自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「弘元の乱」!!「鎌倉の戦い」!!

2021-06-30 13:34:45 | 地域
「6月30日(水)」

「元弘の乱」
(鎌倉の戦い)

1333年6月30日
(元弘3年/正慶2年5月18日)

元弘の乱

鎌倉幕府軍と
新田義貞率いる反幕府軍の合戦・鎌倉の戦いが始まる。

元弘の乱(げんこうのらん)は、
鎌倉時代最末期、
元徳3年4月29日(1331年6月5日)から
元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、
幕府及び北条高時を当主とする
北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

ただし、
元弘3年/正慶2年(1333年)5~6月中の
どの出来事をもって終期とするかは諸説ある
(→始期・終期)。

5月8日、
新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。

新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、
利根川を越えて南進した。

新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、
鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた
足利氏の高氏(尊氏)の嫡子
千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、
義貞の軍勢は勢いを増し、
新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。

幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、
御家人らの離反も相次ぎ、
小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、
幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。

新田軍は
極楽寺坂、巨福呂坂、
そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から
鎌倉を攻撃した。

しかし天然の要塞となっていた
鎌倉の切通しの守りは固く、
極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。

戦いは一旦は膠着し、
新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、
新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。

執権北条守時(第16代執権)や
北条基時(第13代執権)ら幕府要人が
戦死・自害した市街戦ののち、
生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や
北条貞顕(第15代執権)ら
幕府の中枢の諸人総計800余人は
5月22日、
北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した
(東勝寺合戦)。


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