8月半ばのことですが、シベリア仲間のケイさんと作治さんと大船で暑気払いをやろうということになりました。 場所はもちろん「おでんセンター」です。 その日の午後、私は戸塚に用事があったのでそれを済ましてから先遣隊としてお店に向かったのですが…… なんとお盆休み(涙) 結局お二人を待つことなく、急遽、近くのケイさん宅で宴を張ることに。 昔話や某首相の話題を肴に2時間ほど歓談したあと、帰りがけにこんな本をお借りしてきました。 『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』。 ゲンダーヌというのは、かつて樺太に住んでいた、あるウィルタ族の男性の名前です。本書では、戦前から戦後にかけて、数奇な運命をたどった彼の人生を描いています。 日本やロシアがこの島に入ってくる前は、アイヌのほかウィルタ(オロッコ)、ニブフ(ギリヤーク)、エベンキ(キーリン)、ウルチャ(サンダー)、ヤクートという北方少数民族が先住者として住んでいました。 彼らの生活は狩猟が中心で、国家を形成せずに島内を移動していたと言います。 ところが江戸時代、松前藩の出先機関が大泊(現・コルサコフ)に置かれ、日本による開拓がはじまりました。 ペリーが浦賀に現れたのと同じ1853年には、北方からロシアが樺太にやって来て自国の領土だと宣言します。 これによって国境というものが必要になったわけですが、その確定交渉は難航し境界線は不確定のまま日本人、ロシア人、北方民族が一緒に住むことに。 大泊(現コルサコフ) 1855年に締結された日露和親条約では、千島列島における国境は設定しましたが、樺太島内での国境を画定せず、これまでどおり日本人、ロシア人が混住することになりました。もちろん北方少数民族も、今までどおり島内を自由に移動して生活を続けています。 国境が決まったのは1875年。 樺太・千島交換条約が締結され、樺太は全島がロシア領に、千島列島はすべてが日本領に決定しました。 それから30年後の1905年、今度は日露戦争後のポーツマス条約によってロシアは樺太の南半分を日本に譲渡します。 その後、40年間、南樺太は日本の領土として行政機関などが置かれてきたのですが、1945年8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連軍が対日参戦し、南樺太・千島列島に侵攻してきました。 終戦の8月15日以降も南下が続き、9月3日までの間に南樺太・千島列島だけではなく積丹、歯舞などの北方四島も占領してしまいました。 大泊(現コルサコフ)から豊原(ユジノサハリンスク)へ向かう道路 そんなわけで、樺太に住む少数民族は日本とロシア(ソ連)という国家間の争いに翻弄され、そのたびに日本人化、ロシア人化されてきたのです。 本書の主人公であるゲンダーヌさんは1926年頃に樺太で生まれています。 その頃の樺太は日本領の時代でしたから、日本は樺太庁がある敷香町の郊外、ホロナイ川の河口に「オタスの杜(もり)」という集落をつくり、そこに北方少数民族を集めて定住化を図りました。 昭和5年(1930)には、オタスの杜に「土人教育所」という名の少数民族向けの学校が開設され、皇民化教育が本格化していきます。(すごい名前ですよね) そこでは日本語の読み書き、修身などの授業が行われ、名前もウィルタ名のゲンダーヌから日本名の「北川源太郎」に変えられてしまいました。 サハリン州郷土博物館の敷地内に展示されている大砲。日露戦争当時のものだ。 明治37,38年紀念の刻印。 やがて模範的な軍国少年に育ったゲンダーヌ(北川源太郎)さんは昭和15年(1940)に教育所を卒業し、ウィルタとして初めて敷香支庁の職員に採用されました。 楽しく過ごしたのは2年ほどで、昭和17年(1942)に陸軍特務機関から2人の兵隊がハガキを持ってゲンダーヌさん宅を訪れます。 それは通常の赤紙ではありませんでしたが、出頭命令の書かれた召集令状でした。 8月、彼は徴兵検査に合格し、大日本帝国の軍人となりました。 北方少数民族に対する軍事教育は、中野学校の将校・下士官が交互に担当。もともと狩猟民族である彼らは、非常に機敏であり、とくに射撃の腕前は日本の軍人など足元にも及ばないほど優れていたといいます。 ゲンダーヌさんらは国境地帯におけるスパイの摘発、国境警備隊との通信、ソ連軍兵士の動向、電信盗聴の要領などが徹底的に仕込まれたのち、特務機関員として北緯50度線の近くで諜報活動を続けていましたが、昭和20年(1945)8月9日、ソ連が突如参戦してきたため現地では大混乱が起きます。 旧日本軍のトーチカ トーチカの内部:かなり頑丈にできていて簡単には壊せないそうです やがて、約3万人が暮らしていた敷香町に侵攻してきたソ連軍は、ゲンダーヌさんらを拘束し、徹底的に取り調べます。 彼は誰の援護もなく、ソビエトの軍事法廷で日本軍のスパイとして裁かれ、8年間の重労働という刑が宣告されました。 日本の特務機関員にされた北方少数民族は戦犯として、大泊港からウラジオストック、ハバロフスク、ウランウデ、イルクーツクを経て、カンスクのラーゲリ(収容所)に送り込まれてしまったのです。 参考に イルクーツクからカンスクまでのスライドショー ゲンダーヌさんは日本名の「北川源太郎」から、今度はロシア名で「ゲナージャ(愛称ゲーニャ)」と変えられてしまいました。 その後、いくつかのラーゲリ間の移動を繰り返し、重労働の7年半が経ったころ、残り半年の刑期を残して釈放されたのですが、自由の身になったわけではなく、ヤーマンという所に強制的に移住させられてしまいました。 そこは囚人あがりの人たちが新しいを建設する現場でした。これは体のいい流刑というわけだったのです。 昭和30年(1955)、突然、「刑期満了による釈放」という通達がありました。