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教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事 等)

2024-10-18 04:27:04 | 時事
ローマ教皇、イスラエルの武力行使「不道徳」2024年9月30日 11:18(AFP)

【9月30日 AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(Pope Francis)は29日、イスラエルによるレバノンおよびパレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)への攻撃について、度が過ぎており、「不道徳」だと非難した。

 教皇は訪問先のベルギーからイタリア・ローマに戻る機内で、イスラエル軍の空爆で民間人が死傷していることについて問われると、「どの国であれ、あのようなやり方で武力を行使し、度の過ぎた行動を取れば、不道徳な行為に走るようになる」と指摘。

「防衛は常に攻撃と釣り合ったものでなければならない。そうでなければ、道徳を逸脱しがちになる」「たとえ戦争でも守るべき道徳規範はある。戦争はそもそも不道徳なものではあるが、戦争のルールとはすなわち、一種の道徳だ」と述べた。(c)AFP
イスラエルのレバノン空爆「道徳を超えている」、ローマ教皇が非難   2024年9月30日午前 9:55 GMT+918日前更新(ロイター)

[教皇専用機中 29日 ロイター] - ローマ教皇フランシスコは29日、イスラエルによるレバノン空爆でイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラの指導者ナスララ師と非戦闘員が死亡した件について、軍事攻撃は「道徳の範囲を超えている」と批判した。
教皇はベルギーからローマに戻る機中、各国は軍事力を「度を越して」使用できないと言明。「戦争の中であっても、守るべき道徳はある」と述べた。
さらに「戦争は不道徳だが、ルールにより一定の道徳性が実現する」と指摘。「防衛は常に攻撃に比例していなければならない。不均衡が生じると、道徳を超える支配傾向が生まれる」と述べた。
教皇は暴力的な紛争の終結をしばしば求めながらも、通常は侵略者の特定と受け取れる言動には慎重な姿勢を取る。しかし、ここ数週間はイスラエルの軍事行動に言及し、先週にはレバノン空爆は「容認できない」と述べたほか、28日にはイスラエルのパレスチナ自治区ガザ攻撃で子どもらが死亡した件を非難した。

ローマ教皇、イスラエルのガザ攻撃は「やり過ぎだ」 学校空爆も非難 2024/9/14 09:35

ローマ教皇フランシスコは13日、アジア・オセアニア4カ国歴訪から戻る特別機内で記者会見し、パレスチナ自治区ガザ情勢についてイスラエル軍が「やり過ぎだと思うことがある」と述べた。軍がイスラム原理主義組織ハマス戦闘員が潜伏しているとの理由でガザの学校を空爆していることを「恐ろしい」と非難した。

教皇はイスラエルとハマスの双方が「平和に向けて行動を起こしていない」と指摘し、戦闘終結に動くよう求めた。

バチカンと国交がない中国にも言及。司教任命権を巡る両国間の暫定合意は「良好だ」とし、今秋に期限を迎える合意の延長を示唆した。「中国を訪問したいと思っている」と語った。(共同)



聖ルカ福音史家   St. Lucas Evang. 

2024-10-18 03:42:18 | 聖人伝
聖ルカ福音史家   St. Lucas Evang.                    祝日 10月 18日


