聖ヨサファト司教殉教者 St. Josaphat E. M. 記念日 11月 12日
コンスタンチノープル総主教区に属するキリスト教会は不幸にも10世紀の頃ローマ教会を離れたので、爾来教皇庁は常にその帰正に努めてきたが、、その運動は16世紀南東ロシアやポーランドに於いて盛んであって、1594年離教側のキエフ大司教を始め7司教がブシエシチに会議を開き、その司教区に於ける公教会との一致を宣言した。それで多くのカトリック司祭、わけてもバジリオ修道会の司祭たちはその帰正運動に携わったが、聖ヨサファトはその先駆者というべき人である。
ヨサファトは1580年ヴォチミエシュ市でルテノの貴族ロザ家に生まれ、カトリックの教育を受けた。まだ幼い時信心深い母から主キリストの御受難の話を聞き、涙を流して感動し、早くも主を熱愛する心を起こしたという。
長ずるに及んで、父母は彼を商人とするつもりであったが、彼自身はそういう物質的欲望よりも、精神的欲求を感ずることが強く、当時ようやく国内に起こり始めたローマ公教会への合同帰正運動に深く心を寄せ、ついにしかけた商売を抛ち、譲られるはずの財産も受けずしてバジリオ会に入会した。
かくて修士となったヨサファトは会則を厳守し、しばしば大斉し肉食飲酒を断ち、寒地であるにも拘わらず冬も裸足で歩き、徹底的な克己禁欲を実行した。のみならず学問にも力を注ぎ、東ローマの教父達の著書を研究し、以て離教の不当を指摘するに足る力を養い、間もなくかかる護教書の著作に着手した。
1609年、司祭に叙階されたヨサファトは、まだ若年の身ながら、ビデン修道院の院長に選ばれ、後推されてウィルノ修道院の院長となり、ついに1618年ポロツクの大司教の栄職に挙げられたが、その間常に合同運動に努力したから、離教者達は彼を味方に抱き込もうと種々策動したけれど、勿論その手に乗るようなヨサファトではなかった。されば彼等は深く彼を怨み、折りあらば之を陥れようとしたが、何しろ公私両生活に亘り一点のきずなく、部下の信望も厚いこととて、乗ずべき隙は更にない、そこで彼等はあらゆる誹謗讒言を試みてその名を傷つけ、人心を離反させて騒動を起こさしめ、あわよくば彼の生命を奪おうと企てた。
所が1620年、ちょうどヨサファトが大司教になって2年ばかり経った時のことである。彼が教勢視察の為ウィテブスク市に滞在中、教敵に煽動された離教派市民は手に手に凶器を閃かして司祭館に乱入した。ヨサファトの下僕等は大司教危うしと必死になって之を遮り止めようとしたが、多勢に無勢の悲しさに、或いは傷つき或いは殺され、如何ともする事が出来なかった。
ヨサファトはその時恰も聖堂での祈祷を終わり、司祭館まで帰って来たが、下僕等の被害を見ると大いに驚き、身の危険も忘れてその場へ立ち出で、「兄弟達よ、貴方がたはどうして何の罪もない私の下僕達に危害を加えたのです?私に不満があるならば、私を相手にして下さい。別に逃げも隠れもしませんから」と大声で叫んだ。暴漢達はこの彼の神々しい怒りに一時はひるんで見えたが、やがて気を取り直し、ヨサファト目がけて飛びかかり、棒で打倒し、斧や棍棒で滅多打ちにする者もあれば槍で突き刺す者もあり、果ては鉄砲の一打ちにとうとう大司教の生命を奪ったのである。それはヨサファトが気息奄々たる中にも手を挙げて十字架の印をなし、敵の為にその罪の赦免を願う祈祷を誦えようとする間際であった。
暴漢共は唯大司教を殺しただけでは飽きたらず、その遺骸を辱しむべくドヴィナ河に投げ込んだのを、ある漁師が見つけて更に石をつけ、水の深みに沈めたが、後信者が手に入れ恭しくポロツク大聖堂に安置した。
離教徒帰正運動の犠牲者ヨサファト大司教が、ピオ9世教皇により聖者の尊号を贈られたのは、1867年のことであった。
教訓
「我が祈るは、彼等の為のみならず又彼等の言葉によりて我を信ずる人々の為にして、彼等が悉く一ならん為なり」主イエズス・キリストはこの聖言にも窺われる如く、信者の一致を衷心からお望みになった。不幸にして傲慢の心から、この主の御望みに背き、信者の中にも或いは異端邪説を唱え、或いは離教し、聖会に損害を与えた者が少なくないが、慈母たる聖会は常にこれらの不孝なる子供達の帰正を念とし、この頃では毎年1月18日から1月25日まで1週間を、その為に献げて祈るという新しい信心も行っている位である。されば我等も聖会と心をあわせ、キリスト信者の一致を希い、その為に祈り、且つ運動せねばならぬ。
