まだお元気でいらっしゃると思ったが訃報を入った。
たまたま25日の午後3時ごろ、原稿作成に少しの目処がついた。
ほっとした生き抜きは何気なしに民団新聞のホームページを開いた。飛び込んできたのが権炳佑さんの訃報だった。
通夜、告別式は兵庫県の西宮のメモリーホールで行なわれたが私は奈良から遠いこともある。そして若い記者が兵庫の管轄取材とも若い記者が取材で入ると考えて心の中で祈った。通夜の日は大阪で現場の仕事、28日は自宅で記事作成に追われた。
大阪の現場の出版パーテイでの会場は途中で退席する人が多くなった。
1人が私にメモリアホールの所在を聞いておられた。
4時になると会場は半分ほどになった。
たぶんメモリアホールに行かれたのだろう。
合掌
私が最後にお会いしたのは今年1月5日、駐在の公館で開かれた新年会だった。
9階ホールは大勢の熱気であふれていた。大勢の人垣をぬって権炳佑さんだったが入ってこられた。私は入っていかれる後ろ姿に気がついて身動きがとれないので思わず後ろから背中をたたいた。背中をたたくのに気がひけたが大勢の人で前に回れなくて後ろから声をかけた。私のことは覚えておられるかどうか、一瞬キョトンとされたがすぐに笑顔になって「こんにちは」といわれたが私が見たときに心なしか元気がないように思えた。風邪でもひいていらっしゃるのかとも思った。
そしてとりあえず新年のセレモニーが終わって懇親会になったが身動きとれない会場だったのでそのまま後ろにいた。若い記者が写真をとったりしていたので私は後ろで控えた。(私が前にいくと仕事がやりにくいだろうと考えた)
おおかた退散するときにようやく会場は動けるようになったときに権炳佑さんのまわりに人だかりができていた。その人垣に顔を出したが私はそのまま何も話さないで会場を後にした。
あの姿が最後になった。
私は権炳佑さんにずいぶん助けて頂いた。
在日韓国人の日刊紙の記者をしているころだった。40代の半ばだった。
1年に1度、全国の婦人会の研修会がある。
私は女性だったのでこの会合に顔をだしていた。
最初は交通費用も何も言わないで総務は経費で落としてくれていたが退職する2年前の2回はいろいろとあった。
しかし権炳佑さんにずいぶん助けてもらった。
当時、在日韓国人の記者たちは遠出の現場になると主催者は交通費が出していたがそれもいつのまにか出さなくなっていた。私は交通費の授与にいつも躊躇していたので出なくなってよかったと思っていた。
しかし婦人会の研修会は愛知県や三重県など遠出の現場に何もいわなくても私の会社での身辺を察して権炳佑さんは交通費をポケットに入れて下さった。
この交通費用を日刊紙の会社に出して婦人会の研修会の出張を了解してもらった。
1年に1回の婦人会の研修、1つの会場に300人から500余人が集まる研修会は当時若かった私は魅力的だった。多くの同胞女性に触れて楽しかった。
3日間の研修会だが2日目の夜は最後の懇親会、宴会場はたちまちのうちに韓国の歌を誰かが歌うといつのまにか婦人会の人たちは踊っていた。
200人前後の宴会場は圧巻だった。いつのまにか日本人の仲居さんも一緒に踊っていた。婦人会の全国での会場、どの会場もこんな風だと言う。
そんな婦人会の研修の参加は私49歳まで参加していた。1泊2日の出張だった。
50歳になってからは行かなくなった。編集局のスタッフが現場に入るので私は現場に入らなくて済んだ。
近年はもう旅行鞄を転がしてあちこちの遠方にいくことに躊躇する年齢になったので参加しなくてもなんとも思わなくなった。
私が40代、働き盛り真っ只中のときは権炳佑さんにずいぶん、ずいぶん助けて頂いた。たぶん私が宿泊するホテル代も権炳佑さんが自腹を切っていたのではなかったのではと今は思っている。
というのは京都の婦人会から一緒に参加した時に当時の役員が私の会費を払っておられた。こんなことを振り返ると婦人会の研修の参加に直に会長に話しての参加の交渉、権炳佑さんは私の分は自分のポケットマネーだっただろうと思っている。
権炳佑さんは日本植民地時代、韓国から渡ってこられた1世である。在日韓国人女性として珍しく日本の女学校を卒業されている。
日本語も読める。韓国語も話せて文字も読める。在日韓国人としては貴重な存在の人だった。どの人にも笑顔で話しておられた。
私が人から間接的に聞いた話だが子どもが小さいときにご主人が亡くなれて家業の事業をご主人の家族たちとキリモリをして現在の経済構築をされたと聞いている。
かなりの苦労されて努力家だったとも聞いている。
先日の新年会の前にお会いしたのは昨年の3月だったと記憶している。
韓国からハンナラ党の党首、朴槿惠さんが民団大阪本部を訪問された。兵庫・大阪・京都・奈良・和歌山・滋賀の近畿地方協議会の在日韓国人が集まった。
そのとき権炳佑さんが出席されていた。
最後、朴槿惠党首に代表して花束を贈られた。
贈られるときに権炳佑さんは韓国語で「お父さんの朴正煕大統領のときは大変お世話になりました。その娘さんにこうして大阪に来て下さって大変喜ばしいことで涙がでてきます」と言って涙をこぼされた。
そのとき私は思わず目頭が熱くなった。
朴槿惠さんは色鮮やかな民族衣装、いつもは民族衣装をきておられる権炳佑さんは美しい黄色のスーツを着ておられた。檀上で双方が映えていた。
もう長い間、民団兵庫の会館の現場にはいらなくなった。奈良からはかなり遠いので大阪に住んでいる若い記者に管轄の現場を任せた。そんなことでお会いする機会はなくなっていたが私の頭の中にどこかで権炳佑さんのことはあった。
そしてご子息の長男の方とはときどきの現場でお会いをしていた。
韓国商工会議所のトップの座についておられる。母親を助けて家業の事業を発展させてこられた。そして何より若いのに私より韓国語が流暢である。
権炳佑さんは子息の民族教育もきちんとされて子息を韓国に語学留学させた。
在日韓国人の命をつなぎ民族気質もきちんとつながれていかれた。
1度だけ私は権炳佑さんに反発したことがある。
現在の現場記者になったときに私のポケットにそっと入れられた。私は1度断ったが受け取られないのでこのままつっかえすのも年輩者に失礼と思って受け取った。奈良に戻ってから奈良の名産の菓子類、同じ物を贈った。何でも手に入るの家庭で何にしょうかと迷った末、贈り物は訪問者にあげて下さればと思って同じ物をいくつか贈った。今考えると三輪そうめんのいいものを贈ればよかったと反省しているが----。どうしてもお返しをしないといけないと思った。
昔は財政難の日刊紙だったので会社のためにそういうこともできたが現在の現場ではどうしてもできなかった。
団体組織でも半分はボランテイア精神がないとこの仕事はできないと頭の隅にはあったので私の真意に反すると考えた。
そして夫にも恥をかかせてはいけないと考えて少しの心ばかりをお返しした。
普通はこころよく受け取って置いたほうがいいといわれるが現在の現場ではできなかった。
このことで故人は私に心よく思っていないかもしれない。
しかし故人にお世話になり助けてもらったから今日の私が存在していることも決して忘れてはいない。
1世だったので苦労した分だけ人情があった。弱い立場におられる人を助けて下さった。このことを肝に銘じて私も後継者育成に心していかなければならないと思っている。
今、少し悔やんでいる。先日の新年会にもう少し話をしておけばよかった。ひとことお世話になったことを話しておけばよかったと後悔している。
故人の撒かれた種はいくつもいくつも育っている。
天国でみておられるでしょう。
ご冥福をお祈りします。
合掌。
ここには故人の名前を明記しました。ご理解をお願いします。
現在2世たちが婦人会の役職で在日韓国人の婦人たちの民族素養をもって活躍しておられ幹部役員が多くおられる。1世が日本社会で後継者を育成した貢献は大きい。日本人から見ると知らない世界だが在日韓国人の婦人たち特に1世は幾多の試練を乗り越えて2世を育成した。その1人、権炳佑さんの功績も大きくあえて故人の名前を記述した。ご理解のほどよろしくお願いします。
1世、2世、3世とつないでこられた婦人会の人たち、活性化に寄与されたことを日本人の方も知って頂きたい。家庭と家業と両立した1世の活動だった。まさにキャリアウーマンの先駆者だった。多くの民族財産を残してくれた。そして組織の中では儒教文化を一貫された。まず男性を立てて婦人会が影で貢献したこの功績は大きい。それでもいざとなると決断は早く強くたくましく生きてこられた。子息を立派に育成された1世の生き様は2世が語り継いでいかなければならない。
また1つ1世の灯が消えて行った。
たまたま25日の午後3時ごろ、原稿作成に少しの目処がついた。
ほっとした生き抜きは何気なしに民団新聞のホームページを開いた。飛び込んできたのが権炳佑さんの訃報だった。
通夜、告別式は兵庫県の西宮のメモリーホールで行なわれたが私は奈良から遠いこともある。そして若い記者が兵庫の管轄取材とも若い記者が取材で入ると考えて心の中で祈った。通夜の日は大阪で現場の仕事、28日は自宅で記事作成に追われた。
大阪の現場の出版パーテイでの会場は途中で退席する人が多くなった。
1人が私にメモリアホールの所在を聞いておられた。
4時になると会場は半分ほどになった。
たぶんメモリアホールに行かれたのだろう。
合掌
私が最後にお会いしたのは今年1月5日、駐在の公館で開かれた新年会だった。
9階ホールは大勢の熱気であふれていた。大勢の人垣をぬって権炳佑さんだったが入ってこられた。私は入っていかれる後ろ姿に気がついて身動きがとれないので思わず後ろから背中をたたいた。背中をたたくのに気がひけたが大勢の人で前に回れなくて後ろから声をかけた。私のことは覚えておられるかどうか、一瞬キョトンとされたがすぐに笑顔になって「こんにちは」といわれたが私が見たときに心なしか元気がないように思えた。風邪でもひいていらっしゃるのかとも思った。
そしてとりあえず新年のセレモニーが終わって懇親会になったが身動きとれない会場だったのでそのまま後ろにいた。若い記者が写真をとったりしていたので私は後ろで控えた。(私が前にいくと仕事がやりにくいだろうと考えた)
おおかた退散するときにようやく会場は動けるようになったときに権炳佑さんのまわりに人だかりができていた。その人垣に顔を出したが私はそのまま何も話さないで会場を後にした。
あの姿が最後になった。
私は権炳佑さんにずいぶん助けて頂いた。
在日韓国人の日刊紙の記者をしているころだった。40代の半ばだった。
1年に1度、全国の婦人会の研修会がある。
私は女性だったのでこの会合に顔をだしていた。
最初は交通費用も何も言わないで総務は経費で落としてくれていたが退職する2年前の2回はいろいろとあった。
しかし権炳佑さんにずいぶん助けてもらった。
当時、在日韓国人の記者たちは遠出の現場になると主催者は交通費が出していたがそれもいつのまにか出さなくなっていた。私は交通費の授与にいつも躊躇していたので出なくなってよかったと思っていた。
しかし婦人会の研修会は愛知県や三重県など遠出の現場に何もいわなくても私の会社での身辺を察して権炳佑さんは交通費をポケットに入れて下さった。
この交通費用を日刊紙の会社に出して婦人会の研修会の出張を了解してもらった。
1年に1回の婦人会の研修、1つの会場に300人から500余人が集まる研修会は当時若かった私は魅力的だった。多くの同胞女性に触れて楽しかった。
3日間の研修会だが2日目の夜は最後の懇親会、宴会場はたちまちのうちに韓国の歌を誰かが歌うといつのまにか婦人会の人たちは踊っていた。
200人前後の宴会場は圧巻だった。いつのまにか日本人の仲居さんも一緒に踊っていた。婦人会の全国での会場、どの会場もこんな風だと言う。
そんな婦人会の研修の参加は私49歳まで参加していた。1泊2日の出張だった。
50歳になってからは行かなくなった。編集局のスタッフが現場に入るので私は現場に入らなくて済んだ。
近年はもう旅行鞄を転がしてあちこちの遠方にいくことに躊躇する年齢になったので参加しなくてもなんとも思わなくなった。
私が40代、働き盛り真っ只中のときは権炳佑さんにずいぶん、ずいぶん助けて頂いた。たぶん私が宿泊するホテル代も権炳佑さんが自腹を切っていたのではなかったのではと今は思っている。
というのは京都の婦人会から一緒に参加した時に当時の役員が私の会費を払っておられた。こんなことを振り返ると婦人会の研修の参加に直に会長に話しての参加の交渉、権炳佑さんは私の分は自分のポケットマネーだっただろうと思っている。
権炳佑さんは日本植民地時代、韓国から渡ってこられた1世である。在日韓国人女性として珍しく日本の女学校を卒業されている。
日本語も読める。韓国語も話せて文字も読める。在日韓国人としては貴重な存在の人だった。どの人にも笑顔で話しておられた。
私が人から間接的に聞いた話だが子どもが小さいときにご主人が亡くなれて家業の事業をご主人の家族たちとキリモリをして現在の経済構築をされたと聞いている。
