植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

オスマン帝国とローマ帝国

2008年07月23日 12時01分39秒 | 国:オスマン・イスラム
 前回、フランスのサルコジ大統領が地中海連合でローマ帝国の再来を目指しているのでは? なんてことを書きましたが、中世にローマ帝国の再来を目指した人物がいます。

 それはオスマン帝国のスレイマン1世です。

 スレイマン1世はイスラム教であるオスマン帝国のスルタンですが、前に「四重冠」でも書いたとおり、彼はどうもローマ帝国の再建を自負していたらしく、ローマを自称する神聖ローマ帝国は気に入らないので、ウィーンまで執拗に攻め入り、またローマを治めているローマ法王に対抗して、ローマ法王のシンボルである三重冠よりも豪華な四重冠を作らせるなどしています。

 改めて、オスマン帝国の版図を見てみると、ローマ帝国と同じ範囲に広がっており、あとはオーストリア・イタリア・スペインを支配するだけです(ちなみにフランスとは同盟国)。
 画像の紫がオスマン帝国の最大版図で、赤枠がローマ帝国の最大版図です。

 こうやって今の国境の上に描いてみると、どちらも本当に巨大な帝国だったんだな~って思わされます。


四重冠

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新しい国が誕生

2008年02月23日 09時16分17秒 | 国:オスマン・イスラム
 2008年2月17日のついこの間、新しい国が誕生しました※。バルカン半島の元ユーゴスラビアのコソボがセルビア共和国から独立を宣言しました。
 コソボは、1997年に勃発したコソヴォ解放軍とセルビア軍との武力衝突から始まり、NATOによるセルビア空爆と言う介入も行われたコソボ紛争の舞台となった地域です。
 今回の独立宣言でやっとセルビアからの独立を果たしたことになります。

 当初、よく知らなかった私は、セルビアが資源の乏しいアルバニア人の多く住むこのコソボ地域の独立を執拗に拒むのか理解していませんでした。多くの場合、例えばイラクのクルド人自治区はそこに石油の利権があり、イラクからの独立はイラクの国益を損なうからです。
 しかし、調べてみると今回のコソボは、民族的歴史問題があるそうです。

 コソボはセルビアが生まれ、セルビアが滅んだ地

 ステファン・ネマニャはセルビア諸部族を統一し、東ローマ帝国との長い戦いに勝利し1171年にコソボを首都とする中世セルビア王国を建国します。
 そして、1389年には南からムラト1世率いるオスマン帝国軍が進入し、セルビア王国との間で熾烈なコソボの戦いが勃発します。この戦いにセルビア側が大敗し、セルビア王国は滅亡し、オスマン帝国統治下に置かれることになります。
 
 このことからセルビア人は、コソボを民族誕生の地と考えるようです。その為、オスマン統治下でコソボの地に多くのアルバニア人が住むようになっても、セルビア人はセルビアの土地と考えるのです。
 近世になり、セルビアがオスマン帝国から再独立を果たしたとき、コソボはまだオスマン領でした。その後、バルカン戦争によって、アルバニアがコソボ地域も含めて独立すると、セルビアと列強の干渉により、そこに住むアルバニア人を無視し、コソボは切り取られセルビア王国に組み込まれてしまいます。

 これがコソボ紛争と今回のコソボ独立に繋がっていくわけです。

※正確には独立宣言をしただけです。国家の誕生にはプラス各国の承認が必要です。NATOの中核諸国であるアメリカ、英国、フランス、ドイツなどは承認し、同じく民族問題を掛かるスペインやキプロスは慎重な姿勢。勿論セルビアは反対、これに同じスラブ人で正教徒のロシアも反対の立場です。
 で、わが国日本は、承認の方向で検討中だそうです。

コソボ「自立」に不安 弱い経済、国家承認どれだけ…(産経新聞) - goo ニュース

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中東の笛

2008年01月26日 13時47分44秒 | 国:オスマン・イスラム
 ハンドボールの北京五輪の出場を決めるアジア予選で、不正な審判が行われたとされ国際連盟(IHF)が、予選のやり直しを求めた事に対し、試合を行ったアジア連盟(AHF)は、不正は無かったと真っ向から対立し、予選に参加した場合は、アジア連盟から除名すると日本に宣告してきたそうです。

 よく審判が贔屓したという話は聞きますが、ここまで話がこじれるのはなかなかないのでは?