コンスタンチノープル総主教区に属するキリスト教会は不幸にも10世紀の頃ローマ教会を離れたので、爾来教皇庁は常にその帰正に努めてきたが、、その運動は16世紀南東ロシアやポーランドに於いて盛んであって、1594年離教側のキエフ大司教を始め7司教がブシエシチに会議を開き、その司教区に於ける公教会との一致を宣言した。それで多くのカトリック司祭、わけてもバジリオ修道会の司祭たちはその帰正運動に携わったが、聖ヨサファトはその先駆者というべき人である。
ヨサファトは1580年ヴォチミエシュ市でルテノの貴族ロザ家に生まれ、カトリックの教育を受けた。まだ幼い時信心深い母から主キリストの御受難の話を聞き、涙を流して感動し、早くも主を熱愛する心を起こしたという。
長ずるに及んで、父母は彼を商人とするつもりであったが、彼自身はそういう物質的欲望よりも、精神的欲求を感ずることが強く、当時ようやく国内に起こり始めたローマ公教会への合同帰正運動に深く心を寄せ、ついにしかけた商売を抛ち、譲られるはずの財産も受けずしてバジリオ会に入会した。
かくて修士となったヨサファトは会則を厳守し、しばしば大斉し肉食飲酒を断ち、寒地であるにも拘わらず冬も裸足で歩き、徹底的な克己禁欲を実行した。のみならず学問にも力を注ぎ、東ローマの教父達の著書を研究し、以て離教の不当を指摘するに足る力を養い、間もなくかかる護教書の著作に着手した。
1609年、司祭に叙階されたヨサファトは、まだ若年の身ながら、ビデン修道院の院長に選ばれ、後推されてウィルノ修道院の院長となり、ついに1618年ポロツクの大司教の栄職に挙げられたが、その間常に合同運動に努力したから、離教者達は彼を味方に抱き込もうと種々策動したけれど、勿論その手に乗るようなヨサファトではなかった。されば彼等は深く彼を怨み、折りあらば之を陥れようとしたが、何しろ公私両生活に亘り一点のきずなく、部下の信望も厚いこととて、乗ずべき隙は更にない、そこで彼等はあらゆる誹謗讒言を試みてその名を傷つけ、人心を離反させて騒動を起こさしめ、あわよくば彼の生命を奪おうと企てた。
所が1620年、ちょうどヨサファトが大司教になって2年ばかり経った時のことである。彼が教勢視察の為ウィテブスク市に滞在中、教敵に煽動された離教派市民は手に手に凶器を閃かして司祭館に乱入した。ヨサファトの下僕等は大司教危うしと必死になって之を遮り止めようとしたが、多勢に無勢の悲しさに、或いは傷つき或いは殺され、如何ともする事が出来なかった。
ヨサファトはその時恰も聖堂での祈祷を終わり、司祭館まで帰って来たが、下僕等の被害を見ると大いに驚き、身の危険も忘れてその場へ立ち出で、「兄弟達よ、貴方がたはどうして何の罪もない私の下僕達に危害を加えたのです?私に不満があるならば、私を相手にして下さい。別に逃げも隠れもしませんから」と大声で叫んだ。暴漢達はこの彼の神々しい怒りに一時はひるんで見えたが、やがて気を取り直し、ヨサファト目がけて飛びかかり、棒で打倒し、斧や棍棒で滅多打ちにする者もあれば槍で突き刺す者もあり、果ては鉄砲の一打ちにとうとう大司教の生命を奪ったのである。それはヨサファトが気息奄々たる中にも手を挙げて十字架の印をなし、敵の為にその罪の赦免を願う祈祷を誦えようとする間際であった。
暴漢共は唯大司教を殺しただけでは飽きたらず、その遺骸を辱しむべくドヴィナ河に投げ込んだのを、ある漁師が見つけて更に石をつけ、水の深みに沈めたが、後信者が手に入れ恭しくポロツク大聖堂に安置した。
離教徒帰正運動の犠牲者ヨサファト大司教が、ピオ9世教皇により聖者の尊号を贈られたのは、1867年のことであった。
教訓
「我が祈るは、彼等の為のみならず又彼等の言葉によりて我を信ずる人々の為にして、彼等が悉く一ならん為なり」主イエズス・キリストはこの聖言にも窺われる如く、信者の一致を衷心からお望みになった。不幸にして傲慢の心から、この主の御望みに背き、信者の中にも或いは異端邪説を唱え、或いは離教し、聖会に損害を与えた者が少なくないが、慈母たる聖会は常にこれらの不孝なる子供達の帰正を念とし、この頃では毎年1月18日から1月25日まで1週間を、その為に献げて祈るという新しい信心も行っている位である。されば我等も聖会と心をあわせ、キリスト信者の一致を希い、その為に祈り、且つ運動せねばならぬ。