数年前まではまだ韓国系の民族学校に通う高校3年の生徒や保護者が多かった。
そのときバレーで韓国系の学校にきていた日本人生徒が私に悩みを訴えた。
国際教育振興院は日本人生徒が入学できないといった。
私はその事実をまだ把握できていなくて担当者に話すと「国際教育振興院は在外同胞、つまり海外同胞500万人のために設立した国家施設なので日本人の語学留学は延世・高麗大学の語学堂に留学をして頂きたい」と話された。
国際教育振興院は寄宿舎もある。月謝なども他の語学堂に比べて少ない経費で留学できる。
1950年代に在日韓国人のために出来たソウル大学校の付属施設として語学研究所から始まりソウル大学校在外国民教育院になり現在の名称に変更されたのは1993年だった。
中国・ソ連(現在ロシア)と韓国は国交樹立したのを機会にグローバールな世界を目指して中国・ソ連の海外同胞も受け入れるようになった。
これを機会に寄宿舎は建て直しされて96年に現在の寄宿舎が完成した。
工事費用は韓国政府5000万円、民団中央本部5000万円が出されて建設された。これはたまたま完成した96年の4月、私は訪韓した。知人がここに勤務していたのでここを訪問して新寄宿舎を見学することになって取材をして日本に戻ったことがあった。
現在は在日同胞、朝鮮学校の卒業生、日本国籍であっても在日同胞にルーツをもつ学生たちも留学できる。留学は大学の予備機関としての長期留学(1年)そして韓国に触れて自分探しをする短期留学(3ヶ月や半年コース)がある。
大学入学は「在日」の「特別枠」がある。入学はできても卒業は本国学生と同じで必死に勉強しないと卒業ができない。
久しぶりに私が現場に入ると言うことになった。民団大阪本部の現場に入った。
私の知らない教師、国際教育振興院から3人が説明会で来日した。
そして記事の中に留学する人たちのコメント取材もしなければならなかった。
驚いた。
今は総連系の民族学校の生徒たちや卒業生も留学できるという。
コメントをとる私が学校名を聞くと大阪や京都の朝鮮高校の生徒たちだった。保護者も一緒に参加していた。
朝鮮学校というと語学が堪能ときいているが韓国語と少し違うということで日本の国際交流では少し支障きたすとも言われている。
民族は同じ言葉も同じだが南北に分断された国は韓国内に入る北朝鮮のスパイを見分ける1つの手段として韓国は言葉を変えていった。
友だちはかつて昔は肩を組む友達から「オッケトンム」が「トンム」だったが韓国では「チング」に変えられた。他にもたくさんあると聞いている。
朝鮮高校を卒業して韓国籍に切り替えて国際交流事業で通訳として韓国訪問を何度もするが朝鮮学校で学んだ言葉が通用しないことに気がついた。また韓国語を1から猛勉強をした話しを本人から聞いたこともあった。
今や民団機関は2世から3世に変わり2世のほとんどは日本公立学校に就学したことから韓国語ができても流暢に話せない。国際交流の通訳ではこれまで韓国籍に切り替えた朝鮮学校の卒業生などがすることもあった。
しかし時代は変わり民団機関には3世の子どもたちが多く勤務している。
国際教育振興院に1年の語学留学をして大学に進み卒業して日本に戻ると民団機関などで仕事をするなど韓国語が生かされている。
時代が変遷している。
そして「韓流」で日本社会でも国際交流が盛んになり韓国訪問ツアーの旅行会社は韓国語堪能の人も採用されるようになってきた。
その社会状況で語学をさらに生かそうとする在日同胞の高校生たち、今韓国からの海外移住者が多くなったのか海外同胞が700万人になっているという。
海外同胞のことを「ヘウエトンポウ」という。
そして以外や以外、民団京都の青年会本部の元会長のHさんも参加していた。
「やっと働いて貯金をした。前からしたかった語学留学ができる。9ヶ月の語学留学だが日本に戻ったときはビジネスで生かしたいので今度の就職活動に生かしたい」と話していた。
もう1人、にこにこして私に挨拶する若者がいた。
ユニホームを着ていると顔と名前が一致するが私服になると見たような顔だという記憶があるのに名前が思い出せない。
説明会の終了後コメントを取りにいって名前を聞いて失礼なことをしてしまった。
京都韓国学校野球部で活躍する彼を何度も取材しているのに名前も誰かも記憶の中から遠ざかっていた。
両親の教育がわかる礼儀正しいⅠ君だった。
どんなときにも嫌な顔1つせず私の取材に答えてくれたⅠ君だった。
京都地方高校野球大会の組み合わせ抽選会場でキャップテンだったⅠ君が1番くじをひいた。
このとは私は会場にかけつけて写真をとった。カメラを持って前に行って日本の報道記者に「こら。どけ」と言われて怒られたこともあった。
それぐらい京都韓国学校の1番くじは日本の報道関係者にもあっと言わせた。
Ⅰ君は大会の「宣誓」に韓国語でした。