 聖ルカと言えば読者は読者はすぐに、筆を手に画架に向かって聖母の御姿を描きつつある聖人を思い出すであろう。しかし彼が果たして絵をよくしたか否かは明らかでない。唯古い伝説に聖マリアの聖絵を描いた最初の人は彼であったと言われているのである。聖ルカの職業は医者であって、聖福音書の一つを著した故にあまねくその名を世に知られている。
 彼の故郷は学校の多いシリア国のアンチオキア市であった。キリスト教がようやく弘布し始めた西暦40年頃、同市にも信者の団体が組織されたが、ルカはその中の熱心な一青年であった。
 彼は少年時代から勉学を好み、ギリシャ語に通じ、また自己の見聞を広める為にギリシャやエジプトへ旅行したこともあったが、その中に聖パウロや聖バルナバがアンチオキア市に来り、布教に活躍したので、ルカも彼等と相知り、わけてもパウロには深い尊敬と親愛の情を抱いたのであった。
 パウロが第二回の伝道旅行に出た時、ルカは彼に従い艱難を共にし、その仕事を助け、パウロがマケドニアからエルサレムまで来ると、ルカも同地に急ぎ行き久し振りの対面を為し、それからは再び相離れることなく、パウロがユダヤ人等の迫害を受けカイザリアで牢に入れられた時も、その後ローマに護送された時も、また刑場に引かれた時も、その後を慕って行ったのである。
 当時既に主キリストについての如何わしい伝説や、その聖教についての誤解がいろいろと行われていた。それでギリシャ語に堪能なルカは、パウロのすすめもあったろうが、主の正しい御面影を伝える為福音書の著作に着手し、親しく聖母マリアにもお逢いして主の御降誕前後の模様を伺い、特にそれらの点に就き詳細に記述した。また自分が医者であった所から、病者というものに注意を払い、それに対するキリストの御憐れみや御奇蹟などを多く書き記した。なおルカは主の司祭職という事に就いても殊に意を用い執筆したから、各福音史家の象徴が、マタイは天使、マルコは獅子、ヨハネは鷲であるに対しルカは犠牲に供せられる牛を以て現されている。
 ルカの著書としてはまだその他に使徒行録がある。これは読者も知る通りキリスト教の初期に於ける聖会史ともいうべきもので、全28章の中初めの12章には使徒聖ペトロの事跡を物語り、残余の章には使徒聖パウロのそれを述べているがルカはパウロと浅からぬ関係があるにも拘わらず、唯の一カ所も己の名を出していないのは、その謙遜さもほの見えて奥ゆかしい次第である。
 ちなみにルカはその福音書も使徒行録もテオフィロと呼ぶ一ローマ人に宛てて贈ったが、この人はパウロかルカに洗礼を受けた熱心な信者であるらしく、ルカは彼の信仰を強め、また彼を通して多くの人々の信仰を固めようと思ったのであった。
 ルカは初代キリスト教徒の間に多大の尊敬をかちえていた。聖パウロがコリント人に送った書簡中に「我等またチトと共に一人の兄弟を遣わしたるが、この人は福音に就きて諸教会にあまねく誉れあり」と記しているのも、彼を指したもので、右の事実を裏書きしている。
 パウロが西暦67年ローマで壮烈な殉教を遂げて後、ルカはギリシャに赴き、アカイヤに布教し、そこから小アジアに行って主の為数多の艱難苦労を忍び、ついに約80歳の高齢で帰天、豊かな報酬を主の御手から受けた。聖会は彼を殉教者の中に加え、医を業とする人々は彼を保護の聖者と仰ぎ、深く之を崇め、またその名を霊名としている者も極めて多い。


教訓

 聖ルカが布教の傍ら福音書を著して主の御言行を正しく記し、使徒行録を作って初代聖会の有り様を詳しく伝えたのは、後世の人々にとってまたなく貴重な贈り物であった。しかし現代に於いては布教の上に救霊の上に、文筆の役割は更に重大なものとなっている。故にいやしくも主を愛しその御光栄をこいねがう者は公教の出版事業を及ぶ限り助ける心がなくてはならぬ。


アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者 St. Ignatius E. et M.

2024-10-18 03:42:04 | 聖人伝
アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者 St. Ignatius E. et M.  記念日 10月 17日


