所属:劉表→孫権
年齢:約36歳(200年の時)
呉でも人気が高い武将の1人で、硬派の甘寧です。ちなみに字も興覇(こうは)です。甘寧が海賊あがりだと言うことは有名ですが、生まれは益州の巴郡です。最初、役人として働きますが、そう言った暮らしが馴染めなかったのか、直ぐに辞め不良連中を集めて一種の義賊紛いのことを行います。鈴を腰につけ、派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩しては、地方の長官に自分達を盛大に歓待させ、そうしないと財産を奪わせ、また領内で犯罪があれば摘発と制裁を行ったとあり、かなり粋がっていたようです。
そして1つの転機が訪れます。194年に蜀の劉焉が死んで劉璋が後を継ぐと、敵対していた長安の李カク政権は、別の者を刺史に任じて漢中に入らせた上で、益州内部の豪族に反乱を起こさせ、また荊州からも攻撃を行い劉璋政権を転覆させようと目論見ます。これに甘寧も参加します。一説には、劉璋が東州兵を取り締まれなかった為に、領内が荒れていた為、劉璋に対する不満があったと言われています。
この反乱は東州兵の頑張りにより失敗に終わり、甘寧は益州に居続けることが出来なくなり、荊州の劉表に身を寄せますが、武より文を重んじる劉表には任用されず劉表の部下の黄祖の食客となります。この頃から甘寧は乱暴を止め、いくつか書物を読むようになったと思われます。
しかし、黄祖の元では凌統の父 凌操を討ち取ったにも関わらず評価されず不遇が続きます。そんな甘寧を見かねた、都督の蘇飛が黄祖の元から甘寧が去れるように手引きしてくれ、甘寧は孫権の軍に参加することになります。
敵として甘寧の実力を知っていた周瑜と呂蒙が孫権に推薦したことで、甘寧は旧臣同様に厚遇されることになります。これが甘寧が40歳の頃ですから、甘寧にとってはやっと得た活躍の場が孫権軍だったのでしょう。この時、甘寧は孫権力に、劉表と黄祖を討って荊州を押さえ、さらに巴蜀(益州)をも攻め、天下に覇を唱えるという「天下二分の計」ともいえる戦略を提言した。とあります。これに重鎮 張昭が反対を進言しますが、甘寧は張昭相手に堂々と反論するなど弁がたつ一面を見せています。
その後の甘寧の活躍は目覚しく、黄祖を討伐し、赤壁の戦いで烏林で曹操を打ち破り、続いて南郡攻略では、夷陵を奪取する作戦を立て城を陥落させます。しかし、逆に曹仁に包囲されてしまいますが、甘寧は猛攻に何日も耐え、周瑜と呂蒙が救援に来るまでの間持ちこたえ、南郡攻略の成功に貢献します。
その後も、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙し、関羽に侵攻をあきらめさせるなどの働きをしています。
これだけ活躍した甘寧ですが、もっともの見せ場は、216年に曹操が濡須へ侵攻した際でしょう。甘寧は100人ほどの決死隊を募り、曹操に夜襲をかけます。これによって曹操軍は混乱し、最終的には撤退を余儀なくさせます。この事を孫権は喜び、「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と最大級の賛辞を送ります。
しかし、これが最後の活躍の場だったようで、没年は判りませんが呂蒙の関羽征討戦や、陸遜の夷陵の戦いではその名を見ることは出来ません。
その華々しい戦歴から、統率や武力のどちらかを5に…とも思ったのですが、統率は大軍の指揮権が無かったことと、武力は以外にも一騎打ちがズバ抜けて強い記述があるわけでも無いことから、4・4としました。しかし、マークを合えて劉表系の□○とすることで、使用しやすくすることで甘寧の有能さが出るようにしました。政治は1、知力はその戦い方が戦略を立てての戦い方であったことから、3としました。ここら辺は、趙雲や張コウなどと同じです。