 もともと、アジア連盟はクウェートの王族の圧力が掛かっており、「中東の笛」と称される疑惑の判定が多いそうです。
 そのクウェートのアジア連盟は、豊富なオイルマネーを使って、敏腕弁護士を雇って、スポーツ仲裁裁判所に提訴するそうです。

 あくまで強気です。

 クウェートは、オスマントルコがイラクまで統治していた時代に、この地の有力商人であったサバーハ家が、イラクのバラス州(クウェートを含む)の総督になったのが始まりです。
 第一次世界大戦でオスマントルコが敗戦したことで、イラクが独立(英国保護領)すると、サバーハ家はイラクに併合されるのを嫌い、英国を抱き込んで1961年に独立国家を樹立します。これが今のクウェートです。
 このことが遠因となって湾岸戦争でのイラクのクウェート占領などが起こるわけです。

ハンド予選に参加すれば除名…アジア連盟、日本協会に通告(読売新聞) - goo ニュース

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ブルガリア帝国

2008年01月05日 23時52分59秒 | 国:オスマン・イスラム
 という事で前回に絡み、やはりブルガリアの歴史です。
 ブルガリアは、7世紀後半に中央アジアからテュルク系遊牧民であるブルガール人が今のブルガリアに進出し、東ローマ帝国との戦いに勝利することで、支配を認められ国を建国します。ブルガール人は元々ブルガリアに居たスラブ人と混血し、今のブルガリア人となります。
 前のブログで、皇帝位は東西ローマ帝国分の2つしか無いと書きましたが、例外的にブルガリアはシメオン1世の代に最大版図を成し遂げ、ルーマニアの南半分から、マケドニア、ギリシャの北半分まで支配下に起きます。さらにに東ローマ帝国を打ち破ったことで、東ローマ帝国を脅迫し、913年コンスタンティノポリス総主教ニコラオスから戴冠※1を受けたことで、以来、皇帝(ツァーリ)※2を称することになります。
 その後、ブルガリア帝国は東ローマ帝国の反撃にあい、1018年にブルガリア皇帝サムイルが戦死し滅亡します。

 その後東ローマ帝国が圧制を行った為、1187年に反乱がおきアセン1世が第二次ブルガリア皇帝に即位します。
 しかし、第二次ブルガリア帝国は、モンゴル軍の侵略・属国化を受け、その後もセルビア王国との抗争、そして南からオスマン帝国の侵略にあい1396年に併合されてしまいます。

 再びブルガリアが独立するのは、1853年のクリミア戦争、1877年の露土戦争にロシアに加担することで、ロシアの支援の元1878年に大ブルガリア公国が建国されますが、ブルガリアを通したロシアのエーゲ海進出を危惧した列強の妨害により、ブルガリアは北部のみにトルコ領内の自治州に格下げされました。
 完全に独立を果たすのは1909年になります。その後、二度のバルカン戦争と、世界大戦を行い、戦後は親ソ連路線により王政から社会主義へと切り替わり、ベルリンの壁崩壊後、民主主義になります。


※1:正式な戴冠ではなくニコラオスの典礼用の頭飾りが用いられました。また、その後東ローマ軍が体性を立て直した為、東ローマ側はブルガリアとの一連の取り決めを無視したため、ブルガリアの皇帝位は自称とする場合もあります。

※2:それまでブルガリアの君主は中央アジアの王らしく、ハーン(トルコ語ならハン)の古形であるガガンを名乗っていました。戴冠の後は、東ローマで使用されているギリシャ語の皇帝位バシレウス、そしてブルガリア語のツァール(ツァーリ)を称します。

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ソフィア

2008年01月03日 20時33分37秒 | 国:オスマン・イスラム
 ソフィアと言えばブルガリアの首都。今日、カレッタ汐留内にあるブルガリアンダイニング&ブルガリアンヨーグルトバーのお店「SOFIA」に言行ってきました。お店は洋食のダイニング店と、ヨーグルトバーが隣どうしにあり、今回は軽食と喫茶のヨーグルトバーの方に入りました。
 本日のカレーがホワイトカレーと言う真っ白なカレー 800円、見た目と違ってとてもスパイシーで辛かったです。後は、バニッツァと言うパイ生地にチーズを挟んだキッシュの様なものと、ドリンクヨーグルトのセット 350円、最後に定番のカップヨーグルト。トッピングがいろいろあったのですが、ややチャレンジのオレンジとニンジンのソースにしました。(他にも黒ごま&ほうれん草なるソースもありました。)
 ヨーグルトバーだけあってヨーグルト三昧でしたが、すっきりとした感じで飲みやすく、ニンジンのソースもオレンジと割ってあるので、フルーティーで美味しく頂きました。

