「戦後を代表するスターを一人あげなさい」と言われたら、私は迷わず「美空ひばり!」と答えるだろう。しかし彼女は単なる歌手、スターというだけではなく、〈戦後〉という時代を読み解くキーワードともなる人物なのである。 美空ひばりを語ることは〈戦後〉を語ることだ!と言ったのは、ノンフィクション作家の本田靖春だった。氏は自著、その名もずばり『戦後~美空ひばりとその時代~』の中で、こんなことを書いている。 戦後、焼け跡の中で育ったひばりの出現によって、それまで庶民を抑えつけてきた天蓋が跳ね除けられたのだと。敗戦後の解放感を体現していたひばりは、国民的歌手として〈戦後〉という時代を丸ごと背負って生きてきたのだ。 ひばりは昭和12(1937)年、磯子区滝頭町で生まれている。父親は通称「屋根なし市場」で「魚増」という魚屋を営んでいたいた。(魚の行商だったという説もあるが…)。 冒頭の写真は滝頭の隣町・丸山町で偶然見かけた「魚増」のトラック。魚屋は今でも丸山町2丁目の丸山日用品市場の中にあるので、おそらくそこの車であろう。 ▲ひばりが通っていた滝頭小学校 むかし、美空ひばりについて、地元の古老と語り合っていたとき、こんな話を聞かされたことがある。 「あれは、ひばりが6年生だった頃だなぁ…、町内のお祭りで歌ってもらうことになっていたんだ。その日は夕方から、滝頭小学校の校庭に特設した舞台に上がる予定になっていたんだけどよぅ、ひばりは東京で仕事があってよぅ、それがなかなか終わらないらしくて、いつまで経っても滝頭に帰ってこねぇんだよな」 幼い頃から歌のうまかった彼女は、町内のお祭りには毎年出演していたのだが、この時には既に超有名人になっていたことから、地元のお祭りとはいえ舞台に引っ張り出すのには大変な苦労をしたという。 ひばり周辺の人たちが、こんなところで歌わせることに反対していたのだ。それでも、町内会長らの説得により、地元最後の出演が決まったのであった。 「お客は1万人くらいいたかな。小学校の校庭に入れなかった連中は、周辺の木に登ったり、屋根に上ったりして、ひばりが来るのを今か今かと待ち焦がれていたんだよな。 東京の仕事が長引いてよ、結局こっちにやってきたのは午前1時半頃さ。それでもみんなの前で歌ってよぉ、聴衆は大喜びさ。 とにかく小学校の頃から、とんでもねぇ人気だったよなぁ…」 ▲ひばりが住んでいた滝頭・丸山地区にはまだ、こんな懐かしい風景が残っている 「美空ひばりがデビューしたのは野毛にあった国際劇場」とよく言われるが、実は芸名を使って初出演したのはココではない。国際劇場は“いわゆる本格的なデビュー”だったかもしれないが、ひばりが羽ばたく原点となったのは磯子区磯子町のアテネ劇場だ。(2023.6.12訂正:これは間違い。杉田劇場が原点であることが後日判明した) 戦時中、出征兵士を送る壮行会で『九段の母』を歌ったひばり。それを聴いた人々は、大人顔負けの上手さに驚愕し、将来は大スター間違いなしと思ったという。 当然、ひばりの母親もそう感じていたはずだ。そこで出演を売り込んだのが、アテネ劇場。ここがひばりの初舞台となった。 この出演をきっかけにして、次は杉田劇場での公演、そして、あの横浜国際劇場での公演と駆け上っていく。 ところが最近、横浜の演劇史研究家である小柴俊雄氏が「初舞台は杉田劇場で、そのあとがアテネ劇場、そして国際劇場へ」という説を発表している。氏はさまざまな史料や証言をもとに、このような結論を導き出したようだが、私としてはどうも腑に落ちない。 アテネ劇場の定員は280名。建物は市電通りから少し中に入った、今では住宅街となっている一画にあった。 それにひきかえ杉田劇場の方は市電通りに面した立派な建築で、定員は300名だった。しかもロビーには売店、寿司カウンター、軽食・喫茶室が設けられていた。さらに海に面する日本庭園が隣接しており、幕間にはここでくつろぐこともできたというから、どう考えたって杉田の方が格上だと思う。 そんな格上の劇場から格下の劇場へと転進するだろうか。私はあくまでも“アテネ劇場デビュー説”をとりたい。(2023.612訂正:デビューは杉田劇場だった) ▲ひばりの生家近くのタバコ屋さん 美空ひばりの歴史を探って磯子界隈を彷徨っていた20年ほど前、いろいろ懐かしい風景を見たが、今でもまだ、こんなタバコ屋さんが残っているよ。自動販売機がなければ、昭和30年代、三丁目の夕日の世界である。 ▲タバコ屋の奥には“ライオン歯磨”の額が架かっている ライオン歯磨から贈られたのだろうか。文字は右から左に向かって書かれているから、そうとう古いものだと推察される。 裸電球、レトロな電球笠…、これで「ゴールデンバット」や「桔梗」、「光」なんかを売っていたら、もう涙もんなんだけどね。 ▲ひばりの生家近くの路地 道路は舗装され、家々も新しくなっているが、かつてはジャリ道に懐かしい昭和風木造住宅だった。こんな路地でひばりは遊んでいたんだろうね。ラッパを吹いて売りに来る豆腐屋とか紙芝居が似合いそうな界隈だ。 ▲ひばりの生家からも見えたはずの銭湯の煙突 ひばりの家は店舗兼用住宅だったという。店の後ろに二間の住居。風呂がついていたかは分からないが、ひばりはこの銭湯に通っていたといわれている。 ▲銭湯の名は桜湯 ひばりを偲んで入浴してこようと思ったのに、まだ営業前だった。どんな銭湯なのかなぁ。下町の銭湯だからいい感じなんだろうね。 入浴はまた次の機会にしよう。 ▲「魚増」のある丸山日用品市場 こちらも日曜日ということで店は開いていなかった。残念だ。 「魚増」は誰がやっているんだろうね。ものの本によると親戚が跡を継いでいるとか。 できれば、ここで魚を買ってみたかった。 ▲浜マーケット入口(住宅地側) この一帯にはマーケット、いわゆる市場が多かったようだ。その市場界の帝王みたいなのが浜マーケットである。 美空ひばりが生まれ育った町を散策したあとは、この老舗マーケットでお買い物だ。 ▲浜マーケット内部 惣菜店、肉屋、八百屋、化粧品店などが両側にビッシリと並んでいる。昔の面影を残す「正統派市場」だ。 ここは見ているだけでも楽しいが、できればお店のおばさんなどとお喋りしながら食料品などを買い歩くののがいい。 ▲漬物屋さん ここは漬物専門店。自家製漬物をいくつも並べている。 大根と人参のナマス、キュウリの糠漬け、奈良漬、白菜の塩漬け…どれも捨てがたい。さんざん迷ったあげく、白菜の塩漬けを買った。 150円。安い。 ▲放火により焼失した跡地 この浜マーケットが放火により数店舗、焼失した事件はまだ記憶に新しい。このときは滝頭市場もやられてしまった。犯人はいまだに捕まっていない。 浜マーケットの方は再開が決まったが、滝頭市場の方は残念ながら再開を断念したという。あちらの市場も良かったのにねぇ…残念だ。 浜マーケットに来たときの一番の楽しみは、「小島家」で一杯飲んで鰻丼を食べることだった。その「小島家」も焼失してしまった。 狭い階段を上がると、2階は入れ込み式の座敷で、どこか浅草のような雰囲気がある懐かしい店だったのに、放火魔はとんでもないことをしてくれたもんだ。 ▲マーケットの隣で再開した「小島家」 ここには以前、本屋さんがあったと思うが、「小島家」が営業を再開していた。歩道に面した部分では、今までと同じく対面販売をしている。 奥が食堂部分だ。もちろん通り過ぎるわけにはいかない。即入店! ▲冷酒1合とお通し まずは日本酒だ。ヒヤでお願いした。おじさんが持ってきたのは、まだ封を切っていない富久娘。これの栓をスポッと抜き、グラスになみなみと注いでくれた。 野毛の「武蔵屋」だと表面張力を利用して、グラスの縁からこぼれず盛り上がるように注いでくれたが、ここ「小島家」ではドボドボとこぼしてくれる。 「こぼす」といっても心配はない。ご覧のようにグラスは四角い器の中に入っているので、こぼれた酒はすべてこの器に吸収されるのだ。 グラスの酒がなくなったあと、この器にこぼれた酒を呑むのが、なんとも儲けものといった感じでたまらなく嬉しい。のん兵衛の卑しさだろうか… ▲ランチ鰻丼(1000円) ちょうど飲み終わった頃、まるで計算していたように鰻丼が到着! 相変わらず柔らか~くて美味しい。ご飯とウナギの比率もちょうどだ。合間に食べる漬物やお吸物が、これまた絶品! 鰻丼の美味しさをさらに引き立ててくれる。満足、満足! 隣のテーブルでは小さな子どもを連れた家族4人が唐揚げ定食を食べていた。これは量が多いので、子どもが完食するのは難しい。 それでも子どもたちは必死に食べていた。店のおばさんはその様子を微笑みながら眺めていたのだが、無理と判ると素早く持ち帰り用のパックを持ってきて唐揚げを詰めてくれた。 「小島家」にはこんな配慮があるから嬉しい。だから何度でも来たくなるのだ。 ちなみに、ここの唐揚げは鶏の油で揚げている。ご飯だって、今はやっていないが、火事になる前は薪でコシヒカリを炊いていた。 ▲惣菜屋で買って帰ったおかず 手前は肉屋さんで買った浜マーケット名物の三角コロッケとメンチカツ。左は惣菜屋のオカラ。なかなか懐かしい味で美味しい。 右は漬物専門店の白菜漬け。 これらをおかずにして夕食を食べた。浜マーケットの本格的な再開を祈りながら…。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
磯子文庫はいい古本屋さんでした。そういえば、今はどうなっているんだろう。確認してこなかった…
路地裏と、今はマンションになった「はなれ山」、そして掘割川河口のヨットハーバーが遊び場でした。
山下牧場で牛乳を買い、毎朝ボウルを持って豆腐屋にお使いに行ったものです。
小嶋屋で竃で飯を炊いていたおばあさんはお元気なのでしょうか?
滝頭界隈では、もちろんひばりのデビューは「アテネ劇場」となっています。
(風呂屋のフタの上という話も・・・)
それはすばらしい震災復興建築だった。
スロープで遊んだなあ。。。
中区白書の特集
http://www.city.yokohama.jp/me/naka/publish/hakusho/2007/sp/eq.html
(イイ特集だ!!)
懐かしいな~。
力作をきっちり楽しく読ませていただきました。
今度、滝頭方面を散策をしてみようと思います。
四間道路の生まれで滝頭小卒業だってぇ?
ひばりと一緒にはなれ山で遊んでいたんですかぁ~?
◇リヨンさん
浜マーケットにしろ滝頭マーケットにしろ、市場って懐かしいですよね。いいなぁ…
◇とも2さん
この界隈は、なかなかいい雰囲気ですよ。今でも4軒長屋なんかがあったりして、三丁目の夕日っぽいです。
杉田は現存するから箔付けたいのでしょう。
最近、どうもふらついてきています。
どっちなのかな~って。
小柴さんの説かなぁ…