『チベット滞在記』
多田等観 牧野文子
白水社 (1984/04 出版)
その後、白水社からは新装版も出たが、現在入手可能なのは講談社学術文庫版です、ということらしい。
講談社学術文庫
牧野女史が晩年の多田師から聞き書きしたもの。白水社1984年版には、巻頭に「語る多田師と同じテーブルで懸命にメモをとる牧野女史」の写真がある。
多田 等観(ただ とうかん、 1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)
能力が高いのと同時に、いわゆる対人スキルの高い人だったのだろうな。
wikiの記述に“第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。等観はその過程でチベット語を習得してしまうが、逆に3人には完璧な秋田弁を仕込んでしまったため日本語教師の役を外されてしまう。”というくだりは、本書でも語られている愉快なエピソード。
川口慧海ぐらいは知っていたが、多田師はじめずいぶん多数の日本人がチベットへチベットへと潜入を図っていたのだと知る。本書の冒頭に記載されていた名前を確認してみる:
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年2月24日)
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年) - 1956年(昭和31年))
寺本 婉雅(てらもと えんが、1872年(明治5年) - 1940年(昭和15年))
矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)
長谷川伝次郎(1894-1976) 古美術研究家、登山家
1894.3.3(明治27)~ 1976.1.15(昭和51)
チベットにもぐりこんだ日本人たち.2
能海寛の非命と栄光
チベット仏教-活仏転生制度
ダライ・ラマ
“19世紀以降、ダライ・ラマの転生者の捜索は、清朝政府を巻き込んだチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われ有力貴族が摂政となって実権を握った。この時期ダライ・ラマに選ばれた者は、政治的実権を握る成人前後に死を迎えている例が多い。”
~多田師の語り(本書)でも、過去のダライラマには不幸な運命を余儀なくされた人があった旨述べられている。
「転生」はユニーク過ぎて現代では違和感を禁じ得ない向きも少なくないかと思われるが、それなりに合理的な仕組みだと思うな。
貧困層が多数を占める地域で、幼児死亡率は高く子沢山、妻帯しない聖職者の最高位の人物の後継者を選ぶに際して、聖職者のなかから選ぶのではなく、両親や兄弟も面接評価しつつ、健康で利発な少年を選び、幼少期から集中的に教育を施すとともに、カリスマ性をまとわせるわけだから、昔はそれなりにうまく機能していたのではないかしら?
それが、清朝やら現在の中国やら、大国の都合に巻き込まれるとおかしなことになるのよね。
pdf 多田等観展∼多田等観とチベット美術∼2004年6月26日(土)∼7月19日(月)花巻市博物館
講談社学術文庫
ダライ・ラマ法王13世の写真
過去のエントリから、近いテーマ: 大谷探検隊員/20080627
多田等観 牧野文子
白水社 (1984/04 出版)
その後、白水社からは新装版も出たが、現在入手可能なのは講談社学術文庫版です、ということらしい。
講談社学術文庫
牧野女史が晩年の多田師から聞き書きしたもの。白水社1984年版には、巻頭に「語る多田師と同じテーブルで懸命にメモをとる牧野女史」の写真がある。
多田 等観(ただ とうかん、 1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)
能力が高いのと同時に、いわゆる対人スキルの高い人だったのだろうな。
wikiの記述に“第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。等観はその過程でチベット語を習得してしまうが、逆に3人には完璧な秋田弁を仕込んでしまったため日本語教師の役を外されてしまう。”というくだりは、本書でも語られている愉快なエピソード。
川口慧海ぐらいは知っていたが、多田師はじめずいぶん多数の日本人がチベットへチベットへと潜入を図っていたのだと知る。本書の冒頭に記載されていた名前を確認してみる:
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年2月24日)
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年) - 1956年(昭和31年))
寺本 婉雅(てらもと えんが、1872年(明治5年) - 1940年(昭和15年))
矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)
長谷川伝次郎(1894-1976) 古美術研究家、登山家
1894.3.3(明治27)~ 1976.1.15(昭和51)
チベットにもぐりこんだ日本人たち.2
能海寛の非命と栄光
チベット仏教-活仏転生制度
ダライ・ラマ
“19世紀以降、ダライ・ラマの転生者の捜索は、清朝政府を巻き込んだチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われ有力貴族が摂政となって実権を握った。この時期ダライ・ラマに選ばれた者は、政治的実権を握る成人前後に死を迎えている例が多い。”
~多田師の語り(本書)でも、過去のダライラマには不幸な運命を余儀なくされた人があった旨述べられている。
「転生」はユニーク過ぎて現代では違和感を禁じ得ない向きも少なくないかと思われるが、それなりに合理的な仕組みだと思うな。
貧困層が多数を占める地域で、幼児死亡率は高く子沢山、妻帯しない聖職者の最高位の人物の後継者を選ぶに際して、聖職者のなかから選ぶのではなく、両親や兄弟も面接評価しつつ、健康で利発な少年を選び、幼少期から集中的に教育を施すとともに、カリスマ性をまとわせるわけだから、昔はそれなりにうまく機能していたのではないかしら?
それが、清朝やら現在の中国やら、大国の都合に巻き込まれるとおかしなことになるのよね。
pdf 多田等観展∼多田等観とチベット美術∼2004年6月26日(土)∼7月19日(月)花巻市博物館
講談社学術文庫
ダライ・ラマ法王13世の写真
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