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以前、このブログで記事にした『君たちはどう生きるか』は、少年たちに対しての問いかけであったが、こちらの『生きている兵隊』は大人に対して同じことを投げかけている。 これは、南京に派遣された石川達三が現地で見聞したことをもとに書いた小説で、昭和13年3月号の『中央公論』に発表された。しかし、内務省の通達により、書店の棚に並ぶことのないまま発売禁止となったイワク付きの本である。 伏字を使っていても発禁となったというので、その隠されていた部分には何が書いてあったのか気になるでしょ。 その伏字部分をすべて復元して再発行したのが本書である。 当時、各雑誌社は現地特派員というかたちで記事を競い合っていた。『中央公論』は昭和12年7月に尾崎士郎、林房雄を中国に派遣。『主婦の友』は吉屋信子。『文芸春秋』、『改造』などの各誌がそれに続き、従軍記、ルポルタージュが掲載された。 『中央公論』はさらに石川達三を特派員として中国に送り出した。 昭和12年12月に東京を発ち、神戸港から軍用船で出発。上海を経由して南京に着いたのは13年1月5日だった。日本軍が南京を攻略したのは12年12月13日だから、約3週間後ということになる。 したがって、石川達三はいわゆる南京事件を目撃してはいなかったのだが、その後の状況を見聞し衝撃を受けたという。 巻末の解説で半藤一利さんが彼の言葉を次のように紹介している。 「小便臭い貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトとゆられて行きました。南京市民は隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、死の町という言葉がピッタリでした。はじめて見た戦場は、ショックでした」 石川達三は帰国後すぐさま執筆に取りかかり、雑誌の出張校正間際に原稿を届けたという。しかし、輪転機が回ってからも伏字を増やしたり戻したりしたため、三十数種類もの『中央公論』ができてしまったそうだ。 小説は内容的に問題があるうえ、さらに何種類も印刷しているのが当局を騙す目眩ましととらえられてしまい、その結果、発売禁止となってしまったのであった。 しかし、追及と弾圧はそれで終わらず、最終的には新聞紙法違反で起訴され、禁固4か月、執行猶予3年の判決をくらってしまう。 そして戦後、伏字部分を復元し、さらに一部を修正してこの本ができあがった。 ![]() 傍線の部分が当初は伏字になっていた。 そこに書かれていたのは、スパイか民間人か分からない女性を殺す場面。 ![]() 慰安所の様子。かなりの部分が伏せられていた。最近話題の「のり弁」状態である。 ![]() 11章は丸ごと伏字というか、無かったことになっている。いま読めばなんてことのない描写だがね。 石川達三の小説を初めて読んだのは『青春の蹉跌』だった。その後は『蒼氓』、『幼くて愛を知らず』、『金環食』くらいなので何年振りだろうか。 今年はもう少し彼の小説を読んでみたいと思った。 ![]() |
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