずに貧民を助けるという風であった。その称うべき心がけが愛子トマに遺伝し、後に偉大な博愛の聖者と仰がれるに至った事を思えば、その家門の面目は全く情け深い父母への天主の御報酬と考えられるのである。
トマは敬虔な両親を見習い、幼少の時から慈悲憐憫は勿論、潔癖及び聖母マリアに対する特別な尊敬心をもって育った。されば彼は早くから司祭になって身を天主に献げようと志したのも敢えて異とするに足るまい。
トマはアルカラの大学を卒業すると、僅か26歳の若年で名高いサラマンカ大学の哲学教授になったが、なおこの世の名利をよそにひたすら天主に仕える為アウグスチノ修道会に入り、三年後叙階の秘蹟を受けて司祭の資格を得た。それからトマは旧に倍する熱心を以て信仰の道に精進し、ミサ聖祭を執行中感動の余り落涙したり、愛らしい幼子イエズスを我が腕に抱き奉る恵みを与えられたりしたことも幾度となくあったという。
しかし一方にはまたその深い神学上の知識を傾けて神学生達を教え、或いは天主の聖言を信者達に説き聞かせなどし、布教上の功績も少なからず、スペインの第二の使徒と称せられたほどであった。
その後トマの名声はいよいよ高く、スペイン皇帝カルロ5世から宮中聖職者に招聘されるに至ったが、謙遜な彼は、その任に非ざるを懼れ、且つ宮中の豪奢な生活を目にしては浮き世の栄華快楽を慕う念が兆さぬかを懸念し、切に之を辞退した。しかるに皇帝は辞退されていよいよ名利に恬淡な彼の人柄が奥ゆかしくなったと見え、重ねて懇望されたから彼もついに拒むに途なく宮廷付き説教師として赴任した。やがて皇帝はトマをヴァレンチアの大司教に挙ぐべく教皇に交渉された所、教皇も彼の学徳兼備はかねてから御承知であったので、早速1545年1月1日、枢機卿タヴェラのヨハネを遣わし、彼を大司教に叙階せしめられた。
それ以来トマの活躍はひとしお目覚ましく、貧民病者の救済、不幸な人々の慰問、罪人の改心、信者の信仰心の振興、司祭修道者達の生活の粛正等に文字通り三面六臂の働きをしたのである。
彼は我が身の費用を極度に切り詰め、貧しい生活に甘んじながら、困窮の者病める者などを救う博愛事業には年々三千ズカトの巨費を投ずるを惜しまなかった。そして個人として時々500人ほどの貧民を集めてこれに食事をさせたという。その上彼はこうした慈善の精神を裕福な信者間にも鼓吹するに努めた。
1545年、トリエント市に公会議が開かれると、トマも召されて同地に赴いたが、不幸病を得て列席出来なかった。しかし彼が病床にあって天主に献げた熱心な祈祷は、どれほどその会議の成功にあずかって力があったか知れない。なおスペインの司教達が海路イタリアに向かう途中、大暴風雨に逢って既に乗船の沈没は免れないと見られたのに、不思議にその危険から救われたのも、同じくトマの祈祷のおかげと伝えられている。
謙遜なトマは常々自分の如き不肖な者が大司教の重職に在るを心苦しく思い、機会あるごとに之を辞して静かな修院の裡に隠れ、祈祷と償いの業に専念したいと教皇に嘆願したが、教皇はますます彼の高ぶらぬ態度と立派な人格に感じ、かような聖者を大司教として一世の師表と仰がしめるのは世の為人の為であると、なかなかその辞職をお聴き容れにならなかった。
それから約十年を経たある日のこと、トマは聖母マリアから自分の死期についての御啓示を戴いた。それはそのいと聖き童貞の御誕生日なる9月8日であるというのである。これを知ったトマは喜びに充ち溢れ、自分の所有物をすべて貧者に施し、全く無一文になって、「主よ、わが魂を御手に委せ奉る」とつつましく祈りながら、安らかな最期を遂げた。死後その取り次ぎによって起こった数多の奇蹟から、トマの名が聖人録に書き加えられたのは、1658年アレクサンデル7世の御代のことであった。
教訓
ヴィラノヴァの聖トマの洪大な博愛精神を思うにつけ、恥ずかしさに堪えぬのは小慈小非の心すらない我等自身のことである。故に彼を鑑と仰ぎ、今後及ぶ限りこの慈善心を養い、困窮の人を助けるよう努めよう。そうすれば審判の時主は「汝等がこのいと小さな兄弟為したる所は、即ち事毎に我に為しなり」と仰せられて、豊かな報酬を賜るに相違ない。
