薫る5月、若葉の5月、萌える5月、子どもの頃の季節は自然がいっぱいだった。学校で習ってきた歌、「鮮やかな緑よ。明るい緑よ。鳥居をつつみ藁屋を隠しかおる かおる若葉が薫る」と口からこんな歌が出たものだった。
自然がいっぱいの中で育った。
かつて佐紀町に住んでいた時は山に近く近所の百貨店に自転車で買物に行く時に通る山道の木々にそんな歌がでたものだった。
ここ10年は温暖化気象でさわかな日々が少なくなってしまった。
私は近年、家から見える高円山の樹木の茂りにそう思い近鉄奈良駅から見える若草山に爽やかさを感じる程度になった。
またもう一気に暑くなっていく。
梅雨に入ると蒸し暑い暑さで閉口しながら夏を迎えていく。
緑の景色を少し郊外にいかないと見られない。
そういえば昨日4月29日は「緑の日」でなくて「昭和の日」という。
「昭和の日」日本は朝鮮半島を侵略し中国満州も占領した。そして日清戦争から朝鮮半島はロシアと日本の侵略に巻き込まれ朝鮮半島は「悪運」の始まりだった。第一次世界大戦、第二次世界大戦そして史上初めて広島・長崎に原爆が投下されて戦争は終った。
廃墟になった日本は自国を生きるのに必死だった。
朝鮮半島は植民地支配から解放されたけれど国は南北分断になりまたこれから「悲運」の歴史が始まった。
在日コリアンもこれに比例して思想分裂の激論は家族を破壊していった。
この現実は日本人が知らない。
在日コリアンも韓国人も犠牲になって日本の今日を築いたと言っても過言ではない。財を成した人の納税、日本経済構築に寄与してきた。そして一般人も納税をして日本を支えた。もちろん日本人も企業戦士のように働いた。しかしその裏で当時の政権は在日コリアンという弱者は切り捨てた。
北朝鮮に送られた同胞たちも当時の日本の政権の考えで口減らしだった。
日本に残ったものはさらに追い込まれて国籍条項を作り就職差別に入居差別に公的受給制度にも枠を作った。
この中に日本の今日がある。
しかし在日コリアンの1世はそれにもめげず日本人のやらない仕事を生業にして財を築いた。
1世の生きる力、底力の一端で日本の経済構築に寄与してきた。
3世、4世になると1世のこうした歴史を見ることも少なくなった世代、心の中で「絶対に日本人を許さない」という強い気持は知ることはできないだろう。
「自活」するんだ。その勢いで日本の戦後も在日コリアンは日本で生きてきた。貧しい中でも子弟たちを最高学府まで行かせて在日コリアンのパワフルを日本人に伝え力がつくと行政機関に制度改革の要望活動に奔走した。
2世は1世の生き様を真似ることはできないが日本で負けられないという心意気は1世の背中から教わってきた。
「昭和の日」と言う言葉に少し躊躇するのが在日コリアンの2世たちだろう。
3世はそう心に痛みを感じることはないだろう。
しかし日本人の脳裏には第2次世界大戦で親や兄弟を失い農地改革で農地も少なくなった人たちには「昭和の日」というと「激動の時代」と言う言葉が脳裏に入ってくるだろう。
日本の天皇の先祖は古代朝鮮半島からの子孫である。
この史実を知らせないために未だに宮内庁管轄の史跡には踏み込んで入ることができない。美しい日本の象徴するところの御所や二条城の見学はできてもそれ以上にできない。
奈良の都、平城宮跡、聖徳太子は朝鮮半島から技術者を呼び寄せて都を築いた。このことをもっと奈良市民にも浸透させたてもらいたい。
中国は貢外交で聖徳太子は貢外交を嫌って中止した。対等に付き合える朝鮮半島の技術者を奈良に呼んだ。奈良にある文物や伝来のほとんどは朝鮮半島である。
未だにテレビニュースや新聞ニュースでも発掘されたりすると「これは中国から伝わった物」といい神社仏閣のニユースでも「これは中国から伝わった物」と言っている。もういい加減にこのへんはもっと関係者は勉強してきちんと伝えてもらいたい。
そして日本が朝鮮半島を植民地支配するときに日本人に植民地統治をマイドコントロールする1つの手段として朝鮮人の優れた民族の反対を取ってすべて蔑視に見立てる言葉作りをしたことである。日本津々浦々にこれを伝えて朝鮮人蔑視という国をかけて偽りの宣伝をした。この史実材料を掘り下げて今日の市民に教えてもらいたい。
先日、取材先で1人の日本人が言った。
「中国との外交は貢外交で日本から中国に貢ぐことで外交関係ができたが聖徳太子は貢外交を嫌ってとりやめた。対等に付き合える朝鮮半島の新羅から多くの技術者を呼んで平城の都を作ったのです」と話した。
日本人も勉強と研究を重ねて史実をはっきり話す人がいる。
そして先日、大阪在住の民団関係者が行った。
「昔のことを思うと差別ということはなくなりました。行政も差別という対応は少なくなっています。しかし日本人の意識は昔からちっとも変わっていません」と話す。この人の話しには信憑性がある。
済州道の4・3事件に巻き込まれて日本に密航してきた。そして日本でずっと暮らしてきた。言葉には韓国訛りがある。生野区で暮らしてきた日本人意識をずっと見てこられた。話に実感があった。
「日本人の意識は何も変わっていない」
この言葉は私の胸に刺さるほど痛かった。この言葉は忘れてはいけない。
何かあるとこの言葉は次世代に伝えていかなければならない。そう思っている。
たぶん、この言葉を発言した人は「昭和の日」というと苦痛で顔が歪むだろう。
分断国家になっていなかったらアメリカが済州道に入ってきて済州道民をかたっぱしから北朝鮮のスパイとして捕らえていったという4・3事件、分断国家でなかったら日本に来ることもなかっただろうに。
現在の天皇陛下は「桓武天皇」の母君は高野にい笠という。渡来人で武寧王の子孫と話された。
このことで少し心が軽くなっている人がいるだろう。
皇室で行われている数々の祭事は古く朝鮮半島から伝わった儀式だと思っている。ある程度日本式に変化されているだろうが儀式はそう簡略化できなくて今も古式にのった儀式が行われていると考えている。
靖国神社にこだわった昭和天皇の胸中も少しだけ理解できそうだ。
難しいことは分からないがここには植民地支配された朝鮮人の兵士も眠っているというが私は複雑な気持になる。
「昭和の日」、私は昭和と言う時代を生きてきたが昭和と言う言葉に学校時代を過ごした懐かしい時代と日本が高度経済成長に入った時代、そんなに苦労を知らずにきた。しかし1世の苦労があるから2世、3世が生きていると考えている。
「昭和の日」と言う言葉に少し心は複雑になった。
何かもっと多くの人に受け止めてもらえる言葉にできなかったのでしょうかね。
自然がいっぱいの中で育った。
かつて佐紀町に住んでいた時は山に近く近所の百貨店に自転車で買物に行く時に通る山道の木々にそんな歌がでたものだった。
ここ10年は温暖化気象でさわかな日々が少なくなってしまった。
私は近年、家から見える高円山の樹木の茂りにそう思い近鉄奈良駅から見える若草山に爽やかさを感じる程度になった。
またもう一気に暑くなっていく。
梅雨に入ると蒸し暑い暑さで閉口しながら夏を迎えていく。
緑の景色を少し郊外にいかないと見られない。
そういえば昨日4月29日は「緑の日」でなくて「昭和の日」という。
「昭和の日」日本は朝鮮半島を侵略し中国満州も占領した。そして日清戦争から朝鮮半島はロシアと日本の侵略に巻き込まれ朝鮮半島は「悪運」の始まりだった。第一次世界大戦、第二次世界大戦そして史上初めて広島・長崎に原爆が投下されて戦争は終った。
廃墟になった日本は自国を生きるのに必死だった。
朝鮮半島は植民地支配から解放されたけれど国は南北分断になりまたこれから「悲運」の歴史が始まった。
在日コリアンもこれに比例して思想分裂の激論は家族を破壊していった。
この現実は日本人が知らない。
在日コリアンも韓国人も犠牲になって日本の今日を築いたと言っても過言ではない。財を成した人の納税、日本経済構築に寄与してきた。そして一般人も納税をして日本を支えた。もちろん日本人も企業戦士のように働いた。しかしその裏で当時の政権は在日コリアンという弱者は切り捨てた。
北朝鮮に送られた同胞たちも当時の日本の政権の考えで口減らしだった。
日本に残ったものはさらに追い込まれて国籍条項を作り就職差別に入居差別に公的受給制度にも枠を作った。
この中に日本の今日がある。
しかし在日コリアンの1世はそれにもめげず日本人のやらない仕事を生業にして財を築いた。
1世の生きる力、底力の一端で日本の経済構築に寄与してきた。
3世、4世になると1世のこうした歴史を見ることも少なくなった世代、心の中で「絶対に日本人を許さない」という強い気持は知ることはできないだろう。
