自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「はやぶさの日」!!「宇宙探査機はやぶさ帰還の日」!!

2020-06-13 13:38:28 | 地域
「6月13日(土)」

「はやぶさの日」

「2010年(平成22年)6月13日」

世界初の小惑星
サンプルリターンなどを成し遂げた
宇宙探査機はやぶさが地球に帰還したことを記念。

2010年6月13日、
小惑星探査機「はやぶさ」は
7年あまりの旅を終えて地球へ帰還を果たしました。

落下地点となったオーストラリア
・ウーメラ砂漠の満天の星々に埋め尽くされた夜空の中、夜11時21分(現地時間)に、
「はやぶさ」は
北西から小さな光る点となって現れました。

「はやぶさ」本体は
まだ残っていたキセノンガスと
化学エンジンの酸化剤によって
満月の倍くらいのまばゆい光を放ちながら
2度大きく爆発して、
45秒ほどで南十字星の方角に消えていきました。

燃え尽きようとする「はやぶさ」の脇には
スーッと一筋の光が伸びていました。

「はやぶさ」本体から切り離されて
地球に降りてきたカプセルでした。

カプセルは予想された落下地点に
ほぼぴったりに落下しました。

すぐにヘリコプターが
上空から砂漠に落下したカプセルの姿が確認されました。

2592日間かけて
地球と小惑星の間をおよそ60億kmを飛行した
「はやぶさ」の旅はここに終わりを迎えました。

この帰還に
日本中の人々が拍手し大喜びしました。


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「九州平定」!!「豊臣秀吉の島津征伐」!!

2020-06-13 13:34:11 | 地域
「6月13日(土)」

「九州平定」

「1587年6月13日」
(天正15年5月8日)

島津義久が豊臣秀吉に降伏。

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、
天正14年(1586年)7月から
同15年(1587年)4月にかけて行われた、
羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と
島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。

秀吉の
「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」、
「九州攻め」、「島津攻め」などの
名称で呼ばれることもある。

戦国時代後半の九州は、
盛強な戦国大名三者による
三つ巴の抗争が展開されており、
これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」
などと呼称することがある。

そのなかから、
薩摩の島津氏が
日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、
肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、
さらに
大友氏の重鎮立花道雪の死により
大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、
北九州への影響力も強めて、
九州平定をほぼ目前にしていた。

豊後の大友宗麟(義鎮)は、
島津氏の圧迫を回避するため、
当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し
天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。

これを受け、
関白となった秀吉は、
天正13年(1585年)10月

島津氏と大友氏に対し、
朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。

しかし、
大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、
島津氏側は家中で激しい議論となった末に
停戦令受諾の方針を決定するとともに
家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、
島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって
停戦を守ろうとしたのにもかかわらず
大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので
防戦したものであると弁明させた。

この論理については
大友側も同じ根拠で島津側が命じられた
豊薩和平を破ったと主張している。

さらに
島津義久は天正14年(1586年)1月

源頼朝以来の名門島津が
秀吉のごとき「成り上がり者」を
関白として礼遇しない旨を表明した。

3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して
占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、
島津側は「神意」としてこれを拒否、
大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、
秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。

島津氏側としては、
すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した
秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。

天正14年4月5日

大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、
島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう
懇願している。

秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、
九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、

すでに秀吉に帰服していた
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景や、
宮部継潤などの中国の大名、

あるいは
長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を
用いようとした。

秀吉が
天正14年4月10日付で
毛利輝元にあてた覚書には、

城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、
西海道にいたる道路の修造、
および赤間関(山口県下関市への
兵糧蔵の建造を命じている。


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