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匡亭の戦いによる敗戦によって陶謙が見限り袁術と敵対します。もともと陶謙は袁術からの独立を狙っていましたし、前年に命令されて曹操を攻めさせられたのを恨んでいたのかもしれません。この離反と前後が定かではないのですが、193年に曹操の父が徐州で陶謙の部下に殺される事件が起きます。
この事件は単に陶謙の部下が財宝に目が眩んでやったと言うことですが、真実は定かではありません。しかし、この後、この事件によって曹操が徐州に攻め込み、陶謙が大変な目にあって、袁術が得をしたことを考えると袁術の策謀と言う可能性もあるのでは無いかと勝手に思ってしまいます。
かくして193年の秋に曹操は父の復讐とばかりに徐州で惨殺を繰り広げることになります。そして一旦曹操が引き上げると、陶謙はこの恨みとばかりに、袁術と敵対することを明確にして、豫州に劉備を派遣します。
豫州はこれまで孫賁が治めていましたが、袁術は寿春に入ると豫州よりも揚州の地盤固めに入る為、孫賁に丹陽郡の周キンを攻めるように命じます。空いた豫州は郭貢に任せます。郭貢は名ばかり刺史ですので、そこを突いて陶謙は劉備を豫州刺史に任じたのです。
また、匡亭の敗戦は李カクの変心を招きます。李カクは袁術を見限って陶謙と組みます。その為、劉備の豫州刺史を承認しますし、陶謙が王朗を会稽太守に推薦するのも認めます。あからさまに袁術の揚州支配への対抗です。さらに、劉ヨウを揚州刺史に任じて派遣してきます。
しかし、194年から195年に掛けて袁術は着実に復帰を図ります。曹操の第2次徐州侵攻の際に陳宮をそそのかし、反乱を起させます。この反乱によって曹操は2年間忙殺されることになります。そして陶謙が病死したことで、徐州も劉備、呂布と主を変える混乱に陥ります。
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北の憂いを謀略で無くすと、袁術は揚州攻略に掛かります。まずは馬日テイにお願いして、配下の華キンを豫章太守に任じてもらいます。袁術敗戦後も馬日テイは袁術の元に居ました。自ら進んで居たのか、袁術に脅されてかは定かではありません。また、華キンも191年に袁術に董卓打倒を進言して聞き入れられないと、袁術の元を離れたとありますが、これとは別に馬日テイの幕下に居たとあります。馬日テイが袁術の元にいるなら華キンも194年前後まで、袁術の元に居たと思われます。そうすると華キンは袁術派として豫章に赴いたと考えるべきでしょう。
また、袁術は孫賁・呉景・孫策と言った孫堅派の武将を使って揚州各地を支配していきます。丹陽・九江に続き劉ヨウの呉郡を攻略します。劉ヨウには梃子摺りますが、孫策が見事劉ヨウを撃退します。その後、孫策は会稽の王朗を攻めることになるのですが、地図を見てのとおり、豫章の華キンが袁術派なら揚州で反袁術なのは王朗のところだけです。まあ狙われて当然でしょう。こう言う視点で見ると、孫策の揚州各地の攻略は袁術の意思による攻略だっとも言えます。
しかし、その孫策は着々と袁術からの独立を伺いだします。袁術が孫策の会稽攻略によって揚州全土を掌握したことで、それを契機に皇帝を僭称すると、それを覆すかのように孫策は袁術からの離別を図り、揚州各地は袁術ではなく孫策に付くことになります。袁術に残ったのは九江の劉勲と、旗色不明の豫章の華キンだけです。その華キンも虞翻が説得に行くと当然ですが、孫策の配下に鞍替えします。
この孫策の離反により揚州に足場を失った袁術は失意の後、袁紹を頼って北上し、その途中で病死することになるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/ec/eebcb5e5601ad11728c884a0e531c1d9.jpg)
