その店に昼ランチに入った。女友達は店を改装されてから初めてだった。家族連れでこられる店に感激していた。
1つの部屋にテーブルが2席あって8人そして10人はかけられるので孫たちと一緒に来ると言っていた。
喜んでもらえてよかった。
久しぶりにあった。積もる話しはまず私が聞役になった。ゴルフ仲間に旅行仲間との間で生じる人間関係のことを話す。私で止まっているのでいろいろと話してくれた。
さて今度は私が話すと今度は彼女が聞役である。
私は韓国取材の疲れで血圧も高くなって体調を崩したがやっと1昨日あたりから普通に戻ってきた。韓国でのストレス、辛い物ばかりで胃腸も壊してしまった。と話をして他いろいろと話していると3時になった。昼ランチを食べてすぐ近くにある銀杏やさんでコーヒーを飲んだ。
以前よく行っていた三条通りのコーヒー店はコーヒー以外にあまり昼食に向く物がない。それで彼女は月・火は仕事が休みで仕事の時間を気にしなくてもよくなったので近鉄奈良駅で昼ランチしてもいいことになった。
というのは銀杏やさんの喫茶店は多くの人がみんな話しているのでやかましいのがちょっと気になるが店の人たちは人当たりがいいのとコーヒーがお代わりできることが気にいったようだ。
3時にでて私はスーパーによって買い物してバス停に来ると市内循環はよく来るのに1台でまわっている中循環はなかなかこない。本来なら15分ほど待てば来るバス時刻なのに40分も遅れてくる。
私は待っている間、携帯のメールを削除していたが気になる視線を感じた。
見ると昔ペングループを創設した時のメンバーだった。私よりずっと年輩だがあるときから私は一切口を聞かなくなってかれこれ10年と少しになる。
この方が代表している時に代表は2年続けてはいけないと私の持論として言っていた。金銭的なものが地方紙の関係者となれあいになると不都合があるからというのが私の持論だった。
しかし彼女は2年続けてした。そしたら案の定、会に関する金銭で不祥事がでた。そんなことは私の関係のないことで知らん顔した。
しかし私が創刊号から冊子の編集を仕切って印刷会社も探してもきたのに15周年記念冊子に編集委員長として2・3年冊子に関わったのに私の名前がはずされていた。
私は代表の彼女に抗議して来年の冊子に掲載して下さいといったがしていなかった。そしてしていなかった年に電話でまた抗議すると「できません」と言われた。どうして会長の一存で「出来ないというのか」抗議をしたいくらいはらわたが煮えくり返った。
そして他の親しい1人の人にこの話を伝えた。
本来は代表1人で決める物ではない。ここにこの人の国籍差別をみる思いだった。鄭容順を名のっているからこそもっと真剣に物事を考えなければいけないのにおざなりにしたこの人の差別と偏見に黙っておられなかった。
親しい1人の人にこのことを話した。
ようやく3・4年たって記念誌のときに私の名前、編集局長をした名前が掲載された。
しかし
これも気にいらなかった。
もう本名を名のっているのだから本名を名のってカッコで通名を入れるべきだった。こんな初歩的な人権問題のミスをする人の集りに呆れて何もいえなかった。
私はだから彼女の理由も言わず「出来ない」といわれた言葉は今も心の傷になり見えない差別、心の壁に言葉を失ってしまった。バスであったとき「こんにちは」とにこにこ笑って話しかけてきたがまだ私は当時50歳になったかどうかだった。まだ気分がよくないと顔に出る。私は無視をした。知らん顔をした。
彼女はおそらく自分のしたことに気がついていないだろう。そして会員もこのことを知っているのはごく2・3人にしか過ぎない。
そして人権問題に取り組んでいた当時の冊子担当者も私が編集委員長をしていたことを知っていたはずなのに何も意見しないで見過ごした。しかし彼の心の中を見る思いだった。彼の心の中の根底に国籍に対する偏見があったと私は見ている。それでいっぺんに嫌いになった。
いまごろ天国で「えらいすんまへん。掲載せんなあかんことはわかってましてん。せやけどな。会員の意見を取り入れることがあのとき先決やったんわ。鄭さんは会合にも来ないので鄭さんはずしましてん」と言っている声が聞こえそうだがそれとこれと違うと言いたいが黙って1人の人だけ話した。しかし私の心の傷はたぶんとれないだろう。
なにくそ。と。これまでふんばってきた。こんな見えないいじめになにくそと思って踏ん張ってきた。
私が活動したことを自慢するのでなくて後世に地方紙が関係するグループで在日韓国人女性が本名で冊子作りに寄与したことを知ってもらいたいということだけである。
だから今でも彼女とは話ができない。言葉がでてこない。
乗るバスも一緒だったがずっと知らん顔していた。
こんなことを意識しないで話ができれば私の人間性も大きくなるがまだまだ小さい心の私、まだ10年と少し前のことにこだわっている。