洋食ブルガリアンレストラン ソフィア

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イランの歴史

2007年12月30日 22時58分59秒 | 国:オスマン・イスラム
 前回のイランの外交に続き、今回はイランの歴史です。イラン=ペルシアとしてアカイメネス朝ペルシア、アレキサンダー大王、ササーン朝ペルシアなど古代史では有名で学校の授業でも登場します。
 その後中世に入ると、イスラム教が広まり、ウマイヤ朝・アッバース朝・セルジューク朝とイスラム帝国が続き、そしてモンゴル帝国の進入、ティムール帝国の繁栄と続きますが、その後の「植民地戦争」が題材としている近世の歴史はあまり知られていません。

 ティムールの後、イラク北部のトルコ系遊牧民族の黒羊朝、つづいて白羊朝に支配されます。その後、イスラム神秘主義のサファヴィー教団が軍事力を持ち、白羊朝を滅ぼし、イラン全土を支配すると、シーア派を国教とするサファヴィー朝を建国します。これが今のイランとその周辺にシーア派が広がる要因となります。

 今日のメインはこのサファヴィー朝ペルシアです。サファヴィー朝は、建国の勢いで周辺諸国を取り込んで、オスマンの属国を併合していきます。それに対抗してオスマンが派兵したことで、チャルディラーンの戦いが起こります。この戦いでは、サファヴィー朝の騎兵が、オスマン帝国の大砲の前に惨敗してしまいます。
 その後、サファヴィー朝はオスマンの侵攻に苦しめられる時代が続きますが、アッバース1世が大航海時代真っ盛りのオランダと同盟を結ぶことで、銃兵軍団、砲兵軍団を設立するなどの軍事革命を実現したことで、オスマンに占領されていたアゼルバイジャンを取り戻すなど、国力を回復させます。
 しかし、アッバース1世が亡くなると国内は混乱に陥り、直ぐにオスマンにイラクを取られ、18世紀になるとアフガン人、クルド人などが反乱を起こすようになります。そして、アフガン軍マフムードに首都イスファハーンを攻略されると滅亡します。

 その後、イランを統一したガージャール朝は脆弱で、ロシアや英国の半植民地状態となります。その中で、軍事クーデターによりパフラヴィー朝が成立。パフラヴィー朝は、軍事力を背景に半植民地状態を打開し、さらに石油とアメリカの援助の下強力に近代化を推し進めますが、急性すぎる改革がイラン革命を招き、今のイラン・イスラム共和国になります。

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イランの外交

2007年12月27日 12時12分19秒 | 国:オスマン・イスラム
 イランが対米路線まっしぐらの中、イラクの様に国際的に孤立するのではなく、外交としてロシアから武器を買ったり、同じイスラム系が強いマレーシアと天然ガスの開発などを行っているニュースがありました。
 対米路線が正しいかはここでは議論しないことにして、対米路線を選択したなら、アメリカ以外とは仲良く協力関係を築いていくのは、外交方針として正しいです。
 ロシアは、アメリカのポーランドへのミサイル配備など軍事で揉めており、その中ロシアと軍事的に親密な関係を築き、あまりアメリカとは喧嘩したくない、マレーとはあくまで経済協力を行うと言う外交のさじ加減には賞賛せざる得ません。

 一方、日本はというと、一番下にリンクを貼ったR25のコラムで揶揄されるように、新米追従路線まっしぐらなのですが、如何なものでしょうか・・・

イラン、マレーシアのSKSと天然ガス開発契約を締結(ロイター) - goo ニュース

ロシア、イランに対空ミサイルシステム供与へ=通信社(ロイター) - goo ニュース

【コラム】 アメリカ様。今年のご要望は何ですか?(R25) - goo ニュース

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アルメニア人虐殺問題と、土・米・露

2007年10月23日 12時03分12秒 | 国:オスマン・イスラム
 オスマン帝国が、第一次世界大戦中にアルメニア人を強制移住させたことで多数死なせたことを、アメリカが「虐殺」行為だったと下院で「認定」したそうです。
 虐殺=ジェノサイトは、ナチスによるユダヤ人虐殺に代表されるように、武力行使を認めている(戦争を認めている)国連で、行ってはいけない行為とされています。「虐殺」と認められた場合、国連はそれを止めさせなければならないなど、通常の戦争や内紛と異なる認識となっております。