どうでしょうか? この年代の動きを袁術中心に見ていくとまた違った流れが見れてくるような気がします。まあ、当初の袁術をこれ以上なく評価するのはさすがに無理でしたが・・・(~_~;)
袁術の野望とその終焉1
この事件は単に陶謙の部下が財宝に目が眩んでやったと言うことですが、真実は定かではありません。しかし、この後、この事件によって曹操が徐州に攻め込み、陶謙が大変な目にあって、袁術が得をしたことを考えると袁術の策謀と言う可能性もあるのでは無いかと勝手に思ってしまいます。
かくして193年の秋に曹操は父の復讐とばかりに徐州で惨殺を繰り広げることになります。そして一旦曹操が引き上げると、陶謙はこの恨みとばかりに、袁術と敵対することを明確にして、豫州に劉備を派遣します。
豫州はこれまで孫賁が治めていましたが、袁術は寿春に入ると豫州よりも揚州の地盤固めに入る為、孫賁に丹陽郡の周キンを攻めるように命じます。空いた豫州は郭貢に任せます。郭貢は名ばかり刺史ですので、そこを突いて陶謙は劉備を豫州刺史に任じたのです。
また、匡亭の敗戦は李カクの変心を招きます。李カクは袁術を見限って陶謙と組みます。その為、劉備の豫州刺史を承認しますし、陶謙が王朗を会稽太守に推薦するのも認めます。あからさまに袁術の揚州支配への対抗です。さらに、劉ヨウを揚州刺史に任じて派遣してきます。
しかし、194年から195年に掛けて袁術は着実に復帰を図ります。曹操の第2次徐州侵攻の際に陳宮をそそのかし、反乱を起させます。この反乱によって曹操は2年間忙殺されることになります。そして陶謙が病死したことで、徐州も劉備、呂布と主を変える混乱に陥ります。
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北の憂いを謀略で無くすと、袁術は揚州攻略に掛かります。まずは馬日テイにお願いして、配下の華キンを豫章太守に任じてもらいます。袁術敗戦後も馬日テイは袁術の元に居ました。自ら進んで居たのか、袁術に脅されてかは定かではありません。また、華キンも191年に袁術に董卓打倒を進言して聞き入れられないと、袁術の元を離れたとありますが、これとは別に馬日テイの幕下に居たとあります。馬日テイが袁術の元にいるなら華キンも194年前後まで、袁術の元に居たと思われます。そうすると華キンは袁術派として豫章に赴いたと考えるべきでしょう。
また、袁術は孫賁・呉景・孫策と言った孫堅派の武将を使って揚州各地を支配していきます。丹陽・九江に続き劉ヨウの呉郡を攻略します。劉ヨウには梃子摺りますが、孫策が見事劉ヨウを撃退します。その後、孫策は会稽の王朗を攻めることになるのですが、地図を見てのとおり、豫章の華キンが袁術派なら揚州で反袁術なのは王朗のところだけです。まあ狙われて当然でしょう。こう言う視点で見ると、孫策の揚州各地の攻略は袁術の意思による攻略だっとも言えます。
しかし、その孫策は着々と袁術からの独立を伺いだします。袁術が孫策の会稽攻略によって揚州全土を掌握したことで、それを契機に皇帝を僭称すると、それを覆すかのように孫策は袁術からの離別を図り、揚州各地は袁術ではなく孫策に付くことになります。袁術に残ったのは九江の劉勲と、旗色不明の豫章の華キンだけです。その華キンも虞翻が説得に行くと当然ですが、孫策の配下に鞍替えします。
この孫策の離反により揚州に足場を失った袁術は失意の後、袁紹を頼って北上し、その途中で病死することになるのです。
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どうでしょうか? この年代の動きを袁術中心に見ていくとまた違った流れが見れてくるような気がします。まあ、当初の袁術をこれ以上なく評価するのはさすがに無理でしたが・・・(~_~;)
袁術の野望とその終焉1
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