これも賛否両論だったがⅠ君は堂々と「宣誓」した。
それでもⅠ君は奢らず偉ぶることなく高校生活を続けて京都の私立大学D大学に推薦入学をした。日夜野球の練習に明け暮れている。1度は骨折したこともあったが治癒するとまた野球に没頭している。
今年3年という。来年は就職活動をしなければならない。
大阪市内の公立中学校を卒業した。子どもの頃から少年野球で野球をしてきた。野球部創設まもない京都韓国学校に入学させた両親の度量の深さそしてⅠ君はそれらに答えて真面目に創部まもない野球部を発展させてきた。この功績は学校にとってとてもすばらしい財産になった。
Ⅰ君は「語学留学をしてから就職活動がしたい。そのために野球部の退部は来年10月、それから1年休学して語学留学をする」という。
今時の若い男性、ふと心配になって「卒業生してから行ったら」と言ったら「語学留学をして戻ってから韓国に関係する会社に入りたいので1年休学する」といったときⅠ君は目標をきちんと持って将来に向かって進んでいるとわかった。
私は思わず「大学はちゃんと卒業せんとあかんよ」と言ったら「僕大丈夫です」と力強い言葉で私に言ってくれた。
私は思わず「野球という練習で根性ができているから大丈夫やね」と言った。
あいかわらず礼儀正しく私にきちんと挨拶をして会館を出て行った。
2人の青年の未来、前途明るい語学留学を心の中で祈っていた。
4年前、京都韓国学校は1条校認可で京都国際学校にかわったがⅠ君が「京都韓国学校に行ってよかった」という。
弟も勉強もスポーツがよく出来た。大阪私立の名門高校から京都韓国学校に転校して京都韓国学校の野球部に貢献した。弟もD大学に進んだ。
彼らだけではない。民団京都本部、そして京都の在日同胞が応援した。それに答えて監督や部員は練習に励みベスト16に入るまでの試合をしてきた。
創部した当時の部員の貢献はずっと後輩たちに語り継がれるだろう。
そしてⅠ君が語学留学をして日本に戻りD大学に復学して就職が決まったときにまた取材をしょう。そのときまで私は体に気をつけてⅠ君とふたたび合えることを楽しみにして仕事にがんばらないといけないという元気をもらった。
Ⅰ君の両親の真面目さがⅠ君を通して見えてくる。
きちんとした家庭教育は挨拶から。また挨拶の大事さを見直した。
久しぶりに入った現場、日々世界情勢が変わっていることも実感した。
そのときバレーで韓国系の学校にきていた日本人生徒が私に悩みを訴えた。
国際教育振興院は日本人生徒が入学できないといった。
私はその事実をまだ把握できていなくて担当者に話すと「国際教育振興院は在外同胞、つまり海外同胞500万人のために設立した国家施設なので日本人の語学留学は延世・高麗大学の語学堂に留学をして頂きたい」と話された。
国際教育振興院は寄宿舎もある。月謝なども他の語学堂に比べて少ない経費で留学できる。
1950年代に在日韓国人のために出来たソウル大学校の付属施設として語学研究所から始まりソウル大学校在外国民教育院になり現在の名称に変更されたのは1993年だった。
中国・ソ連(現在ロシア)と韓国は国交樹立したのを機会にグローバールな世界を目指して中国・ソ連の海外同胞も受け入れるようになった。
これを機会に寄宿舎は建て直しされて96年に現在の寄宿舎が完成した。
工事費用は韓国政府5000万円、民団中央本部5000万円が出されて建設された。これはたまたま完成した96年の4月、私は訪韓した。知人がここに勤務していたのでここを訪問して新寄宿舎を見学することになって取材をして日本に戻ったことがあった。
現在は在日同胞、朝鮮学校の卒業生、日本国籍であっても在日同胞にルーツをもつ学生たちも留学できる。留学は大学の予備機関としての長期留学(1年)そして韓国に触れて自分探しをする短期留学(3ヶ月や半年コース)がある。
大学入学は「在日」の「特別枠」がある。入学はできても卒業は本国学生と同じで必死に勉強しないと卒業ができない。
久しぶりに私が現場に入ると言うことになった。民団大阪本部の現場に入った。
私の知らない教師、国際教育振興院から3人が説明会で来日した。
そして記事の中に留学する人たちのコメント取材もしなければならなかった。
驚いた。
今は総連系の民族学校の生徒たちや卒業生も留学できるという。
コメントをとる私が学校名を聞くと大阪や京都の朝鮮高校の生徒たちだった。保護者も一緒に参加していた。
朝鮮学校というと語学が堪能ときいているが韓国語と少し違うということで日本の国際交流では少し支障きたすとも言われている。
民族は同じ言葉も同じだが南北に分断された国は韓国内に入る北朝鮮のスパイを見分ける1つの手段として韓国は言葉を変えていった。
友だちはかつて昔は肩を組む友達から「オッケトンム」が「トンム」だったが韓国では「チング」に変えられた。他にもたくさんあると聞いている。