 古い伝説によれば聖イグナチオは聖ポリカルポや聖パピアスのように、使徒聖ヨハネの弟子であったと言う。そして子供の時既に聖主のお選びを蒙ったと伝えられている。即ち聖福音書に、ある日イエズスが弟子達に謙遜を教え給うた時「人もし第一の者たらんと欲せば一同の後となり、一同の召使いとなるべし」と仰せられ、更に一人の幼子を呼び寄せ、之を抱いて「総てこの幼子の如くへりくだる人は、天国にて大いなる者なり」と宣うたとあるが、この幸いな子供こそ実に幼き日のイグナチオであったと言うのである。彼は紀元24年頃の生まれで、その時は六、七歳位であったと推察される。イグナチオはその主の聖教を清い心に深く深く刻み込んで生涯を忘れなかった。
 彼がアンチオキアの司教になったのは西暦69年のこと、従って彼が45歳の時の事であった。その後間もなく諸々方々でキリスト教信者の迫害が始まったが、イグナチオ司教は長い間捕縛拘引を容赦されていた。これは誠に有難い事であったと言わねばならぬ。というのは迫害の時には、どうしても信者等を指導したり慰めたりする人が必要であるからである。
 イグナチオは総ての信者を励まし、彼等から慈父のように敬慕された。アンチオキアは最初に教会を設けられた所の一つであって、使徒聖バルナバが来た事もあり、聖パウロが説教した事もある。さればここが特別重要な事は申すまでもない。聖イグナチオはそれらの使徒の後継者として、誠に打ってつけの人物であった。故に38年の長きに亘ってアンチオキアの教会を治める事が出来たのである。
 しかし遂に107年、83歳の時に至って、彼も獄に投ぜられ、間もなく法官の前に引き出された。裁判官が
 「その方の名前は何と申す?」と訊ねると、司教は
 「テオフィロと申します」と答えた。
 「それはどういう意味じゃ?」
 「天主を奉ずる者という意味でございます。何となれば私は天主の聖子なるイエズス・キリストを奉じて居りますからで、その御方の御国は窮まりなく続き栄えるのでございます。」
 イグナチオ司教は死刑の宣告を受け、猛獣の餌食とされる事になった。この刑罰は極めて残酷なもので、ローマの市民権を持つ者には適用されぬ定めになっていた位である。
 彼の死刑はアンチオキアでなく、ローマに於いて執行される筈であった。それで彼は十人の番卒に付き添われ、舟でローマまで護送されたが、その海の旅は苦痛なほど長くその番卒共は又柔和な司教が「豹」とあだ名した位残忍であった。けれども忍耐強い聖イグナチオは露ほども不平がましい言葉を漏らした事はなかった。
 舟は途中諸所に寄港したので、彼はその機会を利用して手紙をしたため、見舞いに来る信者に託して宛先へ送って貰った。それらの手紙は今なお保存されているが方々の信者等に宛てて送られたもので、初代教会の信仰を証する貴重な資料である。
 最初の寄港地は、聖ヨハネの弟子なる聖ポリカルポが司教をしているスミルナであった。イグナチオはそこで幸いにこの有名な人物に遭うことが出来たがその時の彼の喜びはどれほどであったろう!彼は又スミルナで、自分がまさに赴かんとするローマの信徒に宛てて、名高い書簡を認めているが、その中で彼は自ら「イエズス・キリストの捕囚」と称し、やがて彼等に捕虜としてまみえる事を望んでいる。そして間もなくキリストの為に生命を献げ得る幸福を喜び、ローマの信者等が自分の為に減刑運動などをせぬように衷心から願っている。
 「余がキリストと一致する絶好の機会は今より他にない。されば諸子は余をしてキリストの為に快く死なしめよ。余は天主の業である。さればキリストの清きパンとなる為に、まず野獣の歯の挽き臼ですり潰されねばならぬ。又余は何人にも余の屍を埋葬する労をかけたくない。故に願わくは野獣共が余の体を余す所なく食い尽くさん事を!」
 かように聖なる司教は繰り返し己の殉教を妨げぬようにと希望していたのである。また彼は「この世とこの世の国家とは余にとって何の値打ちもない。余は全世界を支配するより、キリストの為に生命を献げる方が遙かに嬉しいのである。余はまだ生きながらえて諸子にこの書簡をしたためているが、死こそ余の最も望む所である」とも記している。
 ローマへの旅はなおも続いた。トロアスでは彼は先にスミルナで逢った聖ポリカルポに、告別の手紙を書いた。漸くにしてローマに到着すると、数日の後早くも彼は猛獣の前に引き出された。飢えた獣等はたちまちこの83歳の老司教目がけて躍りかかり、彼の望みの如くほとんど余す所なく彼の体を貪り食らった。僅かに残った数片の骨は、信者達が取りまとめて恭しく清めた後地中に埋葬した。しかし後日それは聖司教が司牧の地アンチオキアに移されたのである。

教訓

 聖イグナチオは裁判官の前で「天主を奉ずる者」と名乗った。また実際その通り彼は心の中に燃えるような天主への愛を抱いていたのである。しかし天主を愛しこれを奉ずるとは、天主に犠牲を献げる事をも意味する。さればこそイグナチオは熱く殉教を望んだのである。信者たる者は少なくとも毎日進んでささやかな犠牲を献げねばならぬ。それは天主を愛している証拠であり、またそれに依って次第に強められ、天主の贈り給う物は何事も喜んで受けるようになり得るからである。