「自活」するんだ。その勢いで日本の戦後も在日コリアンは日本で生きてきた。貧しい中でも子弟たちを最高学府まで行かせて在日コリアンのパワフルを日本人に伝え力がつくと行政機関に制度改革の要望活動に奔走した。
2世は1世の生き様を真似ることはできないが日本で負けられないという心意気は1世の背中から教わってきた。
「昭和の日」と言う言葉に少し躊躇するのが在日コリアンの2世たちだろう。
3世はそう心に痛みを感じることはないだろう。
しかし日本人の脳裏には第2次世界大戦で親や兄弟を失い農地改革で農地も少なくなった人たちには「昭和の日」というと「激動の時代」と言う言葉が脳裏に入ってくるだろう。
日本の天皇の先祖は古代朝鮮半島からの子孫である。
この史実を知らせないために未だに宮内庁管轄の史跡には踏み込んで入ることができない。美しい日本の象徴するところの御所や二条城の見学はできてもそれ以上にできない。
奈良の都、平城宮跡、聖徳太子は朝鮮半島から技術者を呼び寄せて都を築いた。このことをもっと奈良市民にも浸透させたてもらいたい。
中国は貢外交で聖徳太子は貢外交を嫌って中止した。対等に付き合える朝鮮半島の技術者を奈良に呼んだ。奈良にある文物や伝来のほとんどは朝鮮半島である。
未だにテレビニュースや新聞ニュースでも発掘されたりすると「これは中国から伝わった物」といい神社仏閣のニユースでも「これは中国から伝わった物」と言っている。もういい加減にこのへんはもっと関係者は勉強してきちんと伝えてもらいたい。
そして日本が朝鮮半島を植民地支配するときに日本人に植民地統治をマイドコントロールする1つの手段として朝鮮人の優れた民族の反対を取ってすべて蔑視に見立てる言葉作りをしたことである。日本津々浦々にこれを伝えて朝鮮人蔑視という国をかけて偽りの宣伝をした。この史実材料を掘り下げて今日の市民に教えてもらいたい。
先日、取材先で1人の日本人が言った。
「中国との外交は貢外交で日本から中国に貢ぐことで外交関係ができたが聖徳太子は貢外交を嫌ってとりやめた。対等に付き合える朝鮮半島の新羅から多くの技術者を呼んで平城の都を作ったのです」と話した。
日本人も勉強と研究を重ねて史実をはっきり話す人がいる。
そして先日、大阪在住の民団関係者が行った。
「昔のことを思うと差別ということはなくなりました。行政も差別という対応は少なくなっています。しかし日本人の意識は昔からちっとも変わっていません」と話す。この人の話しには信憑性がある。
済州道の4・3事件に巻き込まれて日本に密航してきた。そして日本でずっと暮らしてきた。言葉には韓国訛りがある。生野区で暮らしてきた日本人意識をずっと見てこられた。話に実感があった。
「日本人の意識は何も変わっていない」
この言葉は私の胸に刺さるほど痛かった。この言葉は忘れてはいけない。
何かあるとこの言葉は次世代に伝えていかなければならない。そう思っている。
たぶん、この言葉を発言した人は「昭和の日」というと苦痛で顔が歪むだろう。
分断国家になっていなかったらアメリカが済州道に入ってきて済州道民をかたっぱしから北朝鮮のスパイとして捕らえていったという4・3事件、分断国家でなかったら日本に来ることもなかっただろうに。
現在の天皇陛下は「桓武天皇」の母君は高野にい笠という。渡来人で武寧王の子孫と話された。
このことで少し心が軽くなっている人がいるだろう。
皇室で行われている数々の祭事は古く朝鮮半島から伝わった儀式だと思っている。ある程度日本式に変化されているだろうが儀式はそう簡略化できなくて今も古式にのった儀式が行われていると考えている。
靖国神社にこだわった昭和天皇の胸中も少しだけ理解できそうだ。
難しいことは分からないがここには植民地支配された朝鮮人の兵士も眠っているというが私は複雑な気持になる。
「昭和の日」、私は昭和と言う時代を生きてきたが昭和と言う言葉に学校時代を過ごした懐かしい時代と日本が高度経済成長に入った時代、そんなに苦労を知らずにきた。しかし1世の苦労があるから2世、3世が生きていると考えている。
「昭和の日」と言う言葉に少し心は複雑になった。
何かもっと多くの人に受け止めてもらえる言葉にできなかったのでしょうかね。
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