この度は天皇陛下のおみ声をおうかがひになったことゝ思ひますが 皆 国民一同 涙をながして伺ひ 恐れ入ったことゝ思ひます
おもうさま 日々大そうご心配遊しましたが 残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救はれたのです
終戦とともにスパッと気持ちの切り替えができた国民はじつは多かったといわれるが、香淳皇后も見事に前向きに切り替えられた様子が垣間見られることは興味深い。
敗戦をまたいで小学生だった人による「軍国教育に邁進していた教師らが、終戦を境に掌を返したように反対のことを教え始めたのであきれた」というような発言や手記などがよく見られる。
「大人の言うことなど信じてはいけないと胸に刻んだ…」などがこれに続くケースが多いと思われる。
なーに、切替えの早さを示したまでよ。
上から下まで切り替えが早い!
当該手紙の全文はこちらに:http://homepage3.nifty.com/millenni32/01014.pdf(2ページ目の下)
東宮さんも(中略)大詔に仰せになったことをよくよく頭に入れて
の(中略)部分は、
‘日々 米英撃滅ですごしていらしたでせうから どんなにか ゝ ご残念なことと思ひますが しかし ここが 辛抱のしどころで’
というものだったようだ。
リンクを貼ったネット上の記載(昭和61年4月に新聞に掲載されたことがるというものから引用?)では略されてしまった部分も、下記の工藤女史の著書には記載されていた。新聞社は誰に遠慮したのだろうか...
貞明皇后のお話(11/9エントリ参照)を読んだ勢いで、同じ著者による
『香淳皇后 昭和天皇と歩んだ二十世紀』
工藤美代子著 発行年月:2000.10
を読む。
その後、文庫化に際して改題。『香淳皇后と激動の昭和』中公文庫 発行年月:2006.9
上記の母から子へのお手紙は、同年3月20日付のお手紙とともにおなじ著者による『ジミーと呼ばれた日-若き日の明仁天皇-』(11/1参照)にも全文引用されている。
貞明皇后が長男の嫁にはかなり厳しく接したというのは有名。
(その話が広く知られていたために、南面堂も「厳しい一方の人」という印象を持っていただけなのも事実)
各種文献の記載を精力的にチェックした本書にも、繰り返しその話が出てくる。
「良子皇后が自分より身分が上の宮家出身であることや、久邇宮(くにのみや)夫妻の言動を皇太后が気に入らなかったという説もある」そうだ。
工藤女史による三笠宮両殿下へのインタビュー(前掲)からは、厳しい姑というニュアンスは特に感じられなかった。
家督を継ぐ長男(の嫁)とそれ以外をはっきり区別していたのだろうか。
四男にもなると気楽に接していたのかも。
うーむ、むかし香淳皇后も皇太子妃に厳しく接したという話が多く伝えられたため、その印象が強い国民が多いのではないだろうか。
仮説:皇后または皇太后はどの時代でも常に長男の嫁(皇太子妃または皇后)に対しては厳しく接せざるを得ない?
国民の受け止め方は、「嫁の世代の人は嫁に肩入れしがちで、姑世代(若い時代からずっと見てきた)は姑の気持ちに理解がある」のかな。
若手(嫁)世代:まあ!おいたわしい・・・
年配(姑)世代:そのくらい当然でしょ!○○様がお若い頃なんか・・・
じゃ、現在は?
うーーーーむ。
おもうさま 日々大そうご心配遊しましたが 残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救はれたのです
終戦とともにスパッと気持ちの切り替えができた国民はじつは多かったといわれるが、香淳皇后も見事に前向きに切り替えられた様子が垣間見られることは興味深い。
敗戦をまたいで小学生だった人による「軍国教育に邁進していた教師らが、終戦を境に掌を返したように反対のことを教え始めたのであきれた」というような発言や手記などがよく見られる。
「大人の言うことなど信じてはいけないと胸に刻んだ…」などがこれに続くケースが多いと思われる。
なーに、切替えの早さを示したまでよ。
上から下まで切り替えが早い!
当該手紙の全文はこちらに:http://homepage3.nifty.com/millenni32/01014.pdf(2ページ目の下)
東宮さんも(中略)大詔に仰せになったことをよくよく頭に入れて
の(中略)部分は、
‘日々 米英撃滅ですごしていらしたでせうから どんなにか ゝ ご残念なことと思ひますが しかし ここが 辛抱のしどころで’
というものだったようだ。
リンクを貼ったネット上の記載(昭和61年4月に新聞に掲載されたことがるというものから引用?)では略されてしまった部分も、下記の工藤女史の著書には記載されていた。新聞社は誰に遠慮したのだろうか...
貞明皇后のお話(11/9エントリ参照)を読んだ勢いで、同じ著者による
『香淳皇后 昭和天皇と歩んだ二十世紀』
工藤美代子著 発行年月:2000.10
を読む。
その後、文庫化に際して改題。『香淳皇后と激動の昭和』中公文庫 発行年月:2006.9
上記の母から子へのお手紙は、同年3月20日付のお手紙とともにおなじ著者による『ジミーと呼ばれた日-若き日の明仁天皇-』(11/1参照)にも全文引用されている。
貞明皇后が長男の嫁にはかなり厳しく接したというのは有名。
(その話が広く知られていたために、南面堂も「厳しい一方の人」という印象を持っていただけなのも事実)
各種文献の記載を精力的にチェックした本書にも、繰り返しその話が出てくる。
「良子皇后が自分より身分が上の宮家出身であることや、久邇宮(くにのみや)夫妻の言動を皇太后が気に入らなかったという説もある」そうだ。
工藤女史による三笠宮両殿下へのインタビュー(前掲)からは、厳しい姑というニュアンスは特に感じられなかった。
家督を継ぐ長男(の嫁)とそれ以外をはっきり区別していたのだろうか。
四男にもなると気楽に接していたのかも。
うーむ、むかし香淳皇后も皇太子妃に厳しく接したという話が多く伝えられたため、その印象が強い国民が多いのではないだろうか。
仮説:皇后または皇太后はどの時代でも常に長男の嫁(皇太子妃または皇后)に対しては厳しく接せざるを得ない?
国民の受け止め方は、「嫁の世代の人は嫁に肩入れしがちで、姑世代(若い時代からずっと見てきた)は姑の気持ちに理解がある」のかな。
若手(嫁)世代:まあ!おいたわしい・・・
年配(姑)世代:そのくらい当然でしょ!○○様がお若い頃なんか・・・
じゃ、現在は?
うーーーーむ。