かなりの苦労されて努力家だったとも聞いている。
先日の新年会の前にお会いしたのは昨年の3月だったと記憶している。
韓国からハンナラ党の党首、朴槿惠さんが民団大阪本部を訪問された。兵庫・大阪・京都・奈良・和歌山・滋賀の近畿地方協議会の在日韓国人が集まった。
そのとき権炳佑さんが出席されていた。
最後、朴槿惠党首に代表して花束を贈られた。
贈られるときに権炳佑さんは韓国語で「お父さんの朴正煕大統領のときは大変お世話になりました。その娘さんにこうして大阪に来て下さって大変喜ばしいことで涙がでてきます」と言って涙をこぼされた。
そのとき私は思わず目頭が熱くなった。
朴槿惠さんは色鮮やかな民族衣装、いつもは民族衣装をきておられる権炳佑さんは美しい黄色のスーツを着ておられた。檀上で双方が映えていた。
もう長い間、民団兵庫の会館の現場にはいらなくなった。奈良からはかなり遠いので大阪に住んでいる若い記者に管轄の現場を任せた。そんなことでお会いする機会はなくなっていたが私の頭の中にどこかで権炳佑さんのことはあった。
そしてご子息の長男の方とはときどきの現場でお会いをしていた。
韓国商工会議所のトップの座についておられる。母親を助けて家業の事業を発展させてこられた。そして何より若いのに私より韓国語が流暢である。
権炳佑さんは子息の民族教育もきちんとされて子息を韓国に語学留学させた。
在日韓国人の命をつなぎ民族気質もきちんとつながれていかれた。
1度だけ私は権炳佑さんに反発したことがある。
現在の現場記者になったときに私のポケットにそっと入れられた。私は1度断ったが受け取られないのでこのままつっかえすのも年輩者に失礼と思って受け取った。奈良に戻ってから奈良の名産の菓子類、同じ物を贈った。何でも手に入るの家庭で何にしょうかと迷った末、贈り物は訪問者にあげて下さればと思って同じ物をいくつか贈った。今考えると三輪そうめんのいいものを贈ればよかったと反省しているが----。どうしてもお返しをしないといけないと思った。
昔は財政難の日刊紙だったので会社のためにそういうこともできたが現在の現場ではどうしてもできなかった。
団体組織でも半分はボランテイア精神がないとこの仕事はできないと頭の隅にはあったので私の真意に反すると考えた。
そして夫にも恥をかかせてはいけないと考えて少しの心ばかりをお返しした。
普通はこころよく受け取って置いたほうがいいといわれるが現在の現場ではできなかった。
このことで故人は私に心よく思っていないかもしれない。
しかし故人にお世話になり助けてもらったから今日の私が存在していることも決して忘れてはいない。
1世だったので苦労した分だけ人情があった。弱い立場におられる人を助けて下さった。このことを肝に銘じて私も後継者育成に心していかなければならないと思っている。
今、少し悔やんでいる。先日の新年会にもう少し話をしておけばよかった。ひとことお世話になったことを話しておけばよかったと後悔している。
故人の撒かれた種はいくつもいくつも育っている。
天国でみておられるでしょう。
ご冥福をお祈りします。
合掌。
ここには故人の名前を明記しました。ご理解をお願いします。
現在2世たちが婦人会の役職で在日韓国人の婦人たちの民族素養をもって活躍しておられ幹部役員が多くおられる。1世が日本社会で後継者を育成した貢献は大きい。日本人から見ると知らない世界だが在日韓国人の婦人たち特に1世は幾多の試練を乗り越えて2世を育成した。その1人、権炳佑さんの功績も大きくあえて故人の名前を記述した。ご理解のほどよろしくお願いします。
1世、2世、3世とつないでこられた婦人会の人たち、活性化に寄与されたことを日本人の方も知って頂きたい。家庭と家業と両立した1世の活動だった。まさにキャリアウーマンの先駆者だった。多くの民族財産を残してくれた。そして組織の中では儒教文化を一貫された。まず男性を立てて婦人会が影で貢献したこの功績は大きい。それでもいざとなると決断は早く強くたくましく生きてこられた。子息を立派に育成された1世の生き様は2世が語り継いでいかなければならない。
また1つ1世の灯が消えて行った。
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