中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

横浜中華街から寿町へ

2019年05月29日 | おいしい横浜

 中華街で生ビールを5杯呑んだあとは、フラフラと寿町へ向かう。とりあえず、昔の寿町とは大きく変わった現在の町を案内することに。

 あの頃(学生時代)は寿町や本牧は怖くて足を踏み入れたことがなかったなぁ~
 行くところはたいてい野毛だったなぁ~
 もっと、いろいろなところへ顔を出しておけばよかったなぁ~

 なんて、昔のことを悔やみながら町内を散策。

 そうそう、あの頃は、まち歩きをしなかっただけではない、横浜の歴史なんかにもまったく触れずに生きていたんだよね。アルバイトだけはたくさんしてきたけど、それ以外の時間はギターを弾いているか、小説を読みながら呑んでいるかだった。ちょっとは勉強もしていたけど……
 
 てなことを話しているうちに、辿り着いたのが「山多屋」……のはずだが、なんか看板が違う。「ことぶき酒店」なんて書いてあるぞ。(冒頭の写真)


 これは以前の「山多屋」。2枚の写真を比べてみると、2階右側にあった縦長の看板もなくなっている。どうしたんだろう……。店名の変更なのか……。
 まあ、いいや、とにかく入って一杯やろうぜ、ということで二人が購入したのは、


 ワンカップ大関とチーズ♪


 昔から話があうし、古いモノ好きというところが一致していたし、それ以上に大酒のみなのが共通していた。
 それは今でも変わらない。ここでワンカップを3杯呑んで町内散策を再開。

 もう二人とも足がフラフラしておぼつかない。むかしはこんなオジサンが町内にはたくさんいたけど、最近は自分がそんな歩き方になっている……。

 ここからは酔っぱらった勢いで、友人に震災前の寿町について解説する。私が実際に見て来たわけではないのだが、「中区史」や「中区わが街」から仕入れた情報だ。

◆埋地地区(寿町・松影町など)が開けてくると、地代が安かったので関内から移転してくる人が多くなった。
◆横浜には問屋、仲買が50軒ほどあったが、そのうち30軒は埋地地区に。問屋街だった。
◆震災前は材木屋が多かった。中村川、派大岡川、日ノ出川があったので船で輸送するのに都合が良かった。
◆地蔵坂下には鶴屋(松屋)、寿町には相模屋というデパートの前身があった。
◆大正時代には県会議員、市会議員が4,5人もいた。
◆寿町2丁目に左右田銀行、翁町2丁目に横浜実業銀行があった。
◆寿町4-14には公設市場があった。ここは後に職安が建ち、現在は横浜市の福祉プラザや自立支援施設「はまかぜ」が建っている。
◆お茶場に通う人たちの通勤経路でもあった。
◆伊勢佐木~亀の橋~根岸競馬場は競馬開催日のメイン道路だった。
◆大正8年に埋地の大火が発生。罹災・負傷者は23,000人。その後の復興で以前よりもさらにいい町になった。寿小学校は市内で初のコンクリート造で再開。場所は旧横浜工業高校のところ。(現在はオリンピックに向けて体育館を建設中)


 ↑震災前の寿町・松影街の様子を描いた地図。住宅と商店ばかりの町だったことが分かる。


 ほかに野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」の店主だった吉田さんの記憶から。

 吉田さんは大正2年、埋地七ヶ町(松影町・寿町・不老町・万代町・翁町・扇町・吉浜町)で生まれた。
 大岡川にかかる橋を渡れば、山下町の外国商館街、そして港に近い関係で、この埋地には、何らかのかたちで、輸出入に関係のある仕事を持つ人々が数多く住んでいた。
 外国商館へ納入する輸出品の陶器、漆器、絹織物を扱う店、また木綿の加工所が多かった。
 輸出用の木箱屋も多かった。現在のようにコンテナなどない時代なので、輸出品はみなこの木箱に入れて積み出されていた。木箱の専門店は、6軒ほどあった。
 後に「横浜浮世絵」のコレクションで有名になった丹波商会も埋地にあった。
 市役所のあるあたりには、明治の頃から魚市場があり、ここへ通う仲買人の多くもこの埋地の住人だった。

 そして戦後、ふたたび「中区史」と「中区わが街」から。

◆昭和28年、接収解除になったが、あまり復興は進まなかった。
◆昭和30年、埋地復興会ができた。文化体育館、裁判所などは復興会が市役所に働きかけて、地元をまとめた。
◆昭和32年、職安が移転してきた。このときは復興会に話が来ないまま進められた。
◆自由労働者も移ってきた。
◆簡易宿泊所、昭和34年には64棟、38年に80棟、48年に87棟(外国人経営者が75%)
◆昭和37年、東京オリンピックの競技施設提供のため文化体育館が建設された。
◆昭和44年、寿地区自治会が結成される。美化運動、児童公園の開設、夜間生活相談所、夜間銀行の開設、子供会活動の強化などが始まる。
◆昭和49年、寿町労働福祉会館が完成。職業紹介相談、浴場、食堂、集会所、夜間銀行などを併設。上は市営住宅に。
◆昭和49年10月から寿生活館を港湾労働者の宿泊所にしていたが、55年に再開。
◆昭和57年、職安の建物跡が身体障害者の通所による授産所と職業訓練施設に。横浜ひかりセンター、希望更生会が運営。

 『中区史』は区制50周年を記念して発行されているから、情報はこの辺で終わっている。


 現在の寿地区は福祉の町になっている。
 赤色が簡易宿泊所、青色が介護・福祉関係の施設や会社。

 

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