主人の訃報を聞き、東京に住む大学時代の親友と大阪に住むもう一人の同級生がいち早く告別式に駆けつけてくれた。
その親友は告別式後も私を気遣ってすぐ電話をくれたが、遠くにいても時折メールをくれる人のひとりだ。
東京の彼女との最初の出会いは、40年以上も前の大学入学の頃なのにあざやかに覚えている。
私は高校音楽科から大学に上がっていて、大学から入った彼女とは面識がなかった。
高校音楽科は大学の先生からもレッスンを受けるので、大学の教授陣始め講師の先生の大方を知っている。
その中の声楽の先生と、同じ町内に住み先生の門下でもあったその親友は、声楽の先生から聞いていたのか私のことを知っていたようだ。
高校音楽科の生徒たちは普通高校と違い、音楽専門教科をたくさん履修し、授業が終わった後もそれぞれの専門実技(ピアノ、声楽、管、弦楽器など)の練習などで部活をする余裕はなく、私は大学生になったら絶対クラブに入る、絶対フォークソング部に入ろうと決めていた。
私は「東大紛争」のあったまさしくその時に受験生で、小、中学の同級生の男子の一人は、東大を受験できず京大に行ったのを思い出す。
この時代の男子学生は、長髪、ヨレヨレのGパンがトレードマークで、まさにフォークソングブーム真っ只中の時代だった。
「神田川」や「いちご白書をもう一度」何ていうのを聞くと、思わずその当時の風景や交流のあった大学との「合コン」ならぬ「合ハイ」(合同ハイキング)の場面まで脳裏に浮かんで、胸キュンとなる。
でも今その人と会ったら、お互いのあまりの変貌で気づかないだろうし、年月の経過の残酷さを実感することだろう。
入りたかったフォークソング部は、あまりの人気で人数制限があって入ることができなかった。
少し落胆していた私に、同級生の彼女が誘ってくれたのが「女声合唱団風」の前身でもある「合唱部」だった。
彼女との不思議な縁は、彼女のご実家から2キロほど東に行ったところ堺市「大饗(おあい)」という地域に、現在うちの三男が7年ぐらい住んでいるということ。
私が学生時代時々お邪魔した彼女のご実家のあたりもかつては「大饗」と呼ばれたという。
かなり前のことになるが、私の実家の父が趣味でやっていた陶芸の作品展を開いた際、見ず知らずのギャラリーのオーナーさんが来られて、作品を気に入って置いて下さるようになった場所が彼女のご実家の近くで、すでに亡くなられた彼女のご両親が、父の作った壺などを何点か買って下さったということなど。


辰砂(しんしゃ・鉱物の一種・赤色)のお皿と壺(直径30㎝ぐらい)

木の葉天目茶碗

油滴天目茶碗

亜鉛結晶壺(雪の結晶のような模様)
彼女は「本当の出会いに別れは来ない」のひとり。
この言葉は、主人が10年ほど前に病気になった時先輩がくれた日めくりにある。
その先輩とは「風」で一緒に今も歌っている。