中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

根岸外国人墓地とドイツ巡洋艦爆破事故

2015年09月02日 | レトロ探偵団

 8月31日の記事で、ドイツ軍艦爆発事故のことを書きましたが、今日はその続きです。
 戦後50周年を迎えて1995年に朝日新聞が連載した、「半世紀の軌跡」というシリーズを読んで知ったことを書き留めておきます。

 爆発は1942年11月30日午後1時45分ごろ、新港ふ頭に停泊中のドイツ軍艦ウカーマルク号の高射砲ハッチのそばで起きたそうです。
 すぐ近くの軍艦トール号や汽船ロイテン号にも延焼し、横浜港全体が燃え上がりました。この事故の犠牲者は102人。その内訳はドイツ人61人。ウカーマルク号で清掃作業中だった中国人36人、そして日本人が5人でした。

 日本の海軍は非常線を張り調査を進めました。ウカーマルク号は油を陸揚げし、空になった油層を清掃していたのですが、そこでサビ落としの作業中に火花が飛び、ガスに引火したのが原因だといわれています。

 生き残ったドイツ人乗組員は箱根の「松坂屋」という旅館に収容され、80~130人ぐらいの兵士がここで生活をすることになりました。

 しかし、戦局が悪化するなか、横浜からドイツに帰還する船があるはずもなく、彼らはそのまま箱根に留まることになります。
 集団疎開してきた小学生たちとも一緒に過ごしたとか。同盟国ということから、彼らの間に交流も生まれたそうです。

 そして1945年8月15日。日本の敗戦によって戦争が終わりました。
 しかし、ドイツ戦艦の兵士たちは簡単に帰国することはできませんでした。本国に戻れば戦犯として処罰されるかもしれませんし、また帰国する船もなかったからです。
 結局、彼らが日本を出国しドイツに帰ることができたのは、1947年2月のことでした。戦争が終わって1年半も経っていたのです。


 その生き残った兵士の一人、ウィルヘルム・オスターフェルト氏は戦後、あの爆発事故で亡くなった戦友たちのことを調べ始めました。
 そこで分かったことは…

 山手の外国人墓地には将校クラスの墓があり、そこには71人の将兵とあり、55人の名前と身元不明者16人の墓である旨が記載されていたのです。
 一方、根岸外国人墓地の方には「ドイツ人乗員」と記載されているだけでした。

 以上が朝日新聞の記事に書かれていたことなのですが、なんかヘンでしょ。ドイツ人兵士の人数が合わないのです。
 私は山手の外国人墓地にあるという将校クラスのお墓を見ていないので詳しく分かりませんが、71人の将兵というのはどうなのでしょうか。
 記事の最初の方で61人のドイツ人と書いてあるのです。なぜ10人も多いのか…
 そして根岸外国人墓地の方にはそのまま61人と彫られています。


 う~ん。なんでしょうね、この差は。
 山手の外国人墓地にはなかなか入る機会がありませんが、たまに公開される日があるので、それを利用して調べてこようかなと思っています。
 

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