中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

ハイネの原画によるペリー提督横浜上陸の図

2020年07月29日 | レトロ探偵団

 毎年たのしみにしてる横浜開港記念日。いつもならGW中に行われる国際仮装行列(最近はザよこはまパレードって言うらしい)、そして開港記念バザーに花火大会、それらが今年は新型コロナの影響ですべて中止になってしまった。残念だったよね。
 その代りに今日は皆さんに、ハイネ原画によるペリー提督横浜上陸の図にまつわるお話を少しだけアップしておこうと思う。
 冒頭の写真は、いつだったか開港資料館で開催された展示会のときに撮影したもの。(展示室内は撮影不可なのだが、通路に飾ってある史料はOKなの)。
 ペリー提督の一行が横浜に上陸し、急造の応接所に向かう様子が描かれ、江戸湾にはアメリカの艦隊が浮かんでいる。左からサラトガ号、サザンプトン号、ヴァンダリア号、ミシシッピ号、マセドニアン号、ポーハタン号、サスケハナ号、レキシントン号。
 話がそれるけど、むかし、昭和50年代だったろうか、関内の「駅前第1ビル」地下に「サラトガ」という名のレストランがあった。昼は旨いランチを食べに、夜は仲間と呑みにと、青春を謳歌するためしばしば利用したものだが、横浜の歴史に疎かった自分は当時、この店名の由来をまったく知らなかった。それから数年して、ペリー艦隊の中にサラトガ号という船があったことを知り、あの当時の店主はこれを知っていて名付けたのかぁと、あとになってから感心したものだ。

 さて、この絵を部分的に拡大すると、いろいろなものが見えてくる。ここからはWikipediaの写真を使わせていただくよ。


 警護する兵隊たちの後ろに集まっているのは、見物に訪れた野次馬。
 沖に浮かぶ黒船はもちろん、上陸してきたアメリカ人を見るため、おそらく周辺の村からも大勢やってきたのだろう。
 だが、目だけが真っ黒で、なんだか骸骨みたい……。

 黒船と護岸の間に浮かぶのはバッテラだ。ポルトガル語で小舟とかボートを意味する「bateira(バッテーラ)」だが、のちにその形が似ていることからバッテラ寿司の由来となった。


 もうちょっと近づいてみよう。手前に役人らしき武士が描かれているが、どうも顔の雰囲気が日本人らしくない。まるで西洋人だ。
 やっぱりハイネは日本人の顔をうまく書けなかったんだろうね。

 小さな祠は水神の祠。これはのちに厳島神社に移転したといわれているが、果たしてその真偽は……。


 歩いてくる隊列の先頭にいるのがペリーだ。その後ろに続く隊員たちが掲げる旗、右に見えるのは星条旗だね。
 左端に描かれている建物は、急ごしらえで造った応接所。その壁に掛けられているのは横須賀奉行の紋らしい。


 一枚の絵からいろいろなものが見えてくるのだが、よく分からないのがこの犬。なんだろう、こいつらは…。ペリーの一行が連れてきた犬なのか。それとも、厳重な警護の隙間をぬって入り込んだ日本の犬なのか。だとしたら警備が随分甘かったと思うよね。

 さらに不思議なのが、こんな重要な場所に少年が混じっていることだ。それも群衆の中ではなく、画面のほぼ中央、しかもペリーの間近に立っている。これはいったい誰なのか?