朝鮮高校を卒業して韓国籍に切り替えて国際交流事業で通訳として韓国訪問を何度もするが朝鮮学校で学んだ言葉が通用しないことに気がついた。また韓国語を1から猛勉強をした話しを本人から聞いたこともあった。
今や民団機関は2世から3世に変わり2世のほとんどは日本公立学校に就学したことから韓国語ができても流暢に話せない。国際交流の通訳ではこれまで韓国籍に切り替えた朝鮮学校の卒業生などがすることもあった。
しかし時代は変わり民団機関には3世の子どもたちが多く勤務している。
国際教育振興院に1年の語学留学をして大学に進み卒業して日本に戻ると民団機関などで仕事をするなど韓国語が生かされている。
時代が変遷している。
そして「韓流」で日本社会でも国際交流が盛んになり韓国訪問ツアーの旅行会社は韓国語堪能の人も採用されるようになってきた。
その社会状況で語学をさらに生かそうとする在日同胞の高校生たち、今韓国からの海外移住者が多くなったのか海外同胞が700万人になっているという。
海外同胞のことを「ヘウエトンポウ」という。
そして以外や以外、民団京都の青年会本部の元会長のHさんも参加していた。
「やっと働いて貯金をした。前からしたかった語学留学ができる。9ヶ月の語学留学だが日本に戻ったときはビジネスで生かしたいので今度の就職活動に生かしたい」と話していた。
もう1人、にこにこして私に挨拶する若者がいた。
ユニホームを着ていると顔と名前が一致するが私服になると見たような顔だという記憶があるのに名前が思い出せない。
説明会の終了後コメントを取りにいって名前を聞いて失礼なことをしてしまった。
京都韓国学校野球部で活躍する彼を何度も取材しているのに名前も誰かも記憶の中から遠ざかっていた。
両親の教育がわかる礼儀正しいⅠ君だった。
どんなときにも嫌な顔1つせず私の取材に答えてくれたⅠ君だった。
京都地方高校野球大会の組み合わせ抽選会場でキャップテンだったⅠ君が1番くじをひいた。
このとは私は会場にかけつけて写真をとった。カメラを持って前に行って日本の報道記者に「こら。どけ」と言われて怒られたこともあった。
それぐらい京都韓国学校の1番くじは日本の報道関係者にもあっと言わせた。
Ⅰ君は大会の「宣誓」に韓国語でした。
これも賛否両論だったがⅠ君は堂々と「宣誓」した。
それでもⅠ君は奢らず偉ぶることなく高校生活を続けて京都の私立大学D大学に推薦入学をした。日夜野球の練習に明け暮れている。1度は骨折したこともあったが治癒するとまた野球に没頭している。
今年3年という。来年は就職活動をしなければならない。
大阪市内の公立中学校を卒業した。子どもの頃から少年野球で野球をしてきた。野球部創設まもない京都韓国学校に入学させた両親の度量の深さそしてⅠ君はそれらに答えて真面目に創部まもない野球部を発展させてきた。この功績は学校にとってとてもすばらしい財産になった。
Ⅰ君は「語学留学をしてから就職活動がしたい。そのために野球部の退部は来年10月、それから1年休学して語学留学をする」という。
今時の若い男性、ふと心配になって「卒業生してから行ったら」と言ったら「語学留学をして戻ってから韓国に関係する会社に入りたいので1年休学する」といったときⅠ君は目標をきちんと持って将来に向かって進んでいるとわかった。
私は思わず「大学はちゃんと卒業せんとあかんよ」と言ったら「僕大丈夫です」と力強い言葉で私に言ってくれた。
私は思わず「野球という練習で根性ができているから大丈夫やね」と言った。
あいかわらず礼儀正しく私にきちんと挨拶をして会館を出て行った。
2人の青年の未来、前途明るい語学留学を心の中で祈っていた。
4年前、京都韓国学校は1条校認可で京都国際学校にかわったがⅠ君が「京都韓国学校に行ってよかった」という。
弟も勉強もスポーツがよく出来た。大阪私立の名門高校から京都韓国学校に転校して京都韓国学校の野球部に貢献した。弟もD大学に進んだ。
彼らだけではない。民団京都本部、そして京都の在日同胞が応援した。それに答えて監督や部員は練習に励みベスト16に入るまでの試合をしてきた。
創部した当時の部員の貢献はずっと後輩たちに語り継がれるだろう。
そしてⅠ君が語学留学をして日本に戻りD大学に復学して就職が決まったときにまた取材をしょう。そのときまで私は体に気をつけてⅠ君とふたたび合えることを楽しみにして仕事にがんばらないといけないという元気をもらった。
Ⅰ君の両親の真面目さがⅠ君を通して見えてくる。
きちんとした家庭教育は挨拶から。また挨拶の大事さを見直した。
久しぶりに入った現場、日々世界情勢が変わっていることも実感した。
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