年齢:約36歳(200年の時)
呉でも人気が高い武将の1人で、硬派の甘寧です。ちなみに字も興覇(こうは)です。甘寧が海賊あがりだと言うことは有名ですが、生まれは益州の巴郡です。最初、役人として働きますが、そう言った暮らしが馴染めなかったのか、直ぐに辞め不良連中を集めて一種の義賊紛いのことを行います。鈴を腰につけ、派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩しては、地方の長官に自分達を盛大に歓待させ、そうしないと財産を奪わせ、また領内で犯罪があれば摘発と制裁を行ったとあり、かなり粋がっていたようです。
そして1つの転機が訪れます。194年に蜀の劉焉が死んで劉璋が後を継ぐと、敵対していた長安の李カク政権は、別の者を刺史に任じて漢中に入らせた上で、益州内部の豪族に反乱を起こさせ、また荊州からも攻撃を行い劉璋政権を転覆させようと目論見ます。これに甘寧も参加します。一説には、劉璋が東州兵を取り締まれなかった為に、領内が荒れていた為、劉璋に対する不満があったと言われています。
この反乱は東州兵の頑張りにより失敗に終わり、甘寧は益州に居続けることが出来なくなり、荊州の劉表に身を寄せますが、武より文を重んじる劉表には任用されず劉表の部下の黄祖の食客となります。この頃から甘寧は乱暴を止め、いくつか書物を読むようになったと思われます。
しかし、黄祖の元では凌統の父 凌操を討ち取ったにも関わらず評価されず不遇が続きます。そんな甘寧を見かねた、都督の蘇飛が黄祖の元から甘寧が去れるように手引きしてくれ、甘寧は孫権の軍に参加することになります。
敵として甘寧の実力を知っていた周瑜と呂蒙が孫権に推薦したことで、甘寧は旧臣同様に厚遇されることになります。これが甘寧が40歳の頃ですから、甘寧にとってはやっと得た活躍の場が孫権軍だったのでしょう。この時、甘寧は孫権力に、劉表と黄祖を討って荊州を押さえ、さらに巴蜀(益州)をも攻め、天下に覇を唱えるという「天下二分の計」ともいえる戦略を提言した。とあります。これに重鎮 張昭が反対を進言しますが、甘寧は張昭相手に堂々と反論するなど弁がたつ一面を見せています。
その後の甘寧の活躍は目覚しく、黄祖を討伐し、赤壁の戦いで烏林で曹操を打ち破り、続いて南郡攻略では、夷陵を奪取する作戦を立て城を陥落させます。しかし、逆に曹仁に包囲されてしまいますが、甘寧は猛攻に何日も耐え、周瑜と呂蒙が救援に来るまでの間持ちこたえ、南郡攻略の成功に貢献します。
その後も、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙し、関羽に侵攻をあきらめさせるなどの働きをしています。
これだけ活躍した甘寧ですが、もっともの見せ場は、216年に曹操が濡須へ侵攻した際でしょう。甘寧は100人ほどの決死隊を募り、曹操に夜襲をかけます。これによって曹操軍は混乱し、最終的には撤退を余儀なくさせます。この事を孫権は喜び、「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と最大級の賛辞を送ります。
しかし、これが最後の活躍の場だったようで、没年は判りませんが呂蒙の関羽征討戦や、陸遜の夷陵の戦いではその名を見ることは出来ません。
その華々しい戦歴から、統率や武力のどちらかを5に…とも思ったのですが、統率は大軍の指揮権が無かったことと、武力は以外にも一騎打ちがズバ抜けて強い記述があるわけでも無いことから、4・4としました。しかし、マークを合えて劉表系の□○とすることで、使用しやすくすることで甘寧の有能さが出るようにしました。政治は1、知力はその戦い方が戦略を立てての戦い方であったことから、3としました。ここら辺は、趙雲や張コウなどと同じです。