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〜かたることばが歌になる風になる〜

教え子が書きあげたファミリーヒストリー その一

私が大学3回生の頃
母の知人の方の、小学5年生の娘さん3人のピアノのレッスンを頼まれました。
元々どちらかというと人見知りタイプの人間の私が、子供さんにピアノを教え
同時に小学校の先生をするような初体験。
お母さんたちとうちの母親がおしゃべりする中で、仲の良いお友達同士の3人は
10歳しか違わない私、これから習うピアノの先生の前でも
屈託なく姦しくおしゃべりしていて、先生として初心者の私にとっては
向き合いやすい子供たちだと思えた出会いでした。

彼女たちには、中学生になる頃までレッスンをしましたが
3人の内の2人は未だに年賀状のやりとりをしていますし
その内の1人玲子ちゃんとは、徳島の男性と結婚してからも
時々手紙をくれたりして、近況を知ることができるお付き合いをしています。

だんじり大好きな彼女は、女子には「青年団」がないことを嘆いて
高校最後のお祭りで、だんじりを曳くのを引退することが寂しくて
夜なか中、小屋にだんじりが収まるまで後を追いかけた話なども聞いた女の子。
今ではお孫さんまでいるというのに、私にとっては何時までも
女子高生の時のイメージでしかありません。

俳画の先生のお母さんの影響もあって、彼女も俳句をたしなみ
同人誌を送ってくれることもありましたが
先日、彼女から、自費出版の自分で書いた小説が送られてきました。
父方のお祖父さん勝次郎さん5歳下の弟 捨三郎さん主人公の物語
「勝次郎さんと捨三郎さん」というファミリーヒストリーです。



勝次郎さん(玲子ちゃんのお祖父さん)お父さん
安政元年(1854年)岸和田の旧家川﨑家に生まれます。
代々長左衛門を襲名していて川長」という屋号の十七代目
この長左衛門さんには、明治16年生まれ長男 正一(まさいち)さん
この物語主人公の、明治18年生まれ次男 勝次郎(かつじろ)さん
明治23年生まれ三男 捨三郎さん(すてさん)がいました。
そして捨三郎さんの生まれた半年後に、お妾さん宅にも男の子ができ
お妾さんの子供「治三郎」と名付けられました。
お妾さんにはこの子の2歳上にもすでに男の子がいたそうです。

長左衛門さんは妾宅に入り浸り、気位も高かったお母さんは
親戚筋の人たちが度々来て話し合いの末
正一さん、勝次郎さん、捨三郎さんと長姉ら子供を置いて
実家に戻ることになりました。
実家に戻る前夜、仏間で正座したお母さんは、正一さんと勝次郎さんに
「あんたら二人は川﨑家の子です。さすが川﨑家の子やと褒めてもらえるよう
しっかり気張りなさい」と言い残して、翌日実家に戻って行きました。

お母さんが実家に帰ってから1年半ほど経った、勝次郎さんが小学校1年生の夏休み
他所の人に見られないよう早朝、捨三郎さんを乳母車に乗せて
弟の成長ぶりをお母さんに見せたいと、自分の家から8キロほど離れた
お母さんの実家まで、乳母車を押して行ったことが書かれています。
小学校1年生の少年勝次郎さんは、お母さんの家の場所をよく知らないで
迷いに迷って、何時間もかかって汗だくになってたどり着くのです。

着いたお母さんの家で、応対してくれた家の者が団扇で扇いでくれて
冷たい飲み水を出してくれたけれど、しばらくして出てきたお母さんは
「帰んなはれ」
「勝次郎さん、あんたはちゃんと勉強して立派な人にならんとあかんのや、、、
もう二度とここへ来たらあきまへん、帰んなはれ」とそう言って
奥に入ってしまいます。どこかで観るドラマの一コマのようです。
乳飲児を置いていった母親に、少し大きくなった弟を見てもらおうとした兄の気持ちは
婚家と決別をした、母親の揺るぎない態度で打ちのめされます。
明治の女性はどこか違うと言われますが
子供たちが生まれた年を見ると
お母さんは江戸時代を生きてきた女性。気概が違うように感じます。

ここの家の人からもらったおにぎりをほぐして、弟の口に入れてあげながら
勝次郎さんは自分の無力さを思い、泣けて仕方なかったというこの下りに
大人の事情で理不尽な経験をする小さな子供の哀れさが
私の心にグイグイと入り込んできて、涙を抑えることはできませんでした。

その後、捨三郎さんと妾宅の治三郎さんは、それぞれ他家に養子に出すという
喧嘩両成敗という形で、川崎家のお家事情は収められました。

勝次郎さんは地元の中学(旧制中学)に進学し
5年の所を成績優秀で4年で飛び級で卒業します。
川崎家に入った継母やその子供が居る、複雑な家庭環境から脱出するように
長男正一さんは、東京駒場農科大学(現在の東京大学農学部)に進学。
それを見ていた勝次郎さんは
地元を離れて誰も居ないところに行き
独立して生計を立てたいという思いが強くなり
この意志を伝えていた中学の教師から「移民」という制度があること
アメリカやハワイに移民して力を試すという選択を提案されました。
この当時、アメリカに渡ることは苦学生の憧れだったそうで
明治28年ごろの日本は、日清戦争後で好景気。
成功気運の中での立身出世や、新天地への憧れ
新しい世界を見たいという若者が多く、こんな時代のまっただ中
勝次郎さんの、川崎家と訣別して誰も知っている人がいない
アメリカに行こうという思いは、ドンドン強くなっていきます。

この頃、アメリカのコロラド州のデンバー近郊の開墾地に
移民で入植する手続きをすると、18歳以上という条件の4人が共同開拓者として
160エーカーの土地を手に入れることができるという情報を知ります。
1エーカーは約1200坪で、おおよそサッカーグラウンド1つ分。
160エーカーはサッカーグラウンド160個分となります。

4人の応募の詳細が決まるまで
勝次郎さんは、横浜から最初に行くシアトルへの船を調べたり
自分の村にシアトルに移民した人が居るという事を耳にして
そこを訪ねたりしている内に、会ったこともない後の3人と共に
開拓者に決まったという通知をもらいます。
英語もろくにしゃべれない18歳の青年は
全く面識もない日本人との入植に賭けて
この後、単身アメリカに渡ることを決意します。

江戸時代の頃は、15歳で成人でしたから、明治の時代の18歳の男子は
しっかりしていて当たり前だったのかもしれませんが
見たこともない異国の地に、単身で渡った勝次郎さんという人物の
精神力、チャレンジ精神には感服しますね。
次の「その二」では、勝次郎さんはいよいよアメリカ上陸を果たします。


活動を終了した「女声合唱団風」のこと、「コーラス花座」のこと、韓国ドラマ、中国ドラマなど色々。

コメント一覧

chorus-kaze
ナビィさま
コメントありがとうございます。
「その二」をまとめながら
これテレビドラマになるようなぁと
久々に心躍るような気持ちで書いていました(^_^)v
ナビィ
なんてドラマティックなんでしょう😭
昔の人は自分で努力して、自分の手で人生を切り拓いていたのですね。
ドラマ以上にドラマですね✨✨
続きが気になります。
楽しみにしていますね!
chorus-kaze
デ某さま
ありがとうございます❣️
一応玲子ちゃんに伝えました。
とても驚いて、良いんですか?とのことでした。
「その二」では更にドラマティックです(*⁰▿⁰*)
デ某
高槻市の図書館にあるかなぁ?と蔵書検索しましたが、「該当する書はありません」でした。もし余裕がありましたら府内の図書館に(とりわけ高槻市服部図書館に)寄贈いただきたく思います。
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