ダモイ(帰国)です。 サハリンに残った朝鮮民族のおばあさん:強制的ではなく出稼ぎのような形で自発的に樺太にやって来た朝鮮人も多かったそうです。 しかし、ここで重大な選択を迫られることに。帰国といっても、元々彼らの国はありません。ただ生活をしている場があっただけです。 それは樺太だったのですが、その頃、島は完全にロシア領となっていました。そこにはゲンダーヌさんの両親が住んでいます。 一方、先に釈放された兄が北海道稚内に移住していたので、そこを頼って初めて見る日本に行くことも考えられました。 どちらに行くか散々迷った挙句、彼が選んだのは日本の本土でした。4月、舞鶴港に到着。 そこで見たのは、出迎えの家族と帰還者が抱き合い涙する光景でした。しかし、ゲンダーヌさんを迎える人はいません。このとき初めて自分が独り取り残されていることを知り、上陸するところを間違えたと気がつきます。 しかし、もう樺太に戻ることはできません。仕方なく、重い足取りで稚内に向かい、そこからさらにオホーツクの流氷が来るという網走に行くことになりました。 この町に住むことを決めたものの、戸籍のない者には就職のあっせんもしてもらえないことが分かり愕然とします。 自分では日本人「北川源太郎」になって帰還したと思っていたのですが、単なる無籍者としてしか扱われないのでした。 1937年に大日本帝国が樺太豊原市に創立した樺太庁博物館の建物(現サハリン州郷土博物館):1945年には日本の陸軍第88師団の本部が置かれた そこで新たに就籍する手続きを取り、昭和32年になってようやく戸籍が作られました。これで大手を振って職安に行き仕事を探すことができるようになったのですが、斡旋されたのは失業対策事業でした。その後は日雇労働や失業保険で暮らしていくことになります。 同時に軍人恩給の申請もするのですが、特務機関から出されたものは正式な召集令状ではないこと、そして当時の戸籍がなかったことなどを理由に、却下されてしまいました。戦後補償を得ることはできなかったのです。可哀そうですよね… やがて彼は自分がウィルタであることを強く自覚し始めます。 そして1970年代、自らウィルタであることを公表し、民族の文化を残していく活動に邁進していくことになりました。 1975年に「オロッコの人権と文化を守る会」(翌年ウィルタ協会と改称)が発足。彼は北方少数民族の資料館や慰霊碑の建設、樺太の同胞との交流という事業を始めたのです。 (オロッコというのはアイヌ人がウィルタを呼ぶ時の呼称です) 1978年、ウィルタ民族の文化遺産を収めた北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ」が完成し、彼はそこの館長となったのですが、残念ながら1984年に亡くなってしまいました。 これを機に、資料館の運営は厳しくなり、2000年ごろにはほぼ閉館状態に。そして数年前、とうとう閉館となったのです。 ジャッカ・ドフニはなくなりましたが、北海道立の北方民族博物館が網走に開館し、樺太だけでなく、ロシア・北米などの諸民族についても展示しています。 さて、今日は9月3日。我が国では特別な日ではないのですが、旧ソ連にとっては対日戦勝記念日でありました。 ロシアになってからもソ連時代の記念日を引き継ぎ、近年まで9月3日が終戦の日とされていました。 現在はアメリカ、イギリス、フランスなどと足並みを揃えて、ロシアでも9月2日が「第二次世界大戦終結記念日」に指定されています。 ちなみに中国では9月3日が抗日戦勝記念日となっていて、今日はその70周年を祝って軍事パレードなんかをやったそうですが… 真岡(現ホルムスク)市郊外の熊笹峠 戦勝記念のモニュメント 熊笹峠の戦闘で戦死したソ連兵の名前のようです モニュメントの上に乗ってるのは迫撃砲か対空砲でしょうか。いまだに北海道を狙っています。 『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』 著者は田中了+D・ゲンダーヌ。 ゲンダーヌさんは1984年に亡くなっていますが、そのあとウィルタ協会の代表を務めていた田中了さんも、今年3月に逝去されてしまいました。 現在、ウィルタ協会のホームページやブログが閉鎖または更新なしの状態になっています。 しかも日本で公表されているウィルタはゼロだといいます。(サハリンには300人ていど在住) 日本とソ連の戦争に巻き込まれた少数民族は分断され、しかも両国の中で同化させられ消えていってしまう運命なのでしょうか。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
北海道には樺太からの引き揚げ者が多いのですが、高齢になり往時を語れる人も少なくなっています。
懐かしい横浜の情報満載!…と
いつも拝見していましたが、今日は思いがけない記事に驚きコメントしました。
ところで…
シベリア仲間とは?
ふと思った疑問です。
道新に出た記事でしょうかね。
戦後70年で特集記事を組んでたようですね。
樺太からの引揚げ者はどんどん少なくなっています。
いろいろ聞き書きをまとめてほしいですね。
シベリア仲間…
抑留されていたわけではないです。
一緒に旅をした仲間です。
シベリア仲間…年齢的に抑留とは思いませんでしたが…
ひょっとして、カステラに餡の入った
あのシベリア仲間か?と(笑)
私の両親も樺太引き揚げ者なんですよ。
父は二年前に亡くなりましたが、
母は健在!
昔話を聞かせてもらっています。
ほかに南洋の島々に住む人たちも、
ひどい目に遭っています。
戦後もアメリカの原水爆実験によって。
大相撲の大鵬も樺太生まれでしたよね。
かなり苦労したようです。
アンコの入ったシベリア!
最近は見かけませんが、
横浜の桜木町に、これの名店があります。