この聖人は西暦488年スペイン、カステリア州の一小都市ヴィラノヴァに生まれた。両親は別にこれという財産もない人々であったが、共に信仰厚く慈善心に富み己の窮乏も顧みずに貧民を助けるという風であった。その称うべき心がけが愛子トマに遺伝し、後に偉大な博愛の聖者と仰がれるに至った事を思えば、その家門の面目は全く情け深い父母への天主の御報酬と考えられるのである。
トマは敬虔な両親を見習い、幼少の時から慈悲憐憫は勿論、潔癖及び聖母マリアに対する特別な尊敬心をもって育った。されば彼は早くから司祭になって身を天主に献げようと志したのも敢えて異とするに足るまい。
トマはアルカラの大学を卒業すると、僅か26歳の若年で名高いサラマンカ大学の哲学教授になったが、なおこの世の名利をよそにひたすら天主に仕える為アウグスチノ修道会に入り、三年後叙階の秘蹟を受けて司祭の資格を得た。それからトマは旧に倍する熱心を以て信仰の道に精進し、ミサ聖祭を執行中感動の余り落涙したり、愛らしい幼子イエズスを我が腕に抱き奉る恵みを与えられたりしたことも幾度となくあったという。
しかし一方にはまたその深い神学上の知識を傾けて神学生達を教え、或いは天主の聖言を信者達に説き聞かせなどし、布教上の功績も少なからず、スペインの第二の使徒と称せられたほどであった。
その後トマの名声はいよいよ高く、スペイン皇帝カルロ5世から宮中聖職者に招聘されるに至ったが、謙遜な彼は、その任に非ざるを懼れ、且つ宮中の豪奢な生活を目にしては浮き世の栄華快楽を慕う念が兆さぬかを懸念し、切に之を辞退した。しかるに皇帝は辞退されていよいよ名利に恬淡な彼の人柄が奥ゆかしくなったと見え、重ねて懇望されたから彼もついに拒むに途なく宮廷付き説教師として赴任した。やがて皇帝はトマをヴァレンチアの大司教に挙ぐべく教皇に交渉された所、教皇も彼の学徳兼備はかねてから御承知であったので、早速1545年1月1日、枢機卿タヴェラのヨハネを遣わし、彼を大司教に叙階せしめられた。
それ以来トマの活躍はひとしお目覚ましく、貧民病者の救済、不幸な人々の慰問、罪人の改心、信者の信仰心の振興、司祭修道者達の生活の粛正等に文字通り三面六臂の働きをしたのである。
彼は我が身の費用を極度に切り詰め、貧しい生活に甘んじながら、困窮の者病める者などを救う博愛事業には年々三千ズカトの巨費を投ずるを惜しまなかった。そして個人として時々500人ほどの貧民を集めてこれに食事をさせたという。その上彼はこうした慈善の精神を裕福な信者間にも鼓吹するに努めた。
1545年、トリエント市に公会議が開かれると、トマも召されて同地に赴いたが、不幸病を得て列席出来なかった。しかし彼が病床にあって天主に献げた熱心な祈祷は、どれほどその会議の成功にあずかって力があったか知れない。なおスペインの司教達が海路イタリアに向かう途中、大暴風雨に逢って既に乗船の沈没は免れないと見られたのに、不思議にその危険から救われたのも、同じくトマの祈祷のおかげと伝えられている。
謙遜なトマは常々自分の如き不肖な者が大司教の重職に在るを心苦しく思い、機会あるごとに之を辞して静かな修院の裡に隠れ、祈祷と償いの業に専念したいと教皇に嘆願したが、教皇はますます彼の高ぶらぬ態度と立派な人格に感じ、かような聖者を大司教として一世の師表と仰がしめるのは世の為人の為であると、なかなかその辞職をお聴き容れにならなかった。
それから約十年を経たある日のこと、トマは聖母マリアから自分の死期についての御啓示を戴いた。それはそのいと聖き童貞の御誕生日なる9月8日であるというのである。これを知ったトマは喜びに充ち溢れ、自分の所有物をすべて貧者に施し、全く無一文になって、「主よ、わが魂を御手に委せ奉る」とつつましく祈りながら、安らかな最期を遂げた。死後その取り次ぎによって起こった数多の奇蹟から、トマの名が聖人録に書き加えられたのは、1658年アレクサンデル7世の御代のことであった。
教訓
ヴィラノヴァの聖トマの洪大な博愛精神を思うにつけ、恥ずかしさに堪えぬのは小慈小非の心すらない我等自身のことである。故に彼を鑑と仰ぎ、今後及ぶ限りこの慈善心を養い、困窮の人を助けるよう努めよう。そうすれば審判の時主は「汝等がこのいと小さな兄弟為したる所は、即ち事毎に我に為しなり」と仰せられて、豊かな報酬を賜るに相違ない。