 この絵は嘉永7年(1854)、ペリーが艦隊を率いて来航し、3月に横浜村で日米和親条約(神奈川条約)を締結したときの様子を描いたもの。
 日本は日米修好通商条約の締結を経て1859年、横浜開港を迎えるのだが、翌万延元年(1860)1月には、我が国の使節団がポーハタン号と咸臨丸に分乗しアメリカを訪問した。これは開港前年に締結された日米修好通商条約批准書交換のための使節団だった。

 咸臨丸の艦長は勝海舟で、その上に軍艦奉行として木村摂津守がついていた。通訳はジョン万次郎だ。
 ポーハタン号には、16歳の見習い通訳・立石斧次郎が乗船していた。彼は長崎の英語伝習所を経たのち、横浜の運上所で実際に外国人と接しながら英語を学んでいたのである。ポーハタン号では、士官室、事務長室へ出入りし、その実力に磨きをかけた。

 「ペリー上陸の図」に描かれている少年は、この立石斧次郎だったのではないだろうか。1860年で16歳だったということは、ペリー上陸の1854年は10歳くらいだ。絵に描かれた姿はちょうどそんな感じに見える。

 3月9日、使節団はサンフランシスコに到着した。彼らはここで何日か過ごしたのち、さらに南下してパナマに到着した。当時はまだ運河ができていなかったので、ここでポーハタン号を降りて陸路、大西洋側へ向かい、ロアノーク号に乗り換えた。
 そしてワシントンに入港すると、港ではアメリカ市民の大歓迎が待っていた。

 立石斧次郎は滞在中、しばしば街中へ出かけた。愛想が良く、臆することのない性格もあって、婦人たちには気さくに声をかけていたようだ。そんな振る舞いが好感を持たれ、彼は一躍、街の人気者になり、「トミー」と呼ばれるようになった。
 斧次郎の幼名は為八という。使節団のメンバーからは「トメ」と愛称され、それを聞いたアメリカ人が、発音を真似て「トミー」と名付けたそうだ。

 5月19日、ホワイトハウス南庭でパーティが開かれた。そこでトミーは気さくに婦人たちに話しかけ、アメリカ貴婦人の美しさを素直に讃えると、彼のサインを求めて次々とカードが差し出された。
 フィラデルフィアのパーティでは、ピアノ伴奏で日本の唄とアメリカの唄を歌って婦女子から喝采を浴びたという。また、トミー宛の恋文が続々と届けられた。16歳の少女が使節団の宿舎となっているホテルに入り込み、彼への贈り物を持って探し回るという事件も起きている。
 当時のアメリカ人は寛大で、未開の国「日本」からやって来たチョンマゲの若者を、こんなにも歓待したのである。   

 やがて使節団はフィラデルフィアを離れ、ニューヨークに向かった。6月16日、使節団を迎える一万人のパレードを見るため、ブロードウェーには有料桟敷まで登場し、全市民が集合したという。
 そんな中をトミーは、7,500人もの兵士らに護衛されて行進した。新聞各紙は、「人々を悩殺してやまない魅力的なトミー」などと派手な見出しをつけて、連日、1面トップで詳細に報道した。

 好奇心の強いトミーは演劇も観に行ったりしている。メトロポリタンホテル内のニクソン劇場では、俳優や記者などに囲まれ質問攻めにあったが、気の利いたことを言って人々を笑わせるサムライ姿に興味を持った座付き作曲家が、ポルカを作ることを思いついた。
 「トミー・ポルカ」という曲で、楽譜はリー&ウォーカー社から発売され大ヒットしたという。

 6月31日、一行は帰路についた。米艦ナイアガラ号に乗り、喜望峰を経由して9月28日に横浜に到着した。
 しかし、帰ってきた日本は平和な状況ではなく、大変なことになっていたのである。
 彼らがアメリカへ向けて出発したすぐあとに桜田門外の変が起きていたし、帰国後にはハリスの通訳ヒュースケン殺害、寺田屋事件、薩英戦争、生麦事件など、血なまぐさい事件が続き、混乱の時代へと突入していく。

 帰国後のトミーはハリス付きの通訳となり、何人かの子どもを弟子として取っていた。その後は、どこで何をしていたのかは不明だが、慶應3年には草津でイギリス人外交官アーネスト・サトウと出会っていることが、サトウの日記から分っている。

 明治元年、幕府軍歩兵隊に属し、今市で官軍と交戦。九死に一生を得たトミーは、今度は函館政府のため武器調達を目的に上海へ飛んだ。そこでは渋沢栄一とも出会っているらしい。

 その後、名前を米田桂次郎と変えて帰国。この間にお尋ね者になっていたからだ。
 だが、明治4年には岩倉使節団に2等書記官として呼ばれ、再びアメリカを訪れている。しかし、前回のような歓迎はなく、使節団としても条約改正に失敗し、虚しく引き揚げてきているのだった。

 帰国後は、4年ほど工部省鉱山寮でアメリカ人技師の世話をしていたが、なぜか突然、北海道に渡って缶詰業を起こしたり、ハワイで農園を開いたりとしていたが、明治47年、大阪控訴院通訳官となり、退官後は西伊豆戸田村へ移り住み、大正6年に亡くなった。
 
 幕末から明治にかけて、日本を訪れるようになった欧米人は、西洋化した横浜の街並みなどよりも、その裏にある日本的なものを求めていた。その代表的なものが桜・富士山・着物などであった。音楽で言えば「ミカド」や「喋喋夫人」などであるが、しかし、それらよりも早く作曲されていたのが、「トミー・ポルカ」だった。音楽史的にも広く知られていいはずの曲である。   
 「トミー・ポルカ」の歌詞(赤塚行雄訳)を紹介しておこう。

 通りがかった人妻も娘も、
 思わず夢中で取り巻く
 かわいい男、小さな男
 その名はトミー、
 かしこいトミー、
 黄色いトミー、
 日本からやってきた
 サムライ・トミー

(参考文献:赤塚行雄『君はトミー・ポルカを聴いたか』/在ニューヨーク日本総領事館HP)

 幕末時代に全米でヒットした曲だが、その存在が知られたのは1960年のこと。更に20年後、横浜生まれのアメリカ人で、日本関係の古文書収集家ポール・ブルーム氏が楽譜を所蔵していることを毎日新聞の記者が発見し、1980年1月10日付けの社会面トップ記事にそのことが報道された。

 『万延元年 チョンマゲ使節の異端児 ポルカにしのぶ大活躍』

 こんな大見出しが紙面を飾っていたが、その後間もなく、ブルーム氏はトミー・ポルカの楽譜を始めとする6000点にも及ぶ資料コレクションを横浜開港資料館に寄贈された。
 
 立石斧次郎の話をオペラ化してほしいなぁ・・・・・・。




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4 コメント

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Unknown (ミドリムシ)
2020-07-29 15:47:35
すいかさん…大作ですね。歴史が苦手なミドリ虫にも良く理解出来る、嬉しい記事です。拝読していると、人物像などもちゃんと、浮き上がってきて、楽しいです🎵ジョン万次郎、勝海舟、アーネストサトウ、などの登場人物中。横須賀奉行の羽織をはおった立石斧次郎少年は初めて知りました。小さくて魅惑的な、トミーは、時のアイドルスターだったのですね。昔、トミーというオペラがありましたが。これは、もっと、もっと、大人の戯曲になりそうです。。。
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トミーのこと (作治)
2020-07-30 19:57:48
トミーの末裔に当たるテレビキャスター長野智子は自身の祖父たちからあの異国画に描いてある子供は立石斧次郎に間違い相らはず、と申しておりま。 
ついでながらこの立石家は夏目漱石とも血縁があるとか!


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Unknown (管理人)
2020-08-01 09:44:51
>ミドリムシさん
ほとんど本を読んで知ったことばかりです。
赤塚先生はすごい。
トミー・ポルカはピアノソロで聴きたいです。
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Unknown (管理人)
2020-08-01 17:40:00
>作治さん
これね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%99%BA%E5%AD%90

http://www7b.biglobe.ne.jp/~howdytommy/

https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E9%87%8E%20%E6%A1%82%E6%AC%A1%E9%83%8E-1651121

子孫の会なんていうのもあります。


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