 しかし、何故今更、現在ではなく第一次世界大戦時代のことを持ち出しているのでしょうか? その裏には、アメリカで活動するアルメニア人グループによる下院議員への圧力があったともされます。アメリカで活動するアルメニア人グループにしてみれば、自らが過去に受けた行為を「虐殺」として認めさせ、オスマン帝国を引き継ぐ今のトルコに賠償金を払わせたいなどがあるのかもしれません。
 勿論、トルコは反発し、虐殺ではなく戦時下の強制移住の結果の死であるとして、訪米を中止するなどの講義をしています。

 もともとアルメニア人はオスマン帝国内で商業によって財を築いて、宮廷とも関係を持ち、オスマン帝国を構成する一員でした。しかし、ロシアがコーカサスに進出し、アルメニア人の居住地域を制圧すると、オスマン帝国に揺さぶりを掛けるために、アルメニア人の民族意識を高揚させ、オスマン帝国からの分離独立を煽ります。アルメニア人の過激グループは、帝国内でテロ行為を繰り返すようになり、それに農民であるイスラム人(トルコ人・クルド人など)が、財をなしたアルメニア人への反発が重なり、1894年には両者の大規模な衝突が発生し、それを鎮圧するためにオスマン軍が動き、2万とも言う死者を出すことになります。
 第一次世界大戦下では、ロシアと通じてテロ行為を繰り返すアルメニア人過激グループへの対応として、反国家・利敵行為を予防する目的でアルメニア人をロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部からシリアの砂漠地帯へと強制移住させる政策が開始され、これによって多くのアルメニア人が死亡することとなります。

 今回のアメリカ下院での決議から、歴史を紐解くと民族問題が如何に複雑かを考えさせられます。

トルコ反発 米下院委「アルメニア人虐殺」非難決議 揺らぐ?同盟関係(産経新聞) - goo ニュース

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四重冠

2007年08月30日 22時02分18秒 | 国:オスマン・イスラム
 ローマ法王のシンボルといえば、三重冠と呼ばれる冠です。今でこそ豪華過ぎると言う事で1978年のヨハネ・パウロ1世からの戴冠以降、使用しなくなりましたが、それまでは法王の地位を象徴する冠で「司祭、司牧、教導の三権」を象徴しており、中世においては言わばこの冠の主がヨーロッパ盟主として君臨していた訳です。

 この三重冠と言うシンボルに対抗意識を燃やして作られたのが、オスマン帝国の皇帝スレイマン1世がイタリアの金細工職人に作らせた四重冠です。
 当時のオスマン帝国は、ビザンチン(東ローマ)帝国を滅ぼし、その首都であるコンスタンティノプールを手中に納め、アナトリア、バルカン半島、シリア、エジプトを領土に組み入れ、その版図はまさに最盛期の東ローマ帝国の領土に及んでいます。
 その皇帝がかつてのローマ皇帝を夢見たしたとしてもおかしくありません。四重冠はそんな思いから作られたものではないでしょうか?
 イスラム教国のスルタンが、ローマのカイセル(皇帝)を目指す…そんな歴史があったことに感動です。

【名言】四重冠
 オスマンが大帝国を実現した有様を表わした言葉。「~を戴いた」

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オスマンVSヨーロッパ

2007年08月28日 20時09分40秒 | 国:オスマン・イスラム
 あまり読む機会が無かったオスマン帝国の歴史を読んでおります(著:新井政美)。内容としてはオスマンが興る前のトルコ人から、オスマン朝が興りビザンチンを滅ぼし、世界帝国を目指し、そしてヨーロッパに圧されていく一連の様が書かれています。かなり詳しく書いてあり、その割には難しすぎないのですが、かなりオスマン贔屓に書いている印象を受けました。それが私の今までの知識が、ヨーロッパから見たオスマンを見ている為に余計にそう感じるところもあるのでしょうが、どう見てもオスマンから見たヨーロッパとなっている感じがして、そこが少し引っかかりを感じました。

 スレイマン1世がオスマンの隆盛を極めたのは知っているのですが、その100年前にハンガリーを破り、ヨーロッパでは「雷帝」と恐れられた、バヤズィト1世がティムールと戦い破れ、嫡男を逃がし捕虜になるところなど、こんなところにも激動の時代があったんだと面白みがあります。

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