真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『ビジネスのサムライ』(小野 三郎さん 2004年)

2017-07-26 | 読書-エッセイ/小説etc
ビジネスのサムライ
小野 三郎【著】
日経BP社(2004/10発売)

目次
第1章 父が教えてくれた武士道(武士道の師;忠孝の倫理 ほか)
第2章 サムライ精神の息吹(軍人教育の主眼;東京陸軍幼年学校 ほか)
第3章 ビジネスのサムライ(国の大義、企業の小義;エリート意識の効用 ほか)
第4章 私の武士道(武士;武士道の創設 ほか)
第5章 未来のビジネス・エリートへの提言(草食動物・日本人の特質;未来のビジネス・エリートへ)

高任和夫さん評

著者紹介
小野三郎[オノサブロウ]
1926年山梨県生まれ。1940年東京陸軍士官学校入学。1943年陸軍予科士官学校入学。1944年陸軍航空士官学校入学。1945年4月、満州・白城子(平安鎮)で操縦訓練。同年8月、終戦で復員。1948年早稲田大学理工学部入学。1951年卒業、富士製鉄(現新日本製鉄)入社、釜石製鉄所勤務。本社生産管理部能率課長、同労働部整員課長、新日本製鉄堺製鉄所生産業務部長、本社製鉄エンジニアリング事業本部副事業部長などを経て、1982年日鉄商事常務取締役。1989年新日本ダイス社長。1991年冨士ダイス常務取締役。2001年9月死去、享年七四歳

※著者没後に、遺稿の自費出版が商業出版になったもののよう。
ありえない経歴の誤記がそのまま残ってしまうという残念な仕打ちは、泉下の著者はどう感じておられるか。

版元は、著者経歴が違っているとは思わず、「全部そのままでいいから楽ちん」と思ったのかしらん。
中身なんか、全然見てませーん、みたいな?

1926年山梨県生まれ。
で、
1940年東京陸軍士官学校入学。
ということはないわけで、だいたい、「東京陸軍士官学校」ってなんだよ。
ここは
東京陸軍幼年学校
のわけ。

卒業後の陸軍内の出世においては、陸軍大学校卒業であるかどうか以上に、幼年学校卒業かどうかが実質的にも形式的にも問われるようになった

陸軍航空士官学校生徒として満州で操縦訓練中に終戦を迎え、(「祖国復興の楔たるべし」ということで)優先的にさっさと内地に帰還できた、ということから、志の高い戦後の猛烈サラリーマンとしてご活躍されました、と。

奉天の東の深井子で終戦を迎え、
深井子陸軍飛行場ね
8月19日安東を突破して平壌、京城、太田を経て21日釜山、23日博多上陸だって。

満州国観象台(中央気象台)技官の家族なんかは、大変な思いをしてようやく帰国できたわけで。

中国語の咲子先生は北極星が怖い
リンク切れ御免。

コサックの頭目の孫10歳(じつは11歳)、歌いながら南へ単独行千キロ~ビクトル古賀さん 1

国が多大の資金とエネルギーを投入したエリートである士官候補生なので、優先的に安全に帰国させることができて、祖国再建に貢献されました、ということで、国的には正しい判断だったのでしょう。
庶民感情というか、情緒は別として。

「デッドロックに乗り上げる」が多用されているのも残念。

ま、いいけど。
このような、戦前の教育を受けたエリートの生き残り各位が、戦後の平和な日本を作ってくださいました。

あと、陸士や海兵在学中に終戦になったという方々がそれなりの数居たわけで、彼らは、戦場の汚いもろもろに直接放り込まれる前に戦後世界に放り出されたわけで、
エリート教育の上澄みというか、サムライだかジェントルマンだかの良いところを心に抱いて戦後復興に貢献した人たちなのかもしれないなどと思うなど。

短現を扱ったものはあるけれど、陸士・海兵生徒で終戦になった諸氏を追ったノンフィクションは、ないのかな。
時間切れだな。

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