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聖人はどのようにして天国に昇られたか

2024-11-02 23:36:42 | 浦川司教


十 一 月 二 日

(4)-聖人などはどのようにして天国に昇られたか ー 一口に聖人と申しましても、天主から特別の聖寵をかたじけなうし、人目を驚かすようなことをして、高い高い徳域に進まれた御方もあれば、普通の途を踏み、普通の徳をただ普通ならぬ心掛けで以って実行し、それによって聖人となり、天国へ昇られた御方もございます。人目を驚かすような徳を行って聖人となることは、誰にでもできる話ではありませんが、しかし普通の徳を普通ならぬ心掛けで以って実行し、天に昇ることならば、できない人はないはずである。

 すなわちこの祝日のついでに、誰しも、どうしたら天国に昇れるかということを篤く考えて見る必要があろうかと存じます。聖トマス博士の妹が、ある日兄博士に向かい「聖人となるにはどうしたらよいのですか」と問いました。すると聖人はたった一口、「望みさえすればそれでよいのだ」と答えられた。言は短い、ただ一口に過ぎないが、しかし意味はなかなか深い。実際、救霊を得るため、聖人となって天国に昇るためには、どんな困難に出くわしても、一歩も後へは退かない覚悟で、どこまでも根気強く、勇ましく進んで行かなければならぬ。それだけ随分強い意志,熱い望みが必要である。是非とも救霊を全うしたい、是非とも聖人になりたいという火の如き望みがないならば、到底百千の障碍物を打ち破って進むことできようはずがありません。

 さてどんな風に望まねばならぬか、ただ一通り望んだばかりで足りるかというに、そればかりでは足りません。誰にしても救霊を得たい、天国に昇りたいと望まぬ方はありますまいが、皆が皆,救霊を得、天国に昇る訳でもないのは、望み方が不充分だからであります。しかるばどんな風に望まねばならぬかというに、第一、心から望まねばならぬ。第二、今の中に望まねばならぬ、第三、根気強く、最後まで望み続けなければならぬのであります。




死者の日   Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum

2024-11-02 13:54:09 | 聖人伝
死者の日   Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum      記念日 11月 2日


 煉獄の霊魂の記念が11月2日に行われるのは、それが前日の諸聖人の祝日の補足ともいうべきものであるからである。この両日には「我は諸聖人の通功を信ず」という使徒信経の言葉を思い出さずにはいられない。広い意味で聖人と言えば、天国の霊魂は勿論のこと、煉獄の霊魂も、又成聖の聖寵を有するすべての人々をも含む。これらは皆天主の愛子であって、従ってまた相互に兄弟姉妹である。ただその異なる所は名々の状態で、天国に在る者は永福を楽しみ、この世に在る者は誘惑と闘い、主の聖寵を保ち、功徳を積もうと努め、煉獄に在る者は、やがて天国に入れられる日を待ち侘びつつ。己を清める為暫く精錬の苦痛を嘗めているのである。
 煉獄の霊魂達も成聖の聖寵を有する天主の子に違いはない。しかしその臨終に際し、大罪の穢れこそなけれ。小罪の曇りがあったか。或いは赦された罪の償いをことごとくは果たしていなかったのである。しかるに聖書によっても明らかなように、天国へは全く清い、全く負債を返した者でなければ入れない。それで霊魂達は定められた償いをして己を聖めねばならぬ。
 所がこの世では信者各自苦行や善行をして有限の罰を贖い、死後直ちに天国に行けるようにする事が出来る。しかし煉獄の霊魂の償いはどうであろうか。
 煉獄の霊魂の最も主な、最も大きい苦痛は、すぐに天国に入れないという事である。地上の我等にはまだその如何に苦しいかを十分に想像する事が出来ない、というのは我等はなお物質である肉体を有しているからである。けれども死んで霊魂が肉体を離れると、それは創造主なる天主に向かってひたすらに憧れる。そしてその御許に行く事を妨げる一切の事に限りない苦痛を覚える。この苦痛は主に離れていなければならぬ期間の長いほど大きい。それが永遠ならば即ち地獄の苦しみに他ならぬが、煉獄に於いてはその期間に限りがある。この期間はつまりまだ果たされぬ罪の償いがどれだけあるかに依るもので、誰かがその霊魂の為に償いをしてやると、それだけ短縮される。煉獄の霊魂はもう自発的に償いの業をする事ができないが、この世の我等にはそれが出来る。それで色々な苦行や、善業や、祈祷や、殊にミサ聖祭を献げて彼等を助けるがよい。今日の記念日は即ち毎年こういう偉大な善業について反省を新たにする為に設けられたのである。
 聖会は「彼等を憐れみ給え」と熱烈な祈祷を以て煉獄の霊魂に代わり主の御慈悲を求める。キリスト教的博愛の精神からいっても自ら助ける力のない者に助けを与える事は、せねばならぬ義務である。それに煉獄の霊魂の為多大の尽力をした人は死んで煉獄に送られた場合に、また多くの助力を得る事が出来る。それは、この世の人の助けによって早く煉獄から天国に入り得た霊魂は、深くその恩に感じ天主の御許で種々その人の為執り成してくれるからである。
 煉獄には天主に対する憧れの苦痛の外にもまだ苦しみがある。それがどんなものであるかは主もお示しにはならなかった。しかしそれは多分煉獄で償いを果たすべき罪の種類によって異なるのであろう。
 煉獄の霊魂の苦しみについて考えるとき、我等は彼等が甘んじて忍耐しつつ苦しんでいる事を忘れてはならぬ。彼等は天主の正義よりどうしてもその必要である事を知っている。自分の受けている罰の当然である事も十分悟っている。それ故絶望の淵に沈む事がない。彼等はいつか間違いなく天国に入り得る身である事を承知しているから、苦しみの中にも自ら慰む所がある。それにこの世にいた時と違って、もう罪を犯して成聖の聖寵を失う心配がない。また彼等にとってはこの世の人々に思い出される事も慰安である。たといこの世に親戚朋友が一人もない霊魂でも、総ての死者を追憶する聖会の祈祷には漏れることがない。聖会は毎日、わけても本日の死者の記念日に彼等の為祈るのである。
 信者等はこの日墓参りをなし、逝かった肉身に対する愛を現す為に、その墓を美しく飾ってその冥福を祈る人も多い。

教訓

我等は知人は勿論、煉獄に在る総ての霊魂の為に、しばしば祈らねばならぬ。そして親戚朋友の何人かの為にしろ、或いは煉獄のあらゆる者の為にしろ、ミサ聖祭を献げて貰うことは特別よい事である。また折々は縁深い人の墓に詣でてその為に祈るがよい。墓参すれば自ずと己の子に就いても考えられ、敬虔な生活をするようになるものである。