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「雨降山」と書いて「あぶりさん」と読む。あぶりさん、おおやまでら。
天平勝宝7年(755年)、良弁による開山とあってなかなかに由緒ある真言宗のお寺。
孝謙天皇の御代、ということになります。
女坂の途中に「弘法大師が爪で彫った」とされる「爪切り地蔵」なるお地蔵さんがいらっしゃいますが、これはまったく所縁がない話ではないそうで。第三世住職として、弘法大師がこの山にやってきたという由。数々の伝説逸話が全国に伝えられているのが弘法大師なのですけど、世に「弘法大師が住職だった」と伝えられているお寺はいくつもありません(たぶん、ね)。
江戸時代、阿夫利神社を参拝する「大山講」が庶民の間で大流行していたけれど、それより少し前、大山寺は幕府の庇護が厚く、春日局が祈りのために籠られたということもあって、「大山不動参り」と「大山講」は一緒になって発展していった、とは言えそうです。多くの神社がそうであったように、ここもまた大山寺が「大山石尊権現」を保護してきたという経緯がある。
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伽藍はもともと、現在の阿夫利神社下社の位置にあったとのこと。直接的には廃仏毀釈の影響があって現在の場所へと移り、再興された。往時の様子とは違うのでしょうけど、それでもかなり立派な構えです。
春日局が家光の世継ぎを祈願したという話は、すぐ近くにある日向薬師に北条政子が安産祈願に訪れたという話に親しい雰囲気を感じます。
日向薬師が霊亀2年(716年)、行基による開山とされていますから、これは元正天皇の御代。行基開山というのは言い伝えで、発掘などで証明されていないということですが、それでも「行基開山」が伝えられてきたことの意味は消えるものではありません。不思議なつながりだと思うのですけど、大山で由緒あるふたつのお寺は、日本史上でも8人10代しかいない女帝の時代の開山とされているのです。
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そういう由来が関係あるのか、ないのか。
大山寺へと続く山道が「女坂」と呼ばれていることには、ある種の必然性があるように思われてきます。
女坂のお地蔵さん
Untitled #371
Untitled #372
Untitled #373
Untitled #374
彼岸花
三椏