1つの部屋にテーブルが2席あって8人そして10人はかけられるので孫たちと一緒に来ると言っていた。
喜んでもらえてよかった。
久しぶりにあった。積もる話しはまず私が聞役になった。ゴルフ仲間に旅行仲間との間で生じる人間関係のことを話す。私で止まっているのでいろいろと話してくれた。
さて今度は私が話すと今度は彼女が聞役である。
私は韓国取材の疲れで血圧も高くなって体調を崩したがやっと1昨日あたりから普通に戻ってきた。韓国でのストレス、辛い物ばかりで胃腸も壊してしまった。と話をして他いろいろと話していると3時になった。昼ランチを食べてすぐ近くにある銀杏やさんでコーヒーを飲んだ。
以前よく行っていた三条通りのコーヒー店はコーヒー以外にあまり昼食に向く物がない。それで彼女は月・火は仕事が休みで仕事の時間を気にしなくてもよくなったので近鉄奈良駅で昼ランチしてもいいことになった。
というのは銀杏やさんの喫茶店は多くの人がみんな話しているのでやかましいのがちょっと気になるが店の人たちは人当たりがいいのとコーヒーがお代わりできることが気にいったようだ。
3時にでて私はスーパーによって買い物してバス停に来ると市内循環はよく来るのに1台でまわっている中循環はなかなかこない。本来なら15分ほど待てば来るバス時刻なのに40分も遅れてくる。
私は待っている間、携帯のメールを削除していたが気になる視線を感じた。
見ると昔ペングループを創設した時のメンバーだった。私よりずっと年輩だがあるときから私は一切口を聞かなくなってかれこれ10年と少しになる。
この方が代表している時に代表は2年続けてはいけないと私の持論として言っていた。金銭的なものが地方紙の関係者となれあいになると不都合があるからというのが私の持論だった。
しかし彼女は2年続けてした。そしたら案の定、会に関する金銭で不祥事がでた。そんなことは私の関係のないことで知らん顔した。
しかし私が創刊号から冊子の編集を仕切って印刷会社も探してもきたのに15周年記念冊子に編集委員長として2・3年冊子に関わったのに私の名前がはずされていた。
私は代表の彼女に抗議して来年の冊子に掲載して下さいといったがしていなかった。そしてしていなかった年に電話でまた抗議すると「できません」と言われた。どうして会長の一存で「出来ないというのか」抗議をしたいくらいはらわたが煮えくり返った。
そして他の親しい1人の人にこの話を伝えた。
本来は代表1人で決める物ではない。ここにこの人の国籍差別をみる思いだった。鄭容順を名のっているからこそもっと真剣に物事を考えなければいけないのにおざなりにしたこの人の差別と偏見に黙っておられなかった。
親しい1人の人にこのことを話した。
ようやく3・4年たって記念誌のときに私の名前、編集局長をした名前が掲載された。
しかし
これも気にいらなかった。
もう本名を名のっているのだから本名を名のってカッコで通名を入れるべきだった。こんな初歩的な人権問題のミスをする人の集りに呆れて何もいえなかった。
私はだから彼女の理由も言わず「出来ない」といわれた言葉は今も心の傷になり見えない差別、心の壁に言葉を失ってしまった。バスであったとき「こんにちは」とにこにこ笑って話しかけてきたがまだ私は当時50歳になったかどうかだった。まだ気分がよくないと顔に出る。私は無視をした。知らん顔をした。
彼女はおそらく自分のしたことに気がついていないだろう。そして会員もこのことを知っているのはごく2・3人にしか過ぎない。
そして人権問題に取り組んでいた当時の冊子担当者も私が編集委員長をしていたことを知っていたはずなのに何も意見しないで見過ごした。しかし彼の心の中を見る思いだった。彼の心の中の根底に国籍に対する偏見があったと私は見ている。それでいっぺんに嫌いになった。
いまごろ天国で「えらいすんまへん。掲載せんなあかんことはわかってましてん。せやけどな。会員の意見を取り入れることがあのとき先決やったんわ。鄭さんは会合にも来ないので鄭さんはずしましてん」と言っている声が聞こえそうだがそれとこれと違うと言いたいが黙って1人の人だけ話した。しかし私の心の傷はたぶんとれないだろう。
なにくそ。と。これまでふんばってきた。こんな見えないいじめになにくそと思って踏ん張ってきた。
私が活動したことを自慢するのでなくて後世に地方紙が関係するグループで在日韓国人女性が本名で冊子作りに寄与したことを知ってもらいたいということだけである。
だから今でも彼女とは話ができない。言葉がでてこない。
乗るバスも一緒だったがずっと知らん顔していた。
こんなことを意識しないで話ができれば私の人間性も大きくなるがまだまだ小さい心の私、まだ10年と少し前